第11話(後編)――「モリガの解放」
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🟦『エルデン公爵家の末子』(第十一章第10話、第11話共通)の【登場人物】です。
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🟦『エルデン公爵家の末子』(第十一章第11話)【作品概要】です。
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5月22日。午前6時。都市モリガ
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ノカ河の朝霧は重たく湿っていた。水面すれすれに白い靄が張りつき、その向こうに黒い樽が幾筋も積み上がっている。樽の継ぎ目からにじんだ黒い樹脂が、ぬめった光を帯びて垂れ、焦げた甘さと土くさい匂いを河風に混ぜていた。ここが香木の川市モリガだ。
アレクは桟橋に足を下ろすと、靴底に張りつく樹脂の感触にわずかに顔をしかめた。板は何度も黒い樹乳を浴びて固まり、ところどころ足に吸いつく。鼻の奥には、長く嗅げば頭がぼうっとしてくるような香と、河の腐った藻の匂いが絡みついていた。
桟橋の先では、痩せた男たちが古びた樽を肩に担いで列を作っていた。汗と樹脂で黒く光る肩口、割れた踵、擦り切れた腰帯。男たちの視線の先には、金貸しの倉庫と、そこに据えられた帳場の机がある。机の上には、古びた革表紙の帳簿と、紐で束ねられた借用書が山になっていた。
「アレク様にお見せしたいのは、あれですわ」
アレクの隣で、ヤオ・ジンが顎で帳場を示した。彼女は湿った空気を嫌うように軽く鼻を鳴らした。
「ゴムの木を探し、樹液を集めて黒い樹脂を煮詰めるまでに一年かかる。働き手は、その一年を越えるための飯と道具を借りる。代わりに一切合切を差し出す契約なんだな」
アレクは低く答えた。
「何も残らないのですね」
そう言ったのはルミラである。彼女は樹脂の樽をじっと見つめ、指先で自分の袖を軽くつねった。樹脂の甘さに混じって、焦げた肉を連想させる鉄の匂いが鼻に触れたのだろう。
「残らぬように作ってある契約だ。カシム・ファルガスの得意技だな」
アレクは、金貸しの屋敷の方角をちらりと見た。瓦屋根の大きな屋敷は、川霧の向こうにぼんやりと黒い塊をなしている。表門には、色あせたがまだ派手な布地の旗が垂れ、香料の倉からは、シナモンと樹皮の甘い香りが細く流れてきていた。
「まず借用書を奪う。それが出来なければ何も始まらない」
アレクはそう言って、桟橋を離れた。
◇ ◇ ◇
夜のモリガは、昼よりも静かで、代わりに匂いが濃くなった。黒い樹脂を煮る釜の火は落とされ、余熱だけがじんわりと小屋の壁を温めている。湿った木壁からは、古い煙と樹液がしみ出したような、酸っぱい甘さが漂っていた。
アレクたちは金貸しカシムの屋敷の裏手に回り込んでいた。土壁はささくれ、ところどころ樹脂で補修されている。手で触れると、冷えた樹脂が指先にざらつきながら貼りついた。
「見張りは粗いですね。カシム本人が逃げたあとだから、油断しているのでしょう」
ヤオ・ジンが、小声で呟いた。息を吐くたびに、樹脂と香料の重たい匂いが喉に絡み、声を勝手に低くする。
ルミラが指先をすっと上げると、井戸端の水が静かに揺れ、薄い膜のような水が土壁に沿って広がった。水気を含んだ土は音を吸い、足音は湿った布の上を歩くように沈んでいく。
屋敷の裏戸は内側から棒でかんぬきが掛けられているだけだった。ヤオ・ジンがアルクウッドの棒を梃子代わりに静かに押し上げると、木と木がこすれる乾いた音が、わずかに耳鳴り程度に響いて消えた。
中は墨のような暗さだ。油皿の灯りがひとつ、廊下の端でかすかに揺れていた。その灯芯が焦げる匂いと、積み重なった紙と革の、乾いた埃っぽい匂いが鼻を刺す。
「帳場は正面ではなく、この奥の広間だ」
