曇りの日のメガネ③

 「え…?」

 突然伝えられた言葉に、頭が真っ白になる。一瞬のうちに、体が芯から冷えていくのを感じた。

 溺れている…?須上くんが…?

 遠目だからほとんど分からないけれど、確かに、あの水しぶきが溺れている苦しさゆえに上がっているものなのだとしたら、説明がつく。

 見たところ、令那達がいるのは、この施設で最も水深が低いとされているプールだった。目の前に飛び込み台があるから、間違いない。

 でも、どうして…?

 事故?事件?僕達の知らないところで、一体何が…――

 「早く助けないと…!」

 小際くんがすぐにプールサイドに上がろうとする。しかし僕は、その言葉を受けてもなお、パッと動くことができなかった。

 ただ、目の前で起きていることの生々しさに、自分が混乱していることだけが理解できた。

 溺れているなら、助けなきゃいけない。でも、僕に一体何ができる…?

 いや、そんなことを言ってる場合じゃない。は、早く、行かないと…。

 固まってしまった足に力を込め、僕もプールサイドに上がろうとする。すでにプールから上がっていた照人くんが走り出そうとして…――

 「っ」

 …直後、疾風が駆け抜けた。

 プールから一跳びで飛び出した﨑森さんが、人並みを掻き分け件の場所に向かっていく。

 そうして、動揺して動けない令那の近くまで行くと、迷わずプールに飛び込んだ。

 「…!」

 「﨑森さん…!」

 僕達の間に衝撃が走る。まるで雷にでも打たれたかのように、体が固まって動くことができない。

 …そうして、体感だと果てしなく長い時間――実際には数秒だったのだろうけれど――が過ぎ、﨑森さんが水面から顔を出した。

 「っは」

 「さきもりさん…」

 「っ、けほっ、けほっ…!」

 息を吐いた﨑森さんの腕に抱えられているのは、苦しそうに咳き込む須上くんだった。

 「……み、みさお……」

 小際くんが、安堵の息を吐いてその場に崩れる。

 ――令那の叫びにより騒然としていたその場は、﨑森さんの活躍によって収められたのだった。




 「いや、ご迷惑をおかけしました…」

 それから、1時間ほど経った。

 プールの外のバス停で、須上くんは僕達に深々と頭を下げてきた。

 「…本当に、あなたは何をやっているの」

 「すみませんそんな怖い顔で睨まないでください僕が悪いです」

 これまで見たことがないくらい怒りのオーラを全身に纏わせながら、令那が須上くんの方を睨んでいる。

 …僕達は、当初の予定よりかなり早く、プールを後にしてきていた。

 それもそのはず、あの後須上くん本人から聞いたのだが、どうやら彼は軽い熱中症でしばらく休んでいたらしいのだ。令那はそれに付き添っていたとのこと。

 回復してきて僕達と合流しようと移動していた最中に、足が縺れてプールに落ちてしまったらしい。令那いわく、”まだ体調が悪かったのではないか”とのこと。

 「本当に、肝を冷やしたわ…」

 「う…。ごめん、僕がカナヅチなばっかりに…」

 「いや、そんなことで怒ったりはしてねえけどさ。でも…さすがに焦ったよ。そこそこ距離あったから、さっと助けに行けなかったし…」

 そう言って小際くんが俯くが、僕からすれば、彼は十分な反応速度だったと思う。少なくとも、状況を把握してからの行動は、僕達の中で2番目に速かったのだから。

 そう、2番目に。

 「…本当に、ありがとう、﨑森さん。僕を、助けてくれて」

 そう言って、須上くんは﨑森さんに笑いかけた。

 …あの場で、1番に彼の元へ駆けつけたのは、間違いなく﨑森さんだった。

 実際にその場で1番最初に動くことができたのはおそらく令那だが、突然のことで混乱していたのだろう。真っ青な顔で彼女が立ちすくんでいる姿が、瞼の裏にこびりついている。

