第10話(中編1)――「手配と台所の灯」

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『エルデン公爵家の末子』(第十章第10話)の【登場人物】です。

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『エルデン公爵家の末子』(第十章第10話)【作品概要】です。

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前書き

アレクは関所に赴き、リ・カン捜索の手配書を出し、見つけた者に大金を与えると明言する。手配が街に広がるのを見届けたのち、未亡人ヤオ・ジンの家に戻り、買い求めた食材で夕餉を整える。紅焼茄子ホンシャオチエズ、黒鶏の薬膳、牛肉の炒め、栗子糯米飯リツノミファン、八宝茶と杏仁豆腐――火や湯気や香りが家を満たし、傷んだ心と体に静かな力を戻す。


本文


 2月27日午後2時、アレクは塵鎖の関所へ向かい、そこで役人に手配を頼むことにした。関所に着くと、アレクは風の魔術を利用して馬車から素早く降り立ち、関所の長である役人に直接会いに行った。


 「関所長殿、重要な任務があります」とアレクは言い、彼の冷静な表情と鋭い眼差しが、役人にただならぬ事態を察知させた。


 アレクは懐から金貨1万枚の報酬が書かれた紙を取り出し、関所長に手渡した。


 「この男、リ・カンを見つけた者には、金貨1万枚の報酬を約束します。『裂雲のなた』を持っている彼は、今回の殺人や誘拐に関与している可能性が高い。すぐにこの張り紙を街中に掲示してほしい」


 とアレクは、しっかりとした口調で命じた。


 関所長はアレクの言葉を重く受け止め、すぐに対応に取りかかることを約束した。


 「了解しました、アレク様。私が責任を持って街中に張り紙を貼らせます。リ・カンがどこにいようとも、必ず見つけ出します」


 アレクは微かに頷き、続けた。


 「リ・カンは危険な人物だ。見つけ出すだけでなく、捕らえた者には追加の褒美を約束する。彼を逃がしてはならない」


 その後、アレクは市場や関所周辺に出回る噂を自分の耳でも確認し、手配が確実に進められていることを見届けた。


 そして、街中の至るところに、リ・カンの名が書かれた賞金張り紙が掲示されていくのを見守りながら、アレクは冷静に次の手を考え始めた。


 リ・カンを捕らえるための網は、確実に広がりつつあった。アレクは、手配が整ったことを確認すると、次の動きに備えるため静かに塵鎖のヤオ・ジンの家へと戻った。


 アレクは帰る道中、塵鎖じんさの市場に寄り、当面の間必要とする食糧を買い求め、働き手を失った未亡人ヤオ・ジンの負担を和らげようと試みた。


 午後6時。薄藍の空が台所の窓に沈み、火を入れた竈の赤が壁紙の模様をゆらりと揺らした。市場から抱えて帰った籠には、艶のある茄子、黒い羽毛の鶏、香りの強い生姜とニンニク、栗の殻、乾いた紅棗と枸杞が詰まっている。濡れた葉の匂いと土の匂いが、ぬくい湯気に溶け合う。アレクは袖をたくし上げ、未亡人ヤオ・ジンは髪を布でまとめた。ふたりの動きは、夕餉の開始の合図であるかのように、台所じゅうの道具を目覚めさせた。


 ◇ ◇ ◇


 まずは茄子である。刃が入るたび、水分を含んだ果肉がやわらかく鳴った。油を吸わせた拍子に、鍋底で音が高く跳ね、五香粉が立つ。醤油と砂糖を落とすと、甘辛い湯気が一息にひろがり、鼻腔の奥を熱くくすぐった。ヤオ・ジンの強くしなやかな手は、箸で茄子を返すたび、紫の皮に艶をまとわせる。紅焼茄子ホンシャオチエズ。絹のように滑らかな舌ざわりである。


 黒鶏の薬膳は、静の料理である。深鍋の表面に浮かぶ脂を薄くすくい、丁寧に澄ませる。高麗人参の土っぽい香り、紅棗の柔らかな甘さ、枸杞のほのかな酸味が、時間の層のように重なっていく。弱火。ふつふつと小さく立つ泡は、身体の底へ届く温かさの前触れであった。ティアンロン風に整えたこのスープが、彼女の回復を