アレクは、昼間に見ておいた屋敷の作りを思い浮かべながら進んだ。裸足で踏んだ床板は、ところどころ樹脂が固まって滑りにくく、爪先にざらりと引っかかる。
広間に入ると、油皿の灯りがひとつだけ灯っていた。机の上には、昼間見たとおりの帳簿と借用書の束が置かれている。金貸しの爺が、椅子に座ったまま、顎を胸に落として眠りこけていた。くぐもった鼾と、酒と香料の混じった息が、部屋の空気を重くしていた。
「起こす必要はない」
アレクは、机の脇の鉄の箱を見つけた。箱の口には、カシムの印章を刻んだ封蝋が固められている。
「ルミラ」
呼ばれたルミラが膝をつき、封蝋に指先を添えた。小さく水の気配が走り、蝋は静かに柔らかくなって、音もなく印の形を保ったまま剝がれた。
鉄の箱の蓋を開くと、むっとした紙と汗と樹脂の匂いが一気に吹き上がった。中には、拇印で赤く汚れた借用書の束がぎっしりと詰め込まれている。
ヤオ・ジンが一枚をつまみ上げた。油皿の光に透かすと、薄い紙越しに、粗い文字で「借りた金額」と樹乳の量、金利の数字がびっしりと並んでいる。紙の端には、ひび割れた指で押したであろう赤い指紋が歪んでいた。
「これ一束で、何十人分だろう」
「百でも足りないわね」
声に少し熱が混じった。
「全部持って行こう。明日の朝、河岸で焼けば良い」
アレクはそう言い、箱ごと布袋に詰め込んだ。鉄と紙が擦れる鈍い音が布に吸われる。
金貸しの老人が身じろぎし、椅子がきしんだ。ヤオ・ジンがするりと背後に回り、老人の肩に軽く手を置いた。
「静かに寝ていなさい」
低い声と同時に、首筋を軽く押さえられた老人は、再びぐうと鼾を立て始めた。
◇ ◇ ◇
翌朝、モリガの河岸広場には、黒い樽が円形に積み上げられていた。真ん中には、大きな土器の火鉢が据えられている。樹脂を焚くための炭が赤くおこされ、熱気が近づく顔の皮膚をじりじりと炙った。炭の上に落とされた香木の欠片が、ゆっくりと煙を上げ、鼻腔を甘く刺した。
川の向こうから、別の匂いが流れてきた。油をよく落とした帆の匂い、上等な木材にしみ込んだ亜麻仁油の匂い。昨日のうちにヤーラへ風の魔術で知らせ、急ぎ樹脂の買い付けに来させた商人たちの船である。
「アレク殿。これが問題の黒い樹脂か?」
痩せたが眼の座った商人が、樽の中を覗き込んだ。指で樹脂の表面を押すと、固まった皮の下から、まだ柔らかい部分がゆっくりと戻る。指を口元に運び、ほんの少し舌に触れさせた。
「苦いが、悪い苦味ではない。樹乳も混じっておる。これならば良い靴底にも、戦馬の帯にも使える」
「代金は、ここにいる者たちへ半分前払い、残りはヤーラに着いたあとで良い」
アレクはきっぱりと言った。
「高い買い物だ。しかし、カシムの連中から買うよりはましだろう」
商人はしばらく考え、苦い茶をひと口飲んだ。茶碗から立つ湯気が樹脂の匂いに薄く混じり、舌の上に渋みが広がる。
「よかろう。その代わり、来年も同じ量を出してもらうぞ」
「それはこの場で、この者たちと決める」
アレクはうなずき、広場をぐるりと取り囲むゴム採りたちを見回した。
「集まってくれ」
声が河霧を割り、ざわめきが広場の床板を震わせた。樹脂で黒く染まった手、灰色に乾いた唇、薄い衣を着た子どもたちが母親の腰にしがみついている。彼らの汗と土と樹液の匂いが、一気に押し寄せた。
アレクは火鉢の脇に立ち、布袋を足元に置いた。袋の口を開くと、鉄と紙の混じった匂いがぶわりと立ち上がる。
「ここにあるのは、お前たちがカシム・ファルガスから借りた金の証文だ」
ざわめきが一度止み、喉を鳴らす音だけが残った。
「お前たちは一年働き、樹液を集め、樹脂を煮て、この樽を満たした。その樽は丸ごと金貸しのものとなり、次の一年の飯と道具の金を、また借りねばならなかった。そうやって何年も縛られてきた」
男のひとりが、荒れた声で叫んだ。
「そうでもしなきゃ、樹海に入れねえ。どっちにしろ死ぬまで借金だ」
乾いた笑いが数人の口から漏れた。その笑いには、笑いの味がなかった。
アレクは火鉢の上に一枚の借用書を掲げた。紙は薄く、端は汗で曲がっている。赤く歪んだ拇印が、陽の光を受けてにじんで見えた。