 普段から堂々としている彼女からは考えられない表情に、僕の背筋にも冷たいものが流れたのだ。

 それでも﨑森さんは、状況を素早く飲み込み、誰よりも速くとるべき行動をとった。その結果、須上くんはちゃんと救出されたのだ。

 素早い移動と確かな水泳技術が、彼の命を救ったと言っても過言ではない。それぐらい、彼女の行動は的確なものだった。

 「そ、そんな…。私はただ、操くんが溺れてるって分かって、それで…。溺れてるなら、早く助けなくちゃって…」

 「それでも、それを理解してから行動できるまでの速さが、並大抵のものじゃなかった。…やっぱすごいな、黄乃は」

 小際くんの言葉に、夏茂さんが少しだけ驚いたように目を見開く。しかし、すぐにその目を細めると、

「…そうだね。今回の﨑森さんは、本当にすごかったと思うよ。あたしじゃ、あんなすぐに助けに行けない…」

と呟いた。

 「…そうね。私も、体を動かす前に、色々と余計なことを考えてしまっていたわ。どうしてこんなことになってしまったのかとか、今はどういう状況なのかとか、このままで大丈夫なんだろうかとか…。大丈夫なわけないことは分かっているのに、なぜかそんなことばかり考えていたのよ。変よね」

 令那が自嘲気味にそんなことを言うが、僕には彼女の気持ちが痛いほどよく分かった。

 なぜなら僕も、同じように余計なことばかり考えて、その場から一歩も動けなかったから。

 思考ばかりが加速していき、ヒートアップする寸前で、気が付けば全てが終わっていた。そんな感じだ。

 「変…かどうかは、よく分からないけど…。でも私は、助けなきゃって思って、それで、体が勝手に動いただけだから…」

 「体が、勝手に…」

 﨑森さんの言葉を反芻しながら、僕は考える。

 助けなきゃ。

 きっと、彼女の思考プロセスは、本当にそれだけだったのだろう。

 だからこそ、あれだけ速く反応することができた。

 今の僕みたいに、余計な分析や思考を抜きにして、やらなきゃいけないことを瞬時に体に伝えることができる。

 それは、ある種彼女の才能なのだろうと感じた。

 「…みんなも、ありがとうね。心配してくれて。せっかく遊びに来たのに、僕の正で台無しにしちゃって…。ほんとに、ごめん」

 「…謝るなよ。別に、誰もお前のせいだなんて思ってない。ただ…お前の体調に気づいてやれなかったのは、ちょっと悔しかったけどな」

 「照人…」

 「そうね。私も、体調変化には気づけていたけれど、ちゃんと面倒を見切れていなかった…。こうなることは予想できていたはずなのに、自分が…情けないわ」

 「令那…」

 僕達の間に、重苦しい雰囲気が漂う。誰も悪くないはずなのに、誰もが自分のことを責めている。そんな気がした。

 …そうして僕達は、バスが来るまでの間、この場に張り込めた空気を払拭することができず、無言でひたすらにバスを待ち続けたのだった。




 ――プールに遊びに行った日から、数日が経った。

 あれから僕と令那は、何もなかったかのように、再び塾に通い詰める日々を送っていた。

 あの日、みんなと過ごした時間自体は、決して悪いものじゃなかった。僕にとっては良い息抜きだったし、みんなにとっても思い出になったんじゃないかと思う。

 それでも、須上くんに辛い思いをさせてしまった以上、それを素直に受け止めることはなかなかできなかった。 

 あの場で彼を助けるために動けていたのは、﨑森さんだけ。

 きっとみんな、心のどこかで、そんな風に思っていたんだと思う。

 いつもは、令那が授業の前後によく声をかけに来てくれていたけれど、最近はそれもほとんどなくなっていた。

 そうやって2週間ほど経ち、8月も半ばに差し掛かってきた頃。

 「今日の授業が終わったら、また3日間休みかー。記月は、なんか予定あるのか?」

 塾から帰る支度をしていると、クラスの友達がそんな風に話しかけてきた。

 夏期講習もいよいよ終盤。明日からお盆休みに入り、ラストスパートの5日間連続授業を経た後、今期の学びを活かすための模試が実施される。

 「特に何も…。家で勉強しようかなって思ってたよ」

 「まぁ、そりゃそうか…。お盆とはいえ、俺ら受験生だもんなぁ」

 「少しぐらい休むのは許されると思うけどね」

 「それはお前みたいな天才にしかない権利だって!」

 そう言われ、勢いよく肩を叩かれる。

 ただ、休むといっても、別にやりたいことがあるわけでもないからな…。

 どうせなら家族でどこかに出かけたりもしたかったけれど、ちょうど明日からは父の仕事が忙しいらしく、家族揃って何かをするのは難しいとのことだった。

 お盆に働かされるのは気の毒だが、こればかりは僕がどうこう言って解決する問題ではない。

 大人しく、家で過ごすことにするかな…。

 帰宅して、いつも通り母と2人で夕飯を食べ、自室でのんびりしていると、ふとケータイが鳴った。

 「ん…」

 誰だろ?

