第14話(後編)――「星図を織り直す指先」

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🟦『エルデン公爵家の末子』(第十一章①)の【登場人物】

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🟦『エルデン公爵家の末子』(第十一章第14話)【作品概要】です。

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 静けさが戻ると、まず最初に聞こえてきたのは、自分たちの息遣いであった。


 胸が上下するたびに、熱い空気が肺を出入りし、喉の奥に残った粉のざらつきが、微かな違和感として残る。額を伝う汗が目に入り、塩の刺激が視界を曇らせた。


 ヤオ・ジンは棒を軽く床に突き立て、一度深く息を吐いた。


 その瞬間、彼女の周囲の空気が、わずかに密度を増したように感じられた。


 棒の石突が触れている床石が、先ほどよりも確かに足を支えている。押し返してくる感触が重く、頼もしい。棒を支点にして身をひねると、体の軸がぶれにくくなっているのが分かった。


「……変ね。身体が、少し固くなったような、でも重くはない」


 アレクは口元で笑い、肩を一度回した。


「さっきの影縫いムカデから、こちらに回ってきたご褒美だろう。お前の守りは、これからもっと硬くなる」


 ヤオ・ジンは苦笑したが、その目はわずかに楽しげでもあった。


 一方、ヤニは半球のそばに座り込んだまま、じっと指先を見つめていた。


 矢を放ったときから続いている微かな痺れが、痛みではなく、むしろ鋭い感覚として残っている。


 半球の内側を走る銀の線が、一本一本、糸のように見えた。


 それらはただ光るだけの模様ではなく、ゆっくりと脈を打つように強弱を繰り返し、彼女の指先と同じリズムで震えている。


「ヤニ?」


 カランが心配そうに呼びかけると、ヤニは小さく頷いた。


「……ひび、直せるかもしれません」


     ◇


 星図は、本当に今にも壊れそうであった。


 ひびの縁では、細かな欠片が絶えず剥がれ落ち、半球の表面に白い粉となって溜まっている。その粉に触れると、指先が冷たく痺れ、まるで冬の川に素手を突っ込んだときのような痛みが走った。


 ルミラはその痛みに顔をしかめつつも、水を呼んだ。


 今度の水は、さきほど戦いに使ったものよりもさらに細く、糸のようであった。ひびの縁に沿って流し込み、欠片を洗い、粉を集め、ひとつの筋として整える。


 カランは、半球の土台となっている岩に手を当てた。


「この島全体の重さが、ここで支えられているような感覚です。少しだけ、山の側へ荷重を寄せます」


 天柱火山の内部から伝わる地鳴りのような響きが、彼の掌に集まり、半球の下へと流れ込んでいく。


 アレクは風を薄く流し続けた。


 外から入ってくる湿った風と、神殿の冷気とを混ぜ、温度差をなくしていく。半球の表面には細かな霧がまとわりつき、ひびの縁に冷たさと温かさが均等に行き渡るようになった。


 その中で、ヤニはただひとり、指先だけで仕事をしていた。


 彼女は、自分の爪をほんの少し噛み、鋭くとがらせた。


 銀色の線の上に爪をそっと乗せると、線が微かに震え、音にならない音を発した。ヤニには、それが糸を張る音に聞こえた。


 切れかかった糸の端を指先でつまみ、もう一方の端と結び直す。


 ひびの縁から溢れていた白い光が、少しずつ落ち着いていく。混ざり合っていた光の筋が、それぞれ定位置に戻り、星座の形を取り戻す。


 彼女の動きは、畝を立てるときと同じであった。


 土の上に指で溝を引き、種を置き、土を戻す。小さな仕事だが、それを畑全体で積み重ねれば、季節が巡るたびに草原一面の緑が生まれる。


 ここでも同じであった。


 一本一本の線を結び直し、ひびの下で絡み合っていた光の束をほぐし、再び緩みのない網に戻していく。


 ルミラとカランとアレクの術が、全体の重みを支え、ヤニの指がその網目をひとつひとつ確かに縫い上げていく。


 やがて、ひびの白い光は完全に消えた。


 半球の表面には、割れ目の跡さえ残っていなかった。


 銀色の線は途切れずに繋がり、星々は黙って本来の位置に戻っている。


 その瞬間、ヤニの中で何かが音もなく弾けた。


 目を閉じると、星図の裏側が見える。


 深緑裂谷の天球庭と、この星綴の神殿の半球と、そのほか遠くに点在する同じ仕組みの器たちが、細い糸でゆるく繋がっている光景があった。その糸の一つひとつに、彼女の指先はいつでも触れられる。


