風の日のキーホルダー③
…そこは、至って普通の一軒家だった。
「えっと…。ちょっとお母さんに話をしてくるから、少しだけ待っててもらえるかな」
「え、えぇ…」
建物の中に入っていった﨑森さんが、廊下の奥へと姿を消す。
…お、落ち着かない。
あまり視線を彷徨わせるのもどうかと思ったが、じっとしているのも落ち着かずにキョロキョロとしていると、穏やかな表情をした﨑森さんが玄関まで戻ってきた。
「お母さんには話ができたから、上がっていいよ」
「ほ…本当にいいの?」
「大丈夫。ほら、上がって」
﨑森さんの言葉に、私は遠慮気味に靴を脱ぐと、﨑森さんの家に足を踏み入れた。
「…お母さん。こっち、積谷令那さん」
リュックを下ろして、そっとリビングに入ると、いきなり﨑森さんがそんな風に紹介を始めた。
「ちょ、ちょっと﨑森さん、そんな急に始めなくても…!」
「あらあら、黄乃ちゃんのお友達?ふふ、はじめまして」
慌てる私の前に姿を現したのは、長身の柔らかい雰囲気を纏った女性。
「黄乃の母です。ようこそ、﨑森家へ」
「あっ…。は、はじめまして。夜分に申し訳ありません。私、積谷令那と申します」
「積谷…積谷って、どこかで聞いたことがあるような…」
首を傾げるお母様に対し、私は、「もしかしたら…」と補足を加えた。
「私の両親が、病院に勤めているんです。もし罹ったことがあるのなら、その時に父や母ともお会いしているのかもしれません」
「あぁ、思い出したわ。確か、駅前の病院の院長さんよね?てことは、あなたもお医者さんを目指しているのかしら?」
「…まぁ、そんなところです」
私の言葉に、「まぁ、すごいわね…!」と微笑む﨑森さんのお母様。
…﨑森さんとは違い、ずいぶんと表情が豊かみたいだ。
「あら、立ち話をさせちゃってごめんなさいね。そろそろお夕飯の準備が終わるから、椅子に座って待っていてもらえる?」
「何か、お手伝いしましょうか」
「いいえ、大丈夫よ。黄乃ちゃんがお客様を連れてくるなんて、なかなかないことだもの。せっかくなんだから、ゆっくりくつろいでいて」
そう言われ、朗らかな笑顔を向けられてしまえば、断る術などない。私は﨑森さんと目配せすると、ダイニングの椅子に腰を落ち着けた。
しかし、特に話題もないため、ただその場には沈黙のみが漂っている。
じっと待っていると、次々と美味しそうな料理が食卓に運ばれてきた。生ハムとトマトの載ったサラダに、コーンポタージュ、バターの塗られた焼き魚に…――
「あ…」
大皿に盛られた大量の唐揚げを目にして、なぜだか少しだけ胸が痛んだ。
「お母さん…。なんか、今日も量、多くないかな…?」
「ふふ、お客様が来るっていうから、気合入っちゃったのかしらね?」
「いや、私達が帰ってくるまでの間に、唐揚げ以外はできてたはずだよね…」
﨑森さんの問いに、お母様が「細かいことは気にしないの~」と笑う。
なんというか…ずいぶん、大らかな人なのね。少し天然っぽさもあるけれど…。
うちとは縁遠い人柄に、若干戸惑う。
「じゃあ、手を合わせて。いただきまーす」
「いただきます」「い、いただきます…」
箸を手に取り、サラダを口に運ぶ。
優しい味付けのドレッシングの香りが、口いっぱいに広がった。
「令那ちゃんは、黄乃ちゃんとはどういう関係なの?クラスメイト?」
「あ、えと…」
唐突にそんなことを尋ねられ、何と答えれば良いのか悩んでしまう。
…そういえば、私達は、一体どういう関係なのだろう。
クラスメイトではもちろんないが、友達…と一言で括ってしまっていいものなのか、よく分からない。彼女のことを知って早数カ月、それなりに打ち解けているとは思うが、私は彼女のことをよく知らないのだし。
「…クラスは違うんですけれど、友人です」
ひとまず、当たり障りのないことを言っておく。
「そうなのねぇ…。嬉しいわ。黄乃ちゃんに、ようやくお友達ができて」
「え……?」
「今まで、こんなことなかったから。お母さん、長いこと心配してて…――」
「――お母さん」
横から、乾いた声が聞こえてきた。
見ると、﨑森さんが茶碗の上に箸を置いて、自らの母親のことをじっと見つめていた。
