第8話(前編)――「石肺ヤモリとの一騎打ち」
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🟦『エルデン公爵家の末子』(第十一章第8話)の【登場人物】です。
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🟦『エルデン公爵家の末子』(第十一章第8話)【作品概要】です。
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1144年4月10日午後3時、ヤーラのノカ河舟着き場。
アレク、ヤオ・ジン、ルミラの3名はノカの支流用に改造した双胴の俊足丸木舟に乗り、兵隊たちより先行して、ノカ河の浅瀬へと向かった。そこには「死者の洞窟」があり、復活した石肺ヤモリがいるはずだ。
前回は苦戦しながら、アレクとヤオ・ジンの二人が連携して戦い、九死に一生を得た。今回は強くなったアレク一人で戦うつもりだ。
アルクウッドの棒を駆使しつつ、特殊能力「蛮勇」(恐れを知らぬ力と勇気の発動)と特殊能力「英雄」(体力が10%を下回ると一気に回復して元に戻る。以後、体力が10%を割るたびに底力が増す)の力を借りる。
◇ ◇ ◇
影が散り、洞の奥に石肺ヤモリだけが残った。ヤオ・ジンは弓を下ろして一歩退き、見守りに徹した。アレクは棒を胸の前で横に置き、半歩の幅で足を刻む。喉に石灰の粉が張り付き、息は紙を擦るように乾く。
舌の上は砂でざらつき、汗は塩の味がした。天井から落ちる雫が遠くで1滴、2滴と鳴り、耳の奥では鈴の残響が細く続く。鼻には石と古い水の匂い。手の中のアルクウッドだけが温かく生きている。
白い咳が弾け、粉が刃になって押し寄せた。視界は乳白の膜に曇り、頬に細かい痛みが走る。アレクは腰を沈め、棒の芯で粉の流れを裂きながら前へ出た。
石突で地を噛み、柄の中ほどでヤモリの脚の継ぎ目を打つ。手に伝わるのは硬い殻の奥に隠れた生身の粘り。だが返しの一撃は重く、石の膜に弾かれて肩が痺れ、肺が空気を吐き出した。膝が沈み、明滅する視界の縁が黒く詰まる。
◇ ◇ ◇
体力が底を打つ。次の瞬間、胸の奥で灯が点くように温かさが湧き、血が太く流れ始めた。冷え切った指先まで生ぬるい水が満ちる感覚。切れた皮膚がきゅっと縮み、呼吸の通りが戻る。
特殊能力「英雄」が静かに働き、全身に新しい弦を張り直す。恐れは薄皮のように剝がれ、代わりに「蛮勇」が芯の温度を上げた。痛みは残るが、怖さは遅れてくる。今はただ動ける。
アレクは砂を踏んで半歩、半歩。足裏で床の粒の粗さを量り、粉の降り方で相手の吸呼を読む。白い雲が寄せて引く合間、石の膜に走る髪の毛ほどの皺が浮いた。
前回の戦いでヤオ・ジンの矢で弱った継ぎ目である。そこで棒を振る。叩かない。押し込まない。芯で貫いて、当たる刹那に指を緩め、力を中へ滑り込ませる。
石突が乾いた一音を鳴らし、洞が一拍遅れてびりっと応えた。膜が粉になって逆流し、喉に苦い粉の味が弾ける。
石肺ヤモリは壁から身を外し、長い指で空を掴むように襲いかかる。風も雷も通じない相手である。アレクは棒を肩に渡し、前に突き、後ろに引き、体の正面をいっさい開かず、継ぎ目だけを刺す。
だが一撃ごとに粉の咳が返り、肺が焼けて視界が白く飛んだ。脇腹に石の爪がかすめ、熱い線が走る。血の匂いが粉に混じって金属めく。力が抜け、また底へ落ちた。
◇ ◇ ◇
