第15話(後編)――「白蛇の父と星喰いの階」

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🟦『エルデン公爵家の末子』(第十一章①)の【登場人物】

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🟦『エルデン公爵家の末子』(第十一章第15話)【作品概要】です。

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 1144年8月上旬、半島側の村の朝は、白い光と匂いで満ちていた。

 まだ低い太陽が、石灰岩まじりの地面を斜めから照らす。白い土は金色がかった光をはね返し、家々の影を細長く引き伸ばしていた。崖の上の村は、粗く積んだ石の土台と、椰子の葉や葦で葺いた丸い屋根の家が肩を寄せ合い、その向こう側には濃い緑の森が盛り上がるように立ち上がっている。森の梢の切れ間からは、階段状の巨大な影が、朝もやの中に頭だけをのぞかせていた。 


 村の真ん中の広場では、かまどの煙が青白く棚引いていた。湿った土の匂いと、焼けかけの薪の焦げた匂い、海から上がってきた塩気のある風が混じり合い、鼻の奥をくすぐる。どこかの家から子どもの笑い声がはじけ、遠くの森の奥ではホエザルの低い咆哮が、まだ眠りから覚めきらない空気を震わせていた。枝の上では、知らない色の鳥が甲高く鳴き、短い朝を急ぐように羽音を重ねている。


 アレクたちは、広場の一角に並べられた木の台と編み籠のまわりに、村人たちといっしょに腰を下ろしていた。丸太をそのまま並べただけの長い腰掛けはごつごつしているが、星織島と大陸のあいだの海を渡った体には、ちょうどよい硬さである。台の上には、薄く伸ばして焼いたとうもろこしの餅が山のように積まれ、まだ湯気を立てていた。甘い粉の匂いが、かまどの煙と混じってふわりと流れてくる。


 土の器には、塩気の強い焼き魚のほぐし身と、香辛料を利かせた豆の煮込み、刻んだ青い香草が盛られていた。掌に取ると、器のざらついた感触と、中身の温かく重い感触が指先に伝わる。アレクがとうもろこしの餅をちぎって口に運ぶと、縁はかすかにかりっとして、中はしっとりと柔らかい。豆の煮込みの滑らかな舌触りと、焼き魚のほろほろ崩れる身、香草の強い香りと塩気が口いっぱいに広がる。少し焦げた香りが混じっているのも、ここで焚いた火の味である。


 甘酸っぱい果実を絞った飲み物は、素焼きのカップごと手のひらを冷やした。唇につけると、ひんやりとした液体が汗ばんだ喉をきゅっと締めながら通り過ぎる。そのたびに、額に浮かんだ汗が、朝の風でゆっくりと冷えていった。


 食事がひと段落したころ、向かいに座っていた年配の男が、とうもろこしの餅をちぎりながら森の方を顎で指した。しわだらけの指先が、梢の切れ間からのぞく階段状の影をなぞる。


「神殿のことを見に来たのだろう?」


 別の若い男が、気になっていたらしく口を挟んだ。


「昨日も、高台からじっと眺めていただろう。あの大階おおばしごに登りたいのか?」


 アレクは、餅を握ったまま頷いた。


「中を見せてもらえればありがたい。星の印が刻まれているのだろう?」


 質問を訳して伝えると、ルミラのわきで、ヤニの肩がわずかに震えた。彼女は昨夜、新しい星座を何度も見上げていた。村人たちの目には見慣れた夜空でも、ヤニには別の世界の星図が重なって見えたからである。


「簡単には行かない方がいい」


 年配の男が、器を置きながら低く言った。火のはぜる音と、器の当たる小さな音のあいだに、その声が落ちていく。


 そのとき、男の膝の脇でとうもろこしをかじっていた小さな女の子が、口の端に粉をつけたまま顔を上げた。


「行ったら、白蛇の父に食べられちゃうよ」


 広場の空気が、ほんの少しだけ張り詰めた。


 女の子の母親らしい女が、慌てて娘の肩を抱き寄せる。


「そんなことを客人の前で言うんじゃないよ」


「でも、石段さまは人を飲むんでしょ?」


 素朴な問いは止まらなかった。女の子は大きな瞳で、遠くの階段ピラミッドを見つめている。


 アレクは思わず、その視線の先を追った。森の縁から頭を出した白い塔は、太陽の角度が変わるにつれて、段ごとの陰影をくっきりと浮かび上がらせている。一段一段が人の背丈ほどもある石の階段が、空へ向かって重なり合い、その途中に、何かが巻き付いているような、うっすらとした影が見えた気がした。