「その話は…今は、やめようよ。積谷さんも、聞きたくないだろうし…」
「それも…そうね。ごめんなさいね、令那ちゃん。嫌になっちゃうわねぇ、一人娘だと、どうしても過保護になっちゃって」
「は、はい…」
困ったようにはにかむお母様。﨑森さんは、黙々と食事を再開している。
…今、少しだけ空気が…。
一瞬張り詰めた緊張感がどうにも不快で、私は別の話題を切り出すことにした。
「﨑森さんのお家は、その…お夕飯の時間が遅めなんですね」
「そうねぇ。私も仕事があるから、あんまり早くにご飯を用意してあげられなくて。普段は黄乃ちゃんがある程度準備を進めておいてくれてるんだけど、今日は急に唐揚げが食べたくなっちゃって、その材料を買い足しに行ってもらっちゃってたから、余計にねぇ」
「へぇ…」
つまり、普段の夕飯の支度は、﨑森さんが担っているということなんだろうか。
そう思い彼女の方をちらりと見ると、﨑森さんは焦ったように腕を振り、
「ぜ、全然違うよ!?」
と否定した。
「確かに、お米炊いたりとかはしてるけど…。でも私、不器用だから、包丁とか全然扱えないし…」
「でも、最近は黄乃ちゃん、果物の皮剥いたりとか、できるようになってきてるじゃない?やっぱり、継続って大事なんだって、お母さんは思うわよ?」
「それは…。でも、積谷さんの方が、そういうの上手そうだなって思うけど…」
「え、私…?」
脳裏に描かれるのは、いつもキッチンに立って食事の準備をしてくれている安西さんの姿。そこに、私の出る幕はない。
「…私は、全然料理できないわよ」
「え、そうなの…?」
「そうよ。普段、家の料理は、大体お手伝いさんが作ってくれてたし…」
「え、お手伝いさん…!?」
驚いたように目を見開いた﨑森さんが、こちらに興味深げな視線を向けてくる。
「すごい…。お手伝いさんのいるお家なんて、本当にあるんだ…」
「それはそうでしょう。積谷さんのお父様はお医者様で、しかも総合病院の院長さんなんだから!うちなんて比較にならないぐらいのお金があるんでしょうねぇ…」
「そ、そんなことは、ないと思います…」
控えめに否定したけれど、おそらく世間一般の目で見れば、うちは十分裕福な方だ。両親の収入に加え、須上家――操のご両親からの支援金もあり、何不自由ない生活を送れている。
むしろ、須上家の支援の方が、うちの家計を支える大きな力になっていると言っても過言ではない。
…何はともあれ、﨑森家のそんな認識は、何も間違ってはいないだろう。
「でも、﨑森さんだって、その…お金に困っているとか、そういうことではないのですよね…?」
「そんなことないわよ。うちは働けるのが私1人だけだから。女手1つで育てるっていうのも、案外大変でね」
「え…」
﨑森さんの方を見ると、彼女はスッと私から視線を逸らし、リビングの一点に目をやった。
彼女の視線の先――小棚の上に置かれていたのは、古びた木製の写真立て。
その中には、家族3人仲睦まじい様子で映っている、少し色の褪せた写真が収められていた。
「…良かったら令那ちゃんも、後で手を合わせてあげてくれないかしら?きっと、あの人も喜ぶと思うから」
「あ…」
お母様が、どこか遠い目をしながら、そう呟く。その瞳が悲し気に揺れるのを、私は見ていることができなかった。
…うちとは違う、温かな家庭だと、思っていたのに。
どこに家にも、物悲しい背景があるものなのだと、私は強く実感してしまった。
チ――――ン………。
﨑森さんが、鈴を鳴らし、私は彼女の横で、そっと目を瞑りながら手を合わせた。
仏壇の中には、穏やかに笑っている、﨑森さんのお父様の写真が納められている。
「…もう、3年経つのかな。お父さんが、この世を去ってから」
「……」
﨑森さんのお母様は、私達に代わり食事の片付けをしてくれている。2人しかいない小さな和室で、﨑森さんはぽつりぽつりと語り始めた。
「お父さんはね、海で働いてたんだ。毎日のように船に乗って…。だから私達は、元々海の近い田舎に住んでた」
彼女から、こっちに引っ越してくる前の話が出てきたのは初めてだった。一言も聞き漏らせない、不思議とそんな気がして、自然と耳を傾ける。