 まだそこまで遅い時間じゃないとはいえ、夜に電話がかかってくるのは珍しい。

 画面を見てみるとそこには、『夏茂 葉』と書かれていた。

 「え…」

 …なんだこれ。これが、いわゆる”デジャブ”ってやつ?

 急なことに戸惑うが、無視するわけにもいかないので、ひとまず電話に出てみる。

 「も、もしもし?」

 『あ、龍也、やっと出たー!!』

 ケータイの向こうから、変わらない明るい声が聞こえてくる。

 …なんか、このやりとりも、前回と全く同じような。

 「急にどうしたの?」

 『いやさー、ちょぉっと、助けてほしいかなーなんて…』

 開幕時の明るさはどこへやら、急にもじもじし出す夏茂さんに、「助けるって、どういうこと?」と問いかける。

 『えっと…非常に頼みづらいんだけど…』

 「?」

 『っ、な、夏休みの宿題!教えてください!!』

 「………え、っと……」

 …とりあえず、何か切羽詰まっているんだなということだけは分かった。

 必死に頼み込んでくる夏茂さんの様子に、僕は思わず苦笑を浮かべるのだった。




 2日後。

 ピンポーン。

 チャイムを鳴らすと、『はーい』と男性の声が聞こえてくる。

 「あっ…。と、突然すみません。今日こちらに来ることになっていた、記月龍也と申します…。あの、葉さんいらっしゃいますか…?」

 蒸し暑い夏日に、僕は汗を拭いながら、インターホンに向かってそう話しかけていた。

 空は雲に覆われていて、日差しこそ強くないが、それでも気温は十分に高い。最近はエアコンの効いている空間にいることが多かったからか、暑さへの耐性が全然なくなっていることを感じずにはいられなかった。

 『あぁ、葉のお友達?ちょっと待ってね』

 カチャ、という音の後に、何やら家の中からドタドタと物音が聞こえてくる。しばらく待っていると、ガチャリと玄関扉が開いた。

 「いらっしゃい!早かったねー」

 「そう…?一応時間通りに来たつもりなんだけど…」

 「みんなまだだよー。ほら、上がって上がって」

 「お、お邪魔します…」

 夏茂さんに手招きされ、お家にお邪魔させてもらう。

 …あの後、色々と話をした結果、どうやら夏茂さんの宿題の進み具合が非常によろしくないということが判明した。

 夏休み中は、イベントにレッスンにと、芸能活動の方が何やら忙しかったらしい。それはもう、熱く大変さを語られたものだ。

 しかし、それを理由に夏休みの宿題から逃れることはできない。そのため、何人かメンバーを募って、緊急勉強会を夏茂さんの家で開催することになったのだった。

 幸い、夏休み終了まではまだ1週間程度ある。今から勢いをつけて進めていけば、なんとか間に合わせることができるだろう。

 「にしても、まさかまたこのメンツで集まることになるとはねー」

 「そうだね、僕もびっくりした」

 今回勉強会に参加するメンバーは、僕達2人と、令那、﨑森さん、小際くん、そして須上くんの6人。つまり、この間プールに一緒に遊びに行ったメンバーだ。

 集めたのは夏茂さんらしいが、特に深い理由はなかったとのこと。

 「始めは照人だけ誘ってたんだけど、せっかく勉強教えてもらうなら、龍也とかれなちゃんもいた方がいいかなって思ってさ。そしたら照人が、”じゃあ操も連れてく”って言い始めて、そこまで来たらもう﨑森さんも呼ばなきゃダメじゃん?」

 「まぁ、ダメってことはないと思うけど、そのメンバーで彼女だけ来てなかったら不自然ではあるよね…」

 「でしょ?だから、照人経由で誘ってもらったってわけ。あぁ、あたしってやさしー」

 早口でまくし立てる夏茂さん。直後、インターホンの音が鳴り響いた。

 「あ、次の誰かが来たっぽい。龍也、先部屋入っててくれない?1番奥の部屋だったら、自由に使っていいって言われてるから」

 「あっ、ちょっと」

 「よろしく!」

 そう言い残して、夏茂さんがパッとリビングらしき部屋に入っていってしまう。おそらく、新たな来客の対応をしに行ったのだろう。

 「えっと…」

 1番奥の部屋、って言ってたよね…?

