【改稿】異聞蒼国青史 〜引きこもりひめ政変記〜

第1話 一日目 事の始まり

　木の香りと古い紙の匂いが満ちた書庫で、空気が僅かに揺れた。

　整然と積み上げられた本が並ぶ棚の間で読み物をしていた範玲（はんれい）が、ふと顔を上げる。

　すると間もなく、入り口の厚みのある戸が静かに開き、蒼国（そうこく）王族の一つ、夏家の年若い当主である英賢（えいけん）が現れた。

「範玲（はんれい）、いるかな？　これから登城しないといけないことになったんだけどね……」

「え、もう夜だよ」

　英賢が言い終わらないうちに、奥にいた理淑（りしゅく）が棚の間からひょこりと顔を覗かせた。

「ああ。理淑もここにいたんだね。ちょうど良かった。うん。ちょっと緊急の案件みたいでね」

　英賢は碧色の瞳を少し躊躇わせて微笑むと、迷ったように二人の顔を交互に見て、再び口を開いた。

「それで、ちょっと頼みたいことがあるんだ」

＊＊

　蒼国。正式には青蒼国（せいそうこく）という。

　穏やかな青い海と厳かな蒼い霊山に護られた小国。大国の狭間に埋もれるようにありながらも二百年近く続いている国である。

　起源は三人の若者により、神の住まう霊山、蒼泰山（そうたいざん）に現れた玉皇（ぎょくこう）大帝との誓約により建国されたという。

　若者の名は、夏賢成（かけんせい）、周文幹（しゅうぶんかん）、秦思廉（しんしれん）。

　建国の際、三人の若者は、夏氏、周氏、秦氏の三氏により蒼国を治めることを玉皇大帝に誓った。

　それにより、蒼国は、以来純粋な血の後継による王位継承は行わず、夏氏、周氏、秦氏の三家の血を持つ者のうちで最も王に相応（ふさわ）しい者が主となり、三氏がそれを補佐し国を安んじてきた。

　蒼国を治める彼ら三家の王族は青家、その当主は青公と呼ばれ、それぞれ色合いの異なる青い瞳を持つことからも、夏氏は碧（へき）公、周氏は藍（らん）公、秦氏は縹（ひょう）公と称されるようになった。

　現君主は周氏の血筋の啓康（けいこう）。

　その治世は歴代の王の中でも長く、元号を圭徳（けいとく）としてから二十六年を迎える。温厚にして清廉、民のことを第一に考える賢君と慕われている。周氏の現当主の弟にあたる。

　青家の一角である夏家は、齢（よわい）二十八の英賢が当主を担う。三年前、病により亡くなった父の跡を継ぎ、当時二十五という若さで碧公となった。英賢には六つ下の範玲、さらにそれより三つ下の理淑という二人の妹がいる。なお、三人の母親は理淑を産むと間もなく他界している。