「でも…ある日、嵐が来ちゃって。もちろん、そんなのお父さん達は慣れてるから、まぁ何とかするよって言って、普通にお仕事に行って…。でも、その日の雨は、簡単に凌げるようなものじゃなかったんだ」
「何か、災害があったってこと…?」
「災害級の大雨…って言った方がいいかな。うちの周辺には、川もいっぱいあったから。あちこちで堤防が決壊して、うちにも水が流れ込んできて…。幸い私達は避難所に逃げてたから良かったけど、海に出てたお父さん達は違った。その日は、1度も連絡を取ることができなかった」
「……」
「次の日に、なんとかお母さんが連絡を取ることに成功して…でも、その相手は、お父さんじゃなかった。お父さんは…大雨の中、船を港に泊めて、急いで車を走らせてて…その最中、交通事故で……」
「……」
「…なんか…何とも言えない気分だったな。お父さんが急にいなくなっちゃった寂しさももちろんあったけど…。川の氾濫に巻き込まれたとか、船が壊れちゃって海で溺れちゃったとか、そういう理由でも何でもなくて、ただの…事故で、呆気なく…って」
「……」
彼女の言葉が、重たく胸に響く。
何も言うことができなくて、私はずっと口を噤んでいた。
「…お父さんがいなくなってから、お母さんはすごく、その…荒れちゃって。だからそれもあって、私は逆に冷静でいられたっていうか…。ほんと、感情のない娘だって、お父さんには怒られちゃいそうだけど」
「あのお母様が…?それは、少し意外ね…」
「うん…。お母さん、お父さんのこと、大好きだったから」
…大切な人を、突然失う悲しみ。
いつ来るか分からないその時は…もしかしたら、もうすぐそこまで迫っているのかもしれない。
「それで、お母さんと2人で生活することになっちゃったんだけど、なかなか上手くいかなくて…。お金も全然なくなっちゃって、大変だったんだ。だからひとまず、お母さんがちゃんと落ち着いて働ける場所を探そうってことになって、今の場所に引っ越してきたんだ。ほら、私が元々住んでいたところに比べたら、ここの方が全然栄えてるから」
「そうだったのね…」
「それに…あそこに留まってると、お母さんは…きっと、前に進めてなかったから」
彼女の話に、小さく頷く。余程苦しい状態だったのだろう。
経済的にも精神的にも追い詰められ、どうすることもできなかったに違いない。
気持ちを入れ替えるために、町を出る――その判断は、決して悪いものではなかったのだろうと思った。
…しかし、そこでふと違和感を覚えた。
彼女の言っていることに間違いがないのなら、彼女が父を亡くしたのは3年前。それからどのくらいの時差があったのかは分からないが、﨑森さんの話を聞いている感じだと、当時はかなり苦しい生活を送っていたはず。だとしたら、お父様を亡くしてからこちらに引っ越してくるまでの間に、そこまで時間は経っていないんじゃないだろうか。
しかし、彼女が私達の通う小学校に転校してきてから、まだ半年も経っていない。そこには、明らかに不自然な空白がある。
何か、小学校に通うことのできない、特別な事情があったのか…あるいは、彼女は元々、別の小学校に通ってた…?そんな憶測が、頭の中で勝手に繰り広げられる。
「あの、積谷さん…?」
「えっ…。あ、あぁ、ごめんなさい。少し、考え事をしてしまって…」
「ううん。むしろ、私の話に付き合わせちゃって、ごめんね。自分のことばっか話しちゃって…」
「そんなことないわ。…こんな風に、誰かの心の内に触れる機会なんて、今までなかったから…すごく、新鮮だった」
「積谷さん…」
「…そ、そろそろ、リビングに戻りましょう。きっと、片付けも終わっていると思うし…」
何となく照れ臭くなり、﨑森さんに背を向けて和室を出ようとする。後ろから﨑森さんの、
「…うん。そうしようか」
という、柔らかく落ち着いた声が聞こえてきた。
「…えっと…ようこそ、って言えばいいのかな」
それから、約1時間後。すっかり夜は更け、日付が変わろうとしている。
入浴を済ませ、彼女から借りたパジャマに身を包んだ私は、﨑森さんの使っている部屋に招き入れられていた。