「白蛇の父とは?」


 アレクが尋ねると、年配の男は一度だけ大きく息を吐いた。とうもろこし粉の白い粉が、口髭からぱらぱらと落ちる。


「石段さまだ」


 男は、そう言って自分の足元を指で叩いた。


「昔からあの階段には、白い蛇が棲んでいる。日の光を浴びて眠り、星が出ると目を覚まし、きざはしを登る者の影を追いかける。わしらはあれを『白蛇の父』とか『星喰いの階』とか呼ぶ」


 別の年寄り女が、指を折りながら言葉を継いだ。


「神官さまが祈りを捧げているあいだは、おとなしく石になっているけれどね。昔、祭りでもない日に面白半分で登った若い者がいたんだよ。中腹まで行ったところで石段が崩れて……誰も、落ちていくところを見た者はいない。ただ、その日の夜、頂の堂のところで白い蛇がとぐろを巻いていたのを見たって話さ」


 豆の煮込みの皿から立ちのぼる香辛料の匂いの向こうで、古い土と乾いた骨のような匂いのする昔話が静かに広がっていく。どこまでが言い伝えで、どこまでが実際の出来事なのか、外からの者には判別がつかない。


「祭りの日には?」


 ヤオ・ジンが、木のカップを両手で包みながら尋ねた。彼の指先には、船を削ったときに残った小さな傷がいくつも走っている。


「祭りの日には、神官さまが白い煙草えだを焚いて祈りを捧げる。歌をうたって、星と蛇に眠れと頼む。そうすると、白蛇の父は階段の奥に潜り、石と見分けがつかなくなる。そのあいだだけ、神官さまと供物を運ぶ者だけが頂まで行ける」


 年配の男は、空になった器をひっくり返し、指で円を描いた。


「祈りの煙が薄くなる前に降りてこなければならない。遅れた者は、階の中に迷う」


 村人たちの視線が、一斉に森とピラミッドの方角へ吸い寄せられた。さっきまで賑やかだった広場に、しばし沈黙が降りる。かまどの火がぱちぱちとはぜる音と、遠くで鳴く鳥の声だけが、薄い朝もやの中で生きていた。


 アレクは、指先で素焼きの器の縁をなぞった。粗い削り跡が、ひとつひとつ指先にひっかかる。その感触と、指についた油のぬめりを意識しながら、彼は小さく息を吐いた。


「神官に会えば、祈りの煙を焚いてもらえるだろうか」


 問いかけるように言うと、年配の男は肩をすくめた。


「さあな。あの方々は気まぐれだ。だが、星の印を読む者なら、蛇の気紛れも読めるのかもしれん」


 男はそう言い残し、立ち上がって器を集め始めた。村人たちはそれぞれに仕事へ散っていく。穀物を挽く女たちの輪へ向かうヤニの背中を見送りながら、アレクたちは日陰に移って相談を始めた。


 木陰の下は、土の匂いが濃かった。根元に座り込むと、背中に樹皮のひび割れが当たる。頭上では、小さな葉が風に擦れ合い、さらさらと音を立てていた。


「蛇そのものというより、階段と一体になった守り手だな」


 アレクがそう言うと、ルミラが頷いた。


「星を喰うっていう言い方も気になるわ。天球庭てんきゅうていでも、星の裂け目を塞ぐ守護がいたでしょう? あれの地上版かもしれない」


 ヤニは、膝の上に星図の板を置いていた。薄い板の表面には、彼女が指先でなぞった線がうっすらと光っている。


「夜になると、頂の堂のところだけ星が消えるのよ」


 ヤニは、小声で言った。


「村の人たちと一緒に見たわ。星の列がひとつ欠けて、少し離れた場所でまた光る。蛇が星を飲んで、別のところから吐き出しているように見えた」


「なら、完全な敵とは言い切れないな」


 カランが腕を組んだ。焼黒土の畑で鍛えた肩が、木漏れ日の中で静かに動く。


「星の裂け目を管理する守り手が、誰も声をかけなくなったせいで、人を敵と見なすようになった……というところか」


「だとしても、このままでは神殿に入れない」


 ヤオ・ジンは、腰に立てかけたアルクウッドの棒に手を置いた。船を守り、洞窟の魔物から身を守ってきた棒である。


「祈りの煙が蛇を眠らせるというなら、同じようなことを星でできないか?」


 アレクは、ヤニに視線を向けた。


「星の印で、蛇に『今は眠るときだ』と伝えられるかもしれない」


 ヤニはしばらく板の上の光を見つめていた。やがて、ゆっくりと頷く。


「階段の模様をよく見ないと分からないけど……あの蛇の鱗と、石の模様のあいだに、星図と同じ並びがある気がするの。もしそうなら、その列をなぞってやれば、昔の約束を思い出すかもしれない」


「ならば、確かめてみる価値はある」


 アレクは立ち上がった。森から吹いてくる湿った風が、首筋の汗を撫でていく。


「祈りをうたってもらえるかどうかは分からないが、少なくとも蛇にこちらの意図を伝える手段はあるはずだ」

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