再び「英雄」。胸の内で鼓動が2段階で強くなり、冷えた臓腑に火が入る。耳の鈴は遠のき、足先の感覚が戻る。痛みは痛みのままだが、動くための通路だけはきれいに掃かれている。
アレクは舐めるように息を吸い、濡らした布を口鼻に当て直す。左手で棒を支え、右手でわずかに角度を足す。粉の斜面を切り裂く角度は45度より浅く、だが水平より深い。砂利が「ちり」と鳴り、踏み替えの拍と同じ速度で腕が回る。
石の膜は薄くなり、跳ね返りの角度が乱れ始めた。そこを待つ。焦らない。半歩、半歩。棒がたえず小さく呼吸し、掌の汗が木肌に張り付く。
ヤモリの咳がわずかに間延びした瞬間、アレクは距離を潰し、みぞおちの下で重心を落として一点へ打ち込む。空気が割れ、衝撃の芯が骨に入る。
石の雪がはらはらとこぼれ、露出した生身が震えた。さらに一撃。返しで下から上へ、顎の付け根をすくい上げ、石突で喉を断つ。棒の先端が柔らかな抵抗を抜け、洞の音が一度だけ消えた。
だが巨体は最後の咳を吐き、刃の粉が面で襲う。頬が裂け、目の縁が焼ける。視界が白に沈み、足が空を踏む。床が遠ざかり、肋が軋む。体力はまた10%を割った。
暗く冷たい淵の底で、今度は熱ではなく透明な水が満ちる。呼吸が一本に揃い、視界の真ん中だけがくっきりと開く。そこでアレクは棒を片手に持ち替え、空いた左手で粉の流れをはらい、最後の継ぎ目を見切った。
踏み出し1歩。砂が小さく鳴る。みぞおちの下で重心が沈み、背に通した力が棒に移る。打つのではない。通す。当たる刹那、指をほどき、芯だけを生身へ置いてくる。
石突が乾いて「コ」と鳴り、ヤモリの長い指が宙でほどけた。膜は雪崩れて粉雨になり、壁からはがれた体が糸の切れた凧のように斜めに落ちる。着地の音は軽く、続けて沈黙が重く降りた。
粉の雲が遅れて落ち、石の匂いは薄れる。口の中の砂の味がゆっくり消え、舌に温かい唾が戻る。耳の鈴は止み、遠い滴の音だけが洞をつなぐ。
アレクは棒を下ろし、深く息を吐いた。胸の内側に広がる温かさが定着し、抜け落ちていた力が1本の縄になって背骨に通る。特殊能力「英雄」は根を伸ばし、「蛮勇」は静かな熾火になって残った。
アルクウッドの棒はわずかに重く、だが懐に吸い付くように手に馴染む。諸能力は確かに上がったと体の側が告げている。
石肺ヤモリの巨体は薄い光に透け、粉をさらう風が洞の奥からひと筋吹いた。壁には手形のような痕だけが淡く残り、この地のならわしが静かに実現した。強い魔は報いを残して消えるのである。アレクは粉の付いた布を外し、唇の塩を舌で拭い、棒を肩に担いだ。
◇ ◇ ◇
暗がりの奥、岩の陰でルミラが目を伏せていた。喉の奥で乾いた息を飲み込み、指先が無意識に胸元を押さえる。誇りは折れていない。
だが今、彼女の中で別の糸が強く結ばれた。倒れては起き、粉に焼かれ、血の匂いをさせたまま前へ出る若い背中。怖れを飲み込み、静かに正面を開かない闘いぶり。それが憐れみではなく、守りたいという感情を呼び起こす。
思慕は熱となり、母性は痛みのように芽を刺した。抱いて癒やしたい衝動と、槍衾の前に立って自ら粉を浴びたい衝動が同時に立ち上がる。
彼のそばに立ち、彼の傷を拭き、彼が息を吸うための空気を確保する者でありたい――ルミラはそう悟った。戦士としての矜持の内側で、女としての本能がはっきりと目を覚ました。
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