第26話 田んぼを救え作戦
田植えから三週間が過ぎた梅雨の季節、春日丘を異常な天候が襲った。例年より早い梅雨明けで、強烈な日差しが続く日々。市民田んぼプロジェクトの参加者たちは、予想外の事態に慌てていた。
「これはまずい…」
考太は田んぼの様子を見て顔を曇らせた。水位が下がり、土が乾き始めていた。苗は植えたときよりは大きくなっていたが、日照りのせいで葉先が黄色く変色し始めていた。
「こんな天候は過去40年で最も異常なパターンです」
考太は図表の書かれたノートを広げながら、第3グループのメンバーに説明していた。
「気象データの統計分析によれば、この状況下での稲の生育率は通常の67.3%程度に落ち込むと予測されます」
固野会長は腕を組んで唸った。
「それじゃあ『春日丘ブランド米』の収穫量も予想の3分の2になってしまうのか」
考太は冷静に分析した。
「いえ、現在の干ばつ状態が続けば、最悪の場合は全滅の可能性もあります。これは『極端気象における農業生産の脆弱性』の典型例です」
真倉が悲鳴を上げた。
「全滅!? 先生、対策はあるんですか?」
みこが腕を組んで考え込んでいた。
「市の水利権の問題があって、簡単に水を引くことができないのよ。他のグループも同じ問題を抱えているわ」
山本老人は黙って田んぼを見つめていた。その表情には深い懸念が浮かんでいた。
みこが声をかけた。
「みなさん、対策会議を始めましょう」
休憩所のテーブルを囲んで、グループのメンバーが集まった。考太は大量の資料とノートを広げ、理論的分析を始めた。
「現在の状況を『環境ストレス下における農業生産システムの復元力』という観点から分析すると、以下の三つの対策が考えられます」
考太は眼鏡を直し、ホワイトボードに図を描きながら説明を続けた。
「第一に、水資源の最適配分による灌漑施策。第二に、遮光ネットの設置による蒸発抑制。第三に、バッファーゾーンとしての周辺植生の活用。これらを組み合わせることで、理論上は75.8%の確率で収穫量を回復できると計算されます」
みんなの表情は複雑だった。考太の説明は理解困難な専門用語だらけで、具体的にどうすれば良いのかが見えてこない。
みこが静かに声をかけた。
「もっと具体的に、今私たちに何ができるのか教えてくれる?」
考太は図を指さした。
「つまり、近隣の水源から効率的に水を引き、田んぼの上に日よけを作り、周囲に別の植物を植えて湿度を保つということです」
固野会長が首を傾げた。
「水源といっても、勝手に引けるものじゃない。それに日よけって、この広さの田んぼ全体にかけるのか?」
考太の理論が現実の壁にぶつかり始めた。計算上は正しくても、実行可能性を考えると難しい点が多い。
真倉も珍しく現実的な疑問を投げかけた。
「先生、理論は素晴らしいですけど……私たちの力でできることはありますか?」
考太は言葉に詰まった。理論と現実のギャップを目の前にして、彼の万能に思えた社会学理論が力を失っていく。
そのとき、山本老人が静かに口を開いた。
「春野さん、君のおじいさんの日誌を持ってきているかい?」
考太は驚いて頷いた。
「はい、いつも持ち歩いています」
「それを見せてごらん」
考太がカバンから取り出した古い日誌を、山本は丁寧にめくり始めた。そして、ある記述を指さした。
「ここだ。昭和47年、同じような早い梅雨明けと猛暑があったときの記録だ」
全員がその記録に目を落とした。考太の祖父の丁寧な字で、当時の状況と対策が詳細に記されていた。
「麦わらを使った簡易的な遮光、夕方の手桶での水やり、周囲の雑草の選択的残存……」
山本が解説した。
「これが昔ながらの知恵だ。大規模な設備がなくても、できることがある」
考太は祖父の記録に見入った。理論的な分析はないが、長年の経験から導き出された実践的な知恵がそこにあった。
考太の声が震えた。
「祖父の記録、これは貴重な在来知だ。『地域特有の環境適応知識の世代間伝達』……」
みこは日誌の実用的な内容に目を輝かせた。
「これならできそう! みんなで分担して、昔ながらの方法を試してみましょう」
参加者たちは新たな活力を得て、対策を始めることにした。固野会長は商店街のネットワークを使って麦わらを集め、真倉は大学の農学部の友人に助言を求めた。みこは市役所の立場を活用して、可能な範囲での水利用の許可を取り付けた。
考太は祖父の日誌と自分の理論を見比べながら、静かに考え込んでいた。
みこが近づいてきた。
「どうしたの、考太?」
考太の目に決意の光が宿った。
「祖父の実践知と私の理論。組み合わせれば、もっと効果的な対策ができるかもしれない。統計データと伝統的知識の融合だ」
それから数日間、考太たちは猛暑との闘いを続けた。朝夕の水やり、麦わらを使った簡易遮光、周囲の植生管理…祖父の知恵と考太の分析を組み合わせた対策を実行した。
ある夕方、田んぼの様子を確認に来た考太は、一人の影を見つけた。日が沈みかけた田んぼで、山本老人が一人、じょうろで水をかけていた。
考太が近づくと、老人はゆっくりと振り返った。
「ああ、考太くん。来てくれたか」
「毎日ここで……」
山本は静かに微笑んだ。
「君たちだけに任せておけなくてね。この田んぼは私の青春の記憶がある場所なんだ」
考太は黙って手桶を取り、一緒に水をかけ始めた。理論ではなく、ただ目の前の田んぼを守るという単純な行為。
「山本さん、祖父はこんな風に農作業を手伝っていたんですか?」
山本は懐かしそうに答えた。
「ああ、カメラを置いて、よく手伝ってくれたよ。『記録するだけじゃなく、共に汗を流してこそ見えるものがある』ってね」
二人が黙々と作業を続けていると、徐々に人影が増えていった。みこ、真倉、固野会長、そして他のグループのメンバーたちも集まってきた。
考太は驚いた。
「みんな……」
固野会長が得意げに言った。
「SNSで呼びかけたんだ。『春日丘の田んぼを救え作戦』大成功だな!」
真倉はカメラを構えながら興奮した様子で話した。
「先生、これこそ『危機における共同体的連帯の自然発生』ですね! メモしました!」
みこは穏やかに微笑んだ。
「みんな、この田んぼに愛着が湧いてきたのよ」
日没まで、大勢の参加者が協力して水やりや遮光作業を行った。考太は黙々と働きながら、理論と実践の間にある何かを感じ始めていた。
数週間後、田んぼは危機を脱した。天候も徐々に落ち着き、稲は再び緑を取り戻し始めた。専門家の予想よりもはるかに良い回復ぶりに、市の農政課からも視察が来るほどだった。
考太は学権教授にフィールドワークの経過報告をしていた。学権は考太の報告書に目を通す。
「興味深い結果だな、春野君。伝統的知識と現代理論の融合か。これは社会学部の新たな研究テーマになりうるな」
考太は熱心に説明した。
「はい、祖父の残した記録が現代の問題解決に役立つという予想外の展開でした。これは『世代間知識伝達の実用的価値』という観点から……」
学権教授は意味深に微笑んだ。
「君は少し変わったようだな。以前よりも実践的になった」
考太は一瞬言葉に詰まり、それから静かに答えた。
「現場には理論を超える何かがあることを学びましたから」
教授は満足そうに頷いた。
「それが私の望んでいたフィールドワークの成果だ」
田んぼの稲は順調に育ち、収穫の時期が近づいていた。考太たちの挑戦は次の段階へと進もうとしていた。
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