「今日から、これは紙くずだ」
そう言うと、紙を火鉢に落とした。
炎が紙を舐め、乾いた裂ける音が一瞬だけ耳に刺さった。墨の匂いと、古い汗の酸っぱい匂いが、煙となって立ち上る。
アレクは袋から次々と借用書の束を掴み出し、火鉢に投げ入れた。白かった紙が橙色に透け、灰に崩れ、黒い火の粉が空へ散った。
最初は誰も声を出さなかった。火が紙を飲み込むぱちぱちという音と、河の水音だけが響いていた。
やがて、ひとりの女がすすり泣きを漏らした。樹脂と汗で固くなった指が口元を押さえ、その隙間から震える声が洩れた。
「じゃあ……来年は、誰に樹脂を渡せばいいんだい」
アレクは火鉢から少し離れ、樽の円の中に一歩踏み出した。
「ここにいるヤーラの商人だ。今日、お前たちの樽に対して、現金を渡す。まず半分を前払いでだ。残りはヤーラで樹脂を売りさばいた後、またここへ運ばせる」
商人が前に出て、革袋を持ち上げて見せた。中で金貨と銀貨が重くぶつかり合い、金属の乾いた音が広場の空気を少し変えた。
「それから」
アレクは、後ろに控えていたカランとヤニを呼んだ。
「この二人が、樽と金の出入りを記録する。お前たちが受け取った金の額と、樽の数と、残りを全て、ここに書き残す。来年の道具と飯の金の一部は、この場で皆で決めて、共通の取り置きにする」
カランは粗い帳面を抱え、ヤニは新しい羽根ペンとインク壺を手にしていた。インクから立ち上る鉄と酸の匂いが、樹脂の甘さに細く切れ目を入れる。
「これから先、金が足りずに困る者がいれば、まず村の年寄りと若い代表のところへ行け。カシムの手先のところではない。そこで相談し、それでも足りぬときは、わたしの名でヤーラの商人に借りろ。金利は、カシムの半分以下にさせる」
「そんなことをしたら、金貸しどもが黙っちゃいねえ」
先ほどの男が、今度は不安の混じった声で言った。
「黙らなくてよい」
アレクはきっぱりと答えた。
「ナジフ・ハルンの家と同じだ。この街で、樹脂を採る者に理不尽な刃を向ける者は、わたしと敵対する者と同じである。金貸しが暴れたら、まずヤオ・ジンたち兵のもとへ走れ」
ヤオ・ジンは、無言で一歩前に出て、樹脂で黒ずんだ板の上にアルクウッドの棒を突いた。固い音が広場に響き、男たちの肩がわずかに揺れた。
「代わりに、お前たちも約束しろ。酒場で金を溶かすのではなく、家と畑と舟の板に使うこと。来年も、この街で樹脂と香を出すこと」
アレクの声は冷たくも熱くもなく、ただ事実を告げる調子であった。それがかえって胸に刺さった。
男たちは互いに顔を見合わせ、やがて数人がうなずいた。ひび割れた手と手が重なり合い、指の節が白くなるほど握りしめられた。
「分かった。もう一度だけ信じてみる」
ひとりがそう言った。声は震えていたが、今度は笑いが混じっていた。
◇ ◇ ◇
日が高くなるにつれ、広場には金属がぶつかる音と、帳面にペン先が走るかすかな音が混じり合った。金貨と銀貨が掌から掌へ移り、そのたびに重さを確かめるように手のひらを握りしめる仕草が繰り返された。
ヤニは、樹脂でざらついた指先に軽く布を巻き、拇印を押させた。赤土と油を混ぜた簡単な印泥が、紙の上に新しい輪郭を刻んでいく。今度の紙には借金の額ではなく、「受け取った金」と「共通の取り置き」の数字が整えられていた。
川面から吹き上げる湿った風が、焼けた借用書の灰をさらっていく。空には、まだ微かに紙と墨の匂いが残っていた。その匂いは、焦げた悔しさと一緒に、少しずつ薄れていった。
アレクは最後の樽の積み出しを見届けると、ふと河上流の方角を見やった。霞の向こうには、ノカ河の森と、さらにその先の赤根台地がある。そこでもまた、誰かが同じように縛られているかもしれない。
全てを一度に変えることは出来ない。しかし、ここモリガでは、樹脂の樽と一緒に燃えていた鎖の一部は確かに切れた。
川べりには、黒い樹脂の甘さと、朝の霧の湿り気が、いつまでも薄く残っていた。
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