「と、友達を呼んだことなんてないから、なんか…緊張しちゃうな…」
「そう?よく片付けられていると思うけれど」
というより、物が過剰に少ない気がするけれど。
私の部屋もそこまで物は多くない方だけれど、可愛らしいインテリアとは相反する生活感のなさに、どこかちぐはぐな印象を受ける。
「とりあえず、布団は用意したから…。これで寝てもらってもいいかな?」
「えぇ…。何から何まで、申し訳ないわね」
「ううん、大丈夫だよ」
﨑森さんの言葉に甘え、来客用に用意されたのであろう布団を床の上に丁寧に広げていく。
「あの…積谷さんって、普段何時ぐらいに寝る人…?」
「え…?そうね、大体日付が変わるのと同時ぐらいかしらね…」
塾から帰ってきて、ご飯を食べてお風呂に入って…その後は、自室で授業の復習をしていることが多いから、大体そのぐらいの時間になることが多い。
そう告げると﨑森さんは、「じゃあ、そろそろ消灯する?」と言って、部屋の電気のスイッチに手を伸ばした。
「…まぁ、そうね。特にやることもないし、そうしましょうか」
「うん。…じゃあ、消すね」
ピッ。
小さな機械音がして、部屋が真っ暗になる。
私が布団に潜ると、彼女も自分のベッドの上に横になったのが音で分かった。
「……」
「……」
…静か、ね…。
今から寝ようとしているから、当たり前といえば当たり前なのだけれど、普段と違う環境だからか、妙に目が冴えている。
…そういえば、ここに来てから、1度も携帯をチェックしていなかった。もしかしたら、何か連絡が来ているかもしれない。
私の両親。安西さん。あるいは…――
「……っ」
…今、それを確認したら、もう今夜は眠れない気がする。
考えを打ち消すように布団に顔を埋めると、横から﨑森さんの声が聞こえてきた。
「…どうかしたの?積谷さん…」
「……」
彼女の問いかけに、私は答えない。暗闇の中、﨑森さんが語り掛けてくる。
「…積谷さん。明日は、どうする?」
「ぇ…」
「今日は、私の家に泊まってるからいいけど…明日はどうする?もう1日、うちに泊まる…?」
「そ、れは…」
…分かってる。
いつまでも、彼女と、彼女のお母様の厚意に甘えているわけにはいかないって。
でも、今晩はもう、そんな余計なことは考えたくなくて…明日になれば、きっと何か打開策が思いついているはず。
そんな希望的観測に縋っている自分が、確かにそこにいた。
「…積谷さん。何があったの…?」
「……」
「ごめんね。言いたくないことだって、分かってはいるんだけど…。やっぱり、気になっちゃった。ごめんね。私、さっき積谷さんに言ったことと、逆のことやってる」
おそらく、私が﨑森さんに偶然街中で出会った時のことを言っているのだろう。あの時の彼女は、私が話したがっていないことを、無理に聞き出そうとはしなかった。だからこそ、私は彼女を信用してついてきたのだ。
でも、今は違う。彼女の声に、そんな甘やかな同情は、もうない。
「私も、お母さんも、積谷さんが何日ここにいたって、全然嫌じゃないよ。むしろ、嬉しいなって思う。でも…そういうわけにもいかない、よね…?」
「……」
「…ちょっとだけでもいいから。積谷さんの思ってることを、教えてくれないかな…?」
――ふと、自宅に帰ってから、操に言われたことを思い出した。
『僕は令那に、もっと色んなことを話してほしいって思うよ』
「……」
…彼女なら。
操の言いたかったことも、少しは分かるのかしらね…。
「…私も、よく分からない」
「え…?」
「ただ、操に言われたの。私は、私自身のことが理解できていないって。このままじゃ、操の伝えたいことは、私には一生伝わらないって…」
「……」
「でも…私には、分からないわ…。操の考えてることも、私自身の…感情も…全部…」
そう言って、私はより深く布団の中に潜り込んだ。
自分のことは、自分が1番よく分かっていると思っていた。
でも、今の私は、自分が何を望んでいるのか分からない。彼のどの言葉に苛立ちを覚えて、何に抗おうとしたのか。どうして今、こんな風に友人の家に逃げ込んできてしまっているのか。
全てを論理的に説明しようと思えば思うほど、心の隅にあるしこりが邪魔をして、確かな答えを導き出すことができなくなる。