＊＊

「私が出かけたら、士信（ししん）にこれを喜招堂（きしょうどう）へ届けさせて欲しいんだ。そこの梁彰高（りょうしょうこう）に渡してもらうように伝えてくれるかな」

　そう言って英賢は油紙で幾重にも包まれた文（ふみ）のようなものを差し出した。

「喜招堂の梁彰高という人だね。そう士信に言えばわかる？」

「うん」

「士信は出かけてるの？」

　理淑がそれを受け取りながら聞くと、英賢は一瞬、瞳の碧色を揺らしたが、普段どおりの穏やかな声で言った。

「……そうなんだ。でも、もうすぐ帰ってくると思うんだ。お願いできるかな」

「これは何ですか？」

　範玲が横から理淑の手元を覗いて聞いた。

　届け先の喜招堂といえば、都で最も手広く商（あきな）う店の一つである。

　士信は夏家に仕えている腕の立つ筆頭の侍従で、その彼に明日を待たずわざわざ届けさせるという。ただの文ではなさそうだ。

「……頼んでおいて申し訳ないけど、中身は知らない方が良いかな。本当は私が持って行くつもりだったのだけど、その時間がないようだから士信に頼もうと思って」

　英賢は範玲と理淑を交互に見つめ、無理に微笑んだような顔を見せた。

＊

　英賢が出かけた後、二人は今か今かと士信の帰りを待った。

　しかし帰って来ない。

　そわそわしながら夕餉を取ったが、待ち人は現れない。

　二人は再び書庫へ戻ると、刻（とき）だけが過ぎる中、卓（つくえ）に置いた包みを黙って見つめていた。

「……ねえ、これ、何が書いてあるのかな」

　とうとう沈黙に耐えられなくなった理淑が口を開いた。包みを持ち上げて透かすように燭台の灯りにかざす。

「兄上の様子からするとただの文ではないわね。知らない方が良いって言ってたもの」

　そうは言いながらも、範玲も中身が気になる。理淑が掲げた包みを目で追う。

「士信は何をやっているのかしらね。早く届けなくていいのかしら」

　そう言ってから範玲が首を傾げる。

「……どうして士信じゃないといけないのかしらね」

「ね。何でだろ。兄上の様子も何だかいつもと違っていたしね」

　理淑が元のとおり包みを置くと、再び沈黙が訪れた。

　じりじりと蝋の燃える音だけがやけに耳につく。

　そして。

　その沈黙を破ったのは今度は範玲の方だった。

「……知らない方が良いとは言ったけど、見てはいけない、とは言っていなかったわよね……」

　理淑が包みから範玲に視線を移し、迷いなくこくりと頷いた。

　範玲はそれに頷き返すと、背筋を伸ばして決意したように息を吸い込んだ。

「……開けてみましょう。士信は帰ってこないし、中身がわからないと重要性も緊急度もわからないから」

　自分に言い聞かせるように呟き、範玲は恐る恐る包みに手を伸ばした。

　理淑が身を乗り出して見守る中、かさかさという音を恐れるように、そうっと油紙を開く。三重になっていた油紙を広げると、中から折りたたまれた一枚の紙が出てきた。

　それを取り出し、卓の上に慎重に広げた。広げた紙に指を添えたまま範玲の動きが止まる。

「……これって……」

　範玲が声を詰まらせる。理淑は眉を顰めてそれを見つめた。

　そこに現れたのは思いもよらないものだった。

「ねえ、どうしてこんなものを喜招堂に持ってくの？　梁彰高って、誰？」

　理淑が現れた紙を凝視する範玲に聞くが、範玲にもわかるはずがなかった。

　しかし、これは悠長にここに置いていて良いものではないのではないか。

　英賢が自ら届けるつもりだったと言っていた。それができないから、止むを得ず士信に託すことにしたということなのだろう。

　何故そうしなくてはならないのかは判らないないが、英賢がそうしろと言ったのならば、必ず理由があるはずだ。

　何か良くないことが起こっているのではないか。

　背筋が知らず冷たくなる。

　範玲は広げたそれをたたみ直して油紙に三重で包んだ。英賢に託されたそれは元のとおりに戻ったけれど、震える手とざわざわとする胸騒ぎは元には戻らなかった。

＊

　屋敷の裏口に、そっと顔を覗かせて辺りを伺う影が落ちた。

「どう？」

　範玲が理淑の背中に囁く。

　日没を知らせる鼓楼（ころう）の鐘からどれくらい経っているのだろうか。

　空に浮かぶ月は遠慮がちにぼんやりと光を放つ。人目を忍んで歩くのに邪魔にはならない程度の月明かりだ。

「誰もいないみたいだけど……。どう？　何か聞こえる？」

　理淑が辺りを窺いながら、暗い色の襦裙（じゅくん）に着替えた範玲を振り返る。理淑はいつもの通りの胡服（こふく）だ。

「ん……。今のところ、大丈夫そう」

　範玲の言葉に理淑が頷く。

　もう一度理淑が周囲を見回すと、二つの影はこっそりと屋敷を抜け出した。

　帰ってこない士信を待たず、英賢に託されたものを自分たちで届けることにしたのだ。

　家の者には言っていない。すぐ戻るつもりではあるが、万一のために「出かけてきます。すぐ帰りますから心配しないように」という書き置きを残した。

「私が届けに行ってくる」

　そう言い出したのは理淑だった。

　理淑は王族の県主（ひめ）でありながら、禁軍の兵士たちに混じって剣の手合わせをしたりと、控えめに言ってかなり活動的である。城下へ一人でぶらぶらと出かけるのもいつものことだ。