 おそるおそる進んでいくと、廊下の突き当りから1つ手前の部屋の扉が開いていた。

 ここは…。

 あまり見るのは良くないと理解しつつも、好奇心に負けて思わず部屋の中を覗き込んでしまう。すると、

「う、うわぁ…」

 …なんというかそこは、まるで物置のようにごちゃっとしていた。

 部屋の大きさ的に物置ではなさそうだけど…床には大量に本が積まれていて、歩くのが大変そうだ。

 誰かの居室…なのかな。

 インテリアは、シンプルながらもどこかしらに装飾が施されていて、どことなく女の子らしい…そんなことを考えていると、背後からそっと声がかけられた。

 「……ねぇ」

 「!」

 振り返ると、不思議そうにこちらを見つめている﨑森さんと、ものすごく不機嫌そうに僕のことを睨んでいる夏茂さんが立っていた。

 「…あたし、1番奥の部屋って言ったよね」

 「…はい」

 「なんで、あたしの部屋覗いてんの?」

 「そ、それは…」

 まずい、何か言い訳しなければ。

 必死に頭を働かせ、思ったことをそのまま口に出す。

 「へ、部屋の扉が開いてたので、気になって見ちゃいました!すみません!!」

 「言い訳するんなら、もっとまともなこと言いなさいよ!!!」

 ズビシィッ!!

 夏茂さんの手刀が、力強く僕の脳天を穿った。 




 「…それじゃ、みんな揃ったことだし!ここに、我ら宮内小学校6年、緊急勉強会の開催を宣言します!!」

 部屋の中心で立ち上がった夏茂さんが、高らかにそう宣言する。

 その様子に、ある者は拍手をし、ある者は苦笑を浮かべ、ある者は「お、おぉ~」と絶妙な声を上げていた。

 …夏茂さんから強力な洗礼を浴びてから15分ほど経ち、この家に、今日招かれたメンバー全員が集合していた。

 今僕達がいるのは、夏茂さんの部屋の隣にある和室だ。広さは6畳で、今は部屋の中心に置かれた丸テーブルの周りにみんなで座っている。

 「とりあえず、なんかお菓子とか持ってくるから、適当に準備始めててくれる?」

 そう言って、夏茂さんが部屋を出ていく。

 「お菓子って…。本当に勉強する気あるのかしら?」

 「まぁまぁ。ここは家主の意見に従おうよ」

 令那の呆れのこもった言葉に、須上くんがすかさずフォローを入れる。

 どうやら、今日は彼の体調も良さそうだ。そのことに、少しだけ安心する。

 「それにしても、令那がこういう集まりに来るとは思わなかった。この間のプールもそうだけど、家で勉強してたいっていうものかと…」

 「あぁ、それは、僕が誘ったからだよ」

 令那が答える前に、須上くんがそう口にする。

 「令那ってば、放っておくとずぅっと部屋に籠って勉強ばっかりしてるんだもん。たまには遊びに行ったりしないと、集中力切れちゃうよ!って思って、僕が連れ出したんだ」

 「それでも、この間のプールはともかく、こういう勉強会は息抜きとはまた違うでしょう。メリハリがないわ」

 まぁ確かに、プールみたいに”遊ぶ!”って目的がはっきりしているならともかく、今回のような集まりはそういうものではないと思われる。友達と勉強会なんてほとんどしたことないけれど、一体どういう感じになるんだろうか…――。