言葉を詰まらせた私に対し、﨑森さんは静かにこう告げた。
「…私も、自分のことは、よく分からないな」
「え…?」
彼女の意外な発言に、思わず布団から顔を出す。
「自分でもびっくりしてるんだ。元々は、誰とも仲良くするつもりなんてなかったのに…。まさか、友達を家に呼べる日が来るなんて、思ってもみなかった」
「﨑森さん…」
「私、本当に嬉しかったんだ。この夏休み…あっという間で、でも、かけがえのないたくさんの思い出を作ることができた。私も、また、こうやって…普通の幸せを味わっても、いいのかなって…本気で、思えたんだよ」
「……」
彼女の声には、抑えきれない喜びと…不思議なことに、郷愁が滲んでいるような気がした。
「ずっと、自分には、こんな機会はもう2度と訪れないって思ってて…。だから、嬉しかった。これは、私の本心」
「……」
「でも、どうして変われたのかは…まだ、よく分かってない。多分、周りにいた、たくさんの優しい人――照人くんとか、龍也くんとか、1人1人と関わっていく中で、少しずつ変わっていったんだと思うけど」
静かに語られる、彼女の想い。その節々に、﨑森さんが自分自身を卑下していたかのような言葉が見え隠れしていて、どことなく痛みを覚える。
「――1番のきっかけになってくれたのは、操くんだったな」
「え……」
そう言った﨑森さんが、ベッドから起き上がった。暗闇に慣れた目が、彼女の瞳を捉える。
――宵闇の中、強い意志を宿した双眸が、私のことを射抜いていた。
「…積谷さん。積谷さんは、きっと誰よりも、操くんのことを知ってるよね」
「……」
「私は、操くんのことをよく知らない。でも…何か、すごい力を持っている人なんだってことは分かる。だって、私のことを変えたんだから」
「……」
彼女が、何を言いたいのか、分からない。
戸惑う私の眼前――彼女が、ゆっくりと息を吐き出して、こう言った。
「――操くんは、言ったんだ。”過去を捨てろ”って」
「過去を、捨てる…?」
「うん。私は、そう言われた」
﨑森さんの言葉に、私は顔を顰めて体を起こした。
﨑森さんの過去。それは、おそらく…――
「それは、﨑森さんのお父様のことを、忘れろってこと…?」
「ううん。お父さんは全く関係ないよ。そっちは、ちゃんと吹っ切れてるから」
そっちは…?
彼女が私に語り聞かせた過去は、それだけだったはずだ。他にも何か、彼女にとって辛い経験があったのだろうか。
疑問に思う私に、彼女は言った。
「…さっき、お父さんが死んじゃったのは、3年前だって言ったよね」
「…えぇ」
「私達家族がここに引っ越してきたのは、大体2年半前。でも、私が今の小学校に転校してきたのは、ついこの間。…積谷さんは、そこが気になってたんじゃないのかな」
「あ…」
確かに、気になってはいた。
想像以上に早い答え合わせに、緊張が高まる。
「私は元々、今のとことは違う小学校に通ってたんだ。お父さんのことは悲しかったけど、私がお母さんのことを励まさなきゃって思って、一生懸命、明るく…――」
彼女の口から、より新しい過去が語られる。
その内容は――きっとこの世界にはありふれている、そんな生々しい悲劇だった。
「――今の話を、﨑森さんは…操にもした、ってことよね?」
…時刻は、午前2時を回っていた。
夜の静寂の中、私の言葉に、﨑森さんは「…うん」と小さく頷いた。
「それで…あいつは、言ったの?”過去を捨てろ”って…」
「うん。”﨑森さんは強いから、きっと乗り越えられるはず。だから前を向いて”って…」
…それは彼女にとって、とても酷な言葉だっただろう。
苦しみに押し潰され、心が疲弊しきっているところに、まだ"頑張れ”と彼は言ったのだろうか。私だったら、そんな彼のことを引っ叩いていたかもしれない。
「…正直、驚いたよ。お母さんも先生もみんな、”辛かったね”、”もう休んでいいんだよ”って言ってくれるばかりで、私のことをそんな風に叱ったりはしなかったから…」
「…それは、そうでしょうね。少なくとも、傷ついている女の子にかけるべき言葉じゃなかったと思うわ」