　しかし、範玲は理淑が一人で行くことに異を唱えた。自分も一緒に行くと言い張った。

　理淑は、生まれてこの方ほとんど屋敷から出たことのない姉が一緒に来ることにいい顔をしなかった。

　確かに、範玲が届け物をするのに適しているとは言い難い。

　しかし、範玲は範玲で、夜中に理淑を一人で外に行かせることには姉として断固して許可することはできない、それに自分を連れていった方が便利なはずだ、と譲らなかった。

　言わば引きこもりである範玲がそう主張するのにも理由があった。

　範玲は耳が良い。

　——いや。

　範玲の場合、「耳が良い」というありきたりな言い方で済ませられる程度のものではない。そのつもりになれば隣の屋敷の会話も聞くことができる。音を振動として捉え、異常な精度でそれを受け取ることができる特殊な能力を備えているのだ。

　だからもし危険が迫った場合はいち早く察知できる、と範玲は言い張った。

　珍しく譲らない範玲に、結局理淑が折れて二人で出かけることにしたのだ。

「なんだか緊張するわね」

　屋敷の門から出た途端に範玲がぽそりと呟いた。

　理淑が振り返って立ち止まる。

「ほら。まだ間に合うよ。帰った方が良いってば」

　口を尖らせる理淑をちらりと範玲が見る。

「大丈夫。緊張するだけだから」

　そう言うと、その意気込みを示すように、範玲は足を早めて理淑を追い越した。

　範玲が屋敷の外に出たのは何年ぶりになるのだろうか。

　耳が良すぎる範玲にとって、世の中というものは酷く騒がしい。通常の物音でさえ範玲にとっては騒音となるからだ。

　そんな範玲の耳には亀甲形の青い耳飾りが揺れている。その耳飾りは、玄海（げんかい）に棲むと言われる珍しい青い玄亀（げんき）の甲羅で作られたとされるもので、不思議な力を持っている。これをつけていると、聞こえすぎる聴力を和らげることができるのだ。

　この耳飾りのお陰で、範玲は日常を過ごすことができている。

　とは言え、大きな音や騒がしい人混みにはやはり耐性がない。だから範玲はむやみに外に出ることは避けてきた。小さな頃からいつも一人で部屋にこもっていることが多く、お気に入りは屋敷の書庫である。

　おかげで範玲の姿を目にしたことがある者は極めて稀で、夏家の一の県主（ひめ）君は病弱で寝たきりだそうだ、いや酷い醜女（しこめ）だから外に出てこないのだ、陽の光を浴びると角が生えるらしい……などなど巷（ちまた）では好き勝手言われている。

　しかし実際には耳が異常に良いことを除いて身体に変わったところはなく、容姿に関してはその噂とは真逆である。

　もちろん陽の光を浴びても角など生えはしない。

　夜の深い闇を集めたような艶やかな漆黒の髪。形の良い小さな顔は、陽の光に当たらないゆえに少し青白く見えるが、その肌は磁器のようにきめ細かく滑らかだ。長い睫毛に縁取られた瞳は、少し憂いを帯び、まるで輝く碧玉のよう。鼻筋はすっきりと通り、唇は薄いが青白い肌とは違いほんのりと色づく。そして穏やかに微笑んだ嫋やかな立ち姿は、さながら月夜に降りた女神を彷彿とさせた。

　なお、対して妹の理淑は、会った時に受ける印象は全く違うが、範玲とその造形をほぼ同じくする。ただし、範玲の容姿を陽の光で炙り出したかのようだ。髪は範玲より茶色がかっており、肌は同じく艶やかであるが、薄桃色の頬が決定的に範玲と印象を異にさせる。大きな瞳は明るめの碧玉の色で、唇は範玲よりほんの少し厚みがある。そして、陽の光を思わせる笑顔が理淑の最大の特徴でもある。

　明るい陽の下では人の目を引くことこの上ない二人だが、夜の闇には上手く溶け込むことができた。

　そろそろと自信なげに歩き出した範玲を理淑が追い越しなおし、長めの上衣の下に隠した細身の剣を握りしめて範玲を守るように前を陣取った。

　範玲は今度は何も言わず、理淑の後を早足で追う。

　二つの影は人気（ひとけ）のない通りを急いだ。