 「まぁ、こういうのは、結局なんだかんだおしゃべりが弾んじゃって、勉強が進まないまでがお約束だからな~」

 「そ、そういうものなんですか…?」

 「そういうもん。ま、それも含めて思い出になるんなら、それでいいんじゃないの?」

 「それじゃあ、本来の目的が果たせてないじゃない…」

 はぁ、とため息を吐く令那に対し、小際くんが朗らかに笑いかけている。すると、部屋の襖が開いて、グラスとお皿の載ったトレーを持った夏茂さんが部屋に入ってきた。

 「みんな、お待たせー。…よいしょっと」

 テーブルの上にトレーが置かれる。

 グラスの中に入っている氷が、カラン、と涼しげな音を立てた。

 「あれ、みんな思ったより準備できてない?ちょっとちょっと、やる気ないんじゃないですかぁ~?」

 「葉みたいなやつがいると、ついつい話過ぎちゃって勉強が進まないよなって言ってたんだよ」

 「はぁ!?あたしだって、やる時はちゃんとやりますし!てか、あたしが主催なんだから、あたしが勉強しなかったらいよいよヤバいじゃん!!」

 夏茂さんに茶々を入れる小際くんに、強気に言い返す夏茂さん。どうやら、本人のやる気は十分みたいだ。これなら、なんとか宿題も進められるかもしれない。

 「よーし!そしたらみんな、一緒に頑張ろう!」

 「おー」「やりますかぁ」「え、えぇ…」

 それぞれがそれぞれのリアクションをとり、どうにも締まらない空気感の中、こうして勉強会が始まった。 




 それからしばらくの間、僕達は黙々と手を動かし続けていた。

 僕自身、宿題はほぼ完了していたから、基本的には塾の授業の復習を進めていたのだけれど。

 「……あ…」

 「ん?」

 静かな空気が流れる中、机に突っ伏した夏茂さんが、細々と声を漏らした。

 「どうしたの?夏茂さん」

 「あ…飽きた…」

 「……」

 あまりにもストレートな言い方に、全員が口を噤む。

 「いや…。まぁ、気持ちは分からなくもないけど…」

 「え、何、あたしがおかしいの!?ていうか、なんでみんなは数時間座りっぱなしで平気なのさ!全然はかどらないんですけど!!」

 「そう言われても…ねぇ…」

 夏茂さんはともかく、僕や令那は長時間の勉強は慣れているし、見たところ、小際くんも須上くんもそれなりに順調に宿題を進めているみたいだ。現段階では、弱音を吐くような様子も見られない。

 「まぁでも、結構長い間やってたしなぁ。休憩でも挟むか?」

 「さんせー」

 夏茂さんが疲れ切った様子で賛同の声を上げる。

 「﨑森さんは?それでもいい?」

 須上くんが、隣に座っていた﨑森さんに確認を取る。しかし、﨑森さんは応える様子がなかった。

 「﨑森さん…?」

 不思議に思ったのか、須上くんが﨑森さんの手元を覗き込む。…その顔色が、少しだけ曇ったような気がした。

 「? どうしたんだよ、操」

 「えっ…。あぁー、いや、その…」

 「…全然、進んでないわね」

 﨑森さんを挟んで須上くんの反対側に座っていた令那が、同じように﨑森さんの手元を覗き込み、そう呟いた。

 「進んでないって…」

 「宿題よ。始めた時から全然変わってないわ。﨑森さん、もしかして…」

 「………す、すみません……」

 﨑森さんが、酷く落ち込んだ様子で項垂れる。

 …どうやら、夏茂さん以上に勉強が苦手らしいことが、その様子から分かった。

 「このペースじゃ、終わりそうもないわね…。正直、休憩している時間も惜しいわ」

 「そ、そんなぁ!」

 「ひとまず、一科目だけでも終わらせましょう。そうすれば、少しは気が楽になると思うし」

 そう言って、令那が﨑森さんに向き直ろうとする。その時、「あ、そうだ!」と小際くんが声を上げた。

 「どうせ協力して勉強するなら、ペアになって勉強を教え合うのはどうだ?」

 「ペアに?」

 令那筆頭に、全員が首を傾げる。

 「そう!得意不得意を補い合って、効率良く勉強を進める!話しながらだったら息抜きにもなるし、それなら葉ももう少し頑張れるんじゃないか?」

 「! 確かに、それはちょっと面白そうかも…」

 夏茂さんの瞳に、活力が戻ってくる。

 「ペアかー。どうやって決める?」

 「んー…。成績順?」

 「まぁ、それが1番分かりやすいか…?」

 夏茂さんの直球な提案に、小際くんが渋々頷く。

 「そうなると…えっと、どういうペアになるんだ?」

 「…推定だけど、龍也と﨑森さん、私と夏茂さん、それから、操と小際くん。このペアがバランスが良いんじゃないかしら」

 「その心は?」

 「龍也はいわずもがな成績が良いから、1番課題が進んでいない﨑森さんについてもらった方が賢明でしょう。残り4人だけれど、見た感じ、夏茂さんは算数が苦手そうだったから。算数だったら、私が教えるのが適任だと思うわ」