「うん…。そうかもしれないね」
しかし、彼女の口調からは、そんな憤りは一切感じられなかった。
「確かに、すごく辛かったし、どうしたらいいのかも分からなくて…。落ち込んだよ。でも…もう1回だけ、信じてみようかなって思えたんだ」
「信じる…?」
「うん。あの時の操くんが私にくれたのは、もう1度誰かと向き合う勇気。そして、私のその気持ちを受け取ってくれたのが、照人くんだった」
「……」
…そういえば、操がそんなことを言っていたような気がする。
あれは確か、5月半ば。珍しく学校からの帰りが遅かった操が、塾に行く準備をしている私に対して、零した言葉があった。
『…転校生の子、いるでしょ。僕じゃ、あの子に何もしてあげられないから…託すことにしたんだ。照人ならきっと、彼女の心に、応えてくれるんじゃないかなって』
当時は、まだ﨑森さんと話したこともなかったから、彼の言っていることがよく分からなかったけれど…今なら少しだけ、分かる気がする。
きっと、操が繋いだバトンを小際くんがしっかり受け取ることができたから、今の﨑森さんがいるのだろう。
「自分のことを理解するのって、すごく難しいなって、今でも思う。だって、自分の中に今ある情報だけで、自分のことを考えなきゃいけないから。きっと、視野も狭くなっちゃうんだろうなぁって」
「……」
「自分のことは自分が1番分かる、なんていうのは嘘だよ。だって、私のこの感情を言葉にしてくれたのは、操くんなんだから」
「あ……」
――他人は、自分を映す鏡である。
どこかで、そんな言葉を聞いたことがある。
自分の姿を、発した声を、目の前にいる誰かが認識し、それに反応を返してくれる。
そうやってコミュニケーションを取るから、私達は自分の在り方を知ることができるのだ。
「積谷さんも、大丈夫だよ。…明日は無理でも、明後日、明々後日、もっとずっと先の未来で…きっと、乗り越えられるから」
「……っ」
彼女の言葉が、胸を強く打つ。
きっと、操が彼女に与えたのは、これと同様の感情だったのだろう。
慰めでも、憐みでもない。力強く背中を押されるような感覚。
﨑森さんと向き合う時、操はその役目を小際くんに託した。そして今度は、その時の小際くんの役目を、成長した﨑森さんに託した…――
全ては、私が自分と向き合う時間を作るために。
「……」
小さく、呼吸をする。
気持ちが整理され、自分の見ている景色がクリアになっていくような気がした。
龍也に対して抱いた嫉妬心。﨑森さんに対して抱いた好奇心。操に対して抱いた虚栄心。
その全てが、1本の線になって繋がっていく。
彼との長い付き合いが導き出した、1つの答え。
それは…――
「……………ぁ」
ふと、息が漏れた。
辿り着いてしまった答えが…それが、正しいことなのだと、認めたくなくて。
自分がやりたかったこと。考えていたこと。それは、今この場で明らかにすることができた。
でも…――
それを行動に移した操の思惑が、手に取るように分かってしまって、私は思わず唇を嚙み締めた。
認めたくない。認めちゃいけない。
でも、他に可能性は考えられないのだ。これを認めてしまえば、彼の不可解な発言も、全て辻褄が合うのだから。
「積谷さん……?」
ベッドから降りた﨑森さんが、ゆっくりこちらに近づいてくるのが分かる。それが怖くて、私は思わず体を震わせた。
「さ、﨑森さん…――」
「ど…どうしちゃったの、積谷さん。私、何か余計なことっ…」
「いや…そうじゃない。そうじゃ、ないのよ…」
…今思いついたことを彼女に伝えたら、彼女はどんな反応をするんだろうか。
きっと、酷く狼狽えるに違いない。ましてや、彼女は私と違って、操の抱える事情を何1つ知らないのだ。突然告げられても、きっと混乱するだけ。
――彼女には言えない。最後の最後まで、私の胸の中にしまっておかなきゃいけない。
そんな強い義務感が、私の胸を支配していく。
…月の冷たい光が、窓から僅かに差し込んできて、あぁ、まだ夜は続くのだなと、場違いにも考えてしまった。
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