 ひとつ、爪先で軽く弾いてみる。


 半球の表面に、ごく細いひびが生まれた。


 その向こうには、見覚えのある河港の景色が、一瞬だけ覗いた。波止場に並ぶ小舟、湿った木の匂い、朝靄に煙る市場の屋根。


 ヤニが息を止めると、ひびは消えた。


 星図は何事もなかったように沈黙し、ただ規則正しく光を脈打たせるだけである。


「……今のは?」


 アレクが慎重に尋ねると、ヤニは少し戸惑った顔で、しかしはっきりと答えた。


「星図に、好きなときに割れ目を作れるようになりました。行き先も、ある程度は選べそうです」


 ルミラは、しばし黙ってから、苦笑した。


「便利すぎる力は、やっぱり重い対価がついてくるものよ。でも、今は助かったわ。この島が崩れずに済んだ」


 アレクは頷き、ヤニの肩に手を置いた。


「必要なとき以外は、無闇に割らないことだな。だが、出口をいつでも作れるというのは、大きな保険だ」


 ◇ ◇ ◇


 星図を修繕した後、彼らは神殿の外へ出た。


 火山の斜面から見下ろす星織島は、思った以上に豊かであった。


 山の裾野には、濃い緑の帯がぐるりと広がり、その外側は白い砂浜と浅い礁湖に縁取られている。外海との境には、いくつもの小さな岩礁と砂州が連なり、波がそこに砕けて白い線を描いていた。


 風は、山の上では涼しく、海の匂いに加えて、遠くで焼いた魚のような香りを運んでくる。


 「人がいるのか?」


 アレクは思わず鼻をひくつかせた。


「あるいは、誰かがいた痕跡かもね」


 ルミラの言葉に従い、彼らは山を下りながら島の探索に取りかかった。


 山腹には、湯気を上げる小さな泉がいくつもあった。


 手を浸すと、指先に心地よい温かさが絡みつく。硫黄の匂いは強いが、湯そのものは柔らかく、皮膚を撫でる感触に棘がない。冷たい湧き水も別の場所にあり、口に含むと舌の上でわずかに甘さを感じた。


 森の中には、整えられかけた畑のような場所があった。


 大きな葉を持つ植物が規則的に並び、根本には誰かが石を積んで作った境界が残っている。土を掘ると、下から黒く肥えた層が現れた。ヤニは、その土を指でつまみ、鼻に近づけた。


「……焼黒土に似ています。ここでも、畑を作っていたのかもしれません」


 カランはうなずきながら、畝の間に小さな芽がいくつか残っているのを見つけた。


 葉をちぎって口に含むと、少し苦く、後からほのかな甘さが追いかけてきた。


「豆の仲間でしょうね。煮れば食べられる」


 海辺へ出ると、そこには古びた桟橋の残骸があった。


 黒く焦げた柱と、波に洗われて丸くなった板が、浅瀬の中に半ば沈んでいる。木には貝が張り付き、指で触れると冷たくぬるりとした感触があった。


 桟橋の先には、小さな船を引き上げておくための石の斜面がある。今は空っぽだが、石の上には乾いた海藻が貼り付き、魚の骨がいくつか散らばっていた。古い塩と魚の匂いが、鼻の奥に残る。


 空は、少しずつ夕暮れに傾きつつあった。


 西の空に、薄い雲が長く伸び、その向こうに、島の北側に連なる列島の影が、暗い青で浮かんでいる。さらにその先、霞んだ水平線の向こうには、見慣れたようでどこか違う大陸の輪郭が、ぼんやりと延びていた。


「エクリプス大陸……に似ているけれど、あの山並みは知らない形です」


 ルミラが目を細めて呟いた。


 アレクはしばらく黙ってそれを見つめ、ゆっくりと息を吐いた。潮風が肺を満たし、塩と夕日の匂いが混じり合って胸の中に溜まる。


「別の世界。だが、俺たちの世界と、まったく無縁というわけでもなさそうだな」


 背後には、修繕を終えた星図のある神殿と、硫黄の匂いを吐き出す天柱火山がある。


 足下には、畑の跡と桟橋と、誰かの暮らした痕跡が残る島。


 そして、ヤニの指先には、いつでも星図に小さな割れ目を作り、世界と世界の間を覗き込む力が宿っていた。


 星織島の探索は、まだ始まったばかりである。


 彼らは夕陽に染まる海を一度だけ振り返り、それから再び森の中へ足を踏み入れた。足裏に伝わる土の弾力と、鼻をくすぐる果実の香りと、遠くで鳴く鳥の声を確かめながら。


 この別世界の小島が、どんな秘密を隠しているのかを見極めるために。

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