 「確かに。令那、算数得意だもんね」

 「小際くんと操も、確かお互いの得意科目が相手の苦手科目だったはずだから。教え合うにはちょうどいいんじゃないかしら?」

 「そうなの?」という須上くんの問いかけに、小際くんが「俺は国語が苦手で…」と答える。その言葉に、「あぁ、じゃあ、僕が教えた方が確かにいいかもね」と須上くんが頷いた。

 「すごいね、令那。みんなの成績把握してるの?」

 「別にそういうわけじゃないわよ。ただ、今日の勉強の様子を見て、そう感じただけ。少しでもこの時間を有意義にするには、そういう視点も大事でしょう?」

 サラッとそんなことを言っているけれど、いやいや、そんな簡単にできることじゃないだろうと思ってしまう。

 どんな時でも隙がなくて、いつも完璧を目指している。やっぱり、令那はすごい。

 「よし、それじゃあペアも決まったことだし、勉強再開するか!」

 「「おーー」」

 今度は最初より馴染んだ雰囲気で、勉強会第2幕の始まりとなったのだった。




 「えっと…。﨑森さんは、どの辺りまで宿題進んでる感じ?」

 「えっと…」

 ペアが決定し、軽く席替えをしてから、改めて勉強会を再開したのだが。

 ひとまず、教える側になった以上、ある程度の責任は果たさなければならない。

 そう思い、彼女の手元を覗き込んだのだけれど。

 「…さ、算数のドリルは、半分ぐらい…。後、自由研究は…お母さんに手伝ってもらって、なんとか…」

 「そっか。となると、残りは…」

 頭の中で、残りの課題を反芻する。

 算数と自由研究以外となると、読書感想文と、理科社会の問題集があったはずだ。算数に比べると問題数は少ないものの、出題範囲が広く、それなりに時間がかかるものと思われる。

 ここは、集中して算数を一気に終わらせてしまう方が得策かもな…。

 「読書感想文を今から書くのは難しいと思うし、僕もアドバイスしづらいから…。今日は、算数のドリルを終わらせようか」

 「う、うん…」

 﨑森さんが、算数のドリルを広げる。

 「どうしようかな…。ひとまず、僕は自分の作業してるから、分からない問題があったら声をかけてくれる?その場で教えられるようにするから」

 「う、うん、分かった…」

 彼女が問題を解いているのをずっと見ているわけにもいかないだろうと思い、彼女にそう告げてから、塾で使っている教科書を机の上に広げる。

 そうして勉強を始めようとしたのだけれど――

 「……」

 作業開始から5分もしないうちに、﨑森さんの手が完全に動きを止めたのが分かった。

 「…何か行き詰まった?」

 「え…」

 びくっと肩を跳ねさせる﨑森さん。ドリルの方に目を落とすと、どうやら分数の問題で詰まっているみたいだった。

 「えっと…これは、分数の問題だよね。ちょっといい?」

 「え…」

 﨑森さんは戸惑っている様子だが、ひとまず問題の解き方を教えるために鉛筆を手に取る。

 「まずは、問題文の意味から考えていこうか。田中さんは、夏休みの課題を、毎日少しずつ進めています。田中さんは1日に、国語の課題を8分の1、算数の宿題を6分の1、理科の宿題を算数の2分の1の速度で進めています…」

 「……」

 問題文を丁寧に読み砕きながら、ゆっくりと説明を添えていく。

 「まずは、田中さんの各科目の学習速度を考えなきゃダメだね。問題にそのまま速度が書いてあるのは、国語と算数。﨑森さん、速度がどのくらいか、教えてくれる?」

 「えっと…」

 問題の読み解き方を教えながら進めていくと、問題に理解が追いついたのか、﨑森さんの表情がどんどん生き生きとしてきた。

 「…最後に、この式を計算したら、はい、完了」

 最後の小問の答えを記し、鉛筆を机の上に置く。

 「どう?理解が深まってるといいんだけど」

 「……す」

 「?」

 「すごい……」

 﨑森さんのキラキラとした視線が、僕に注がれる。

 「龍也くん、頭いいんだね…。説明もすごく分かりやすいし…羨ましい…」

 「そ、そうかな…?」

 「うん。私は、昔から勉強って苦手だから…。こういう風に、どんな問題でも解けちゃうの、すごいなって思って…」 

 「……」

 そう言って、﨑森さんが僕のことを見つめた。

 彼女の羨望の眼差しが、僕の心にじんわりと染み渡ってくる。

 「…そ、そんなことないよ。僕はただ、これしかないって思って、勉強してただけだから…」

 「そうなの?だとしても、十分すごいと思うけどな」

 「……」

 …正直、僕からすれば、学校の勉強は大した難易度じゃない。

 塾でとっくにやってる内容だし、昔から、授業が理解できなくて苦しいといった経験はしたことがなかった。

 成績も決して悪くなかったし…だから、それを褒めてくれる人は、今まで周りにたくさんいた。 

 でも、それはいつしか純粋な羨望ではなく、僕に疎外感を与えるものへと変わっていったような気がしていた。

 頭が良い。成績が良い。

 そうやって褒めてもらえるのは、もちろん悪い気はしなかったけれど、悲しいかな、それ以外の分野で僕が褒められたことは、今までに一度もなかった。

 だから僕は、勉強に打ち込んだ。自分にはこれしかないんだと言い聞かせて。

 そうしたら、みるみるうちに知識が増えていき、全国模試の上位に名前が載るようになっていった。

 そうして僕へ向けられる視線は、親しみのこもった憧れではなく、どこか遠い存在を見るような、温度の低いものへと変わっていった。

 「……すごくないよ」

 自分でも驚くぐらい、冷えた声が口から漏れる。

 雰囲気が変わったのを察したのか、周りの何人かがこちらに視線を向けるのが分かった。

 「どうして…?勉強ができるのは、すごいことだと思うよ」

 「でも、﨑森さんみたいに飛び抜けた才能じゃない」

 僕の言葉に、﨑森さんが目を見開いて口を噤んだ。

 僕が勉強を得意としているのは、もちろん多少の才能もあったのかもしれないけれど、それ以上に、積み重ねた努力があるからだ。日々本を読み、手を動かし、色んな分野の知識に触れてきた。今の僕の実力は、その経験によって作られたものに過ぎない。

 それに…。

 「…僕達は、学生だもん。みんな、勉強はしなきゃいけないものって認識してる。そこで頭1つ抜けていたって、それは誇れるようなものじゃないよ…」

 弱々しい声が、部屋の中で飽和して消えた。

 ずっと胸を巣食っていた思いが、不完全に萎んでいくのを感じる。

 﨑森さんの運動能力も、小際くんの人をまとめる才能も、学校で教われるものじゃない。それこそ、天から与えられたものか、あるいは何か特別な経験をしないと身につけられはしないだろう。

 でも、勉強は違う。みんなが等しく受けるもの。努力次第で、簡単に上下が入れ替わる世界。

 そんな場所で、僕はいつまで胸を張って歩いて行けるというのだろうか。

 「…龍也くん」

 ふと、隣から声が聞こえた。

 顔を上げると、さっきまでと変わらない、凛とした視線が僕に向けられていた。

 「﨑森さん…」

 「…手、出して」

 「へ…」

 戸惑って硬直している僕の手を、﨑森さんがさっと掴む。

 「さ、﨑森さん?何を――」

 「…これ」

 そう言って﨑森さんは、僕の指――正確には、中指の爪の近くを、そっと撫でた。

 「これ、ペンだこっていうんでしょ?前、積谷さんに教えてもらった」

 「あ…」

 「私の指には、こんなのない。…だから、これが全てだよ」

 彼女が、僕の手を取ったまま、真っ直ぐにこちらの瞳を見つめてくる。

 「この指が、龍也くんの努力の証。それを否定するのは、間違ってるよ」

 「あ……」

 「…少なくとも、私はその…おバカだから…私の前では、誇れる、と思う…」

 急に自信なさげに声が萎んでいく﨑森さん。そのギャップが面白くて、僕は思わず吹き出してしまった。

 「ぷっ、あはははは!﨑森さん、面白いね…!」

 「え、えぇ…?」

 突然笑い出した僕に驚いたのか、﨑森さんが困惑した様子で視線を泳がせている。

 ついさっきまで、真っ直ぐな目をして、すごくかっこいいことを言っていたのに。

 少しだけ恥ずかしそうに俯く彼女から、さっきまでの威厳は完全に消えていて。

 そんな彼女の様子を見ていたら、ますますおかしくなってきてしまって、僕は不審がる周りの様子も顧みずに、しばらくの間声を上げて笑い続けた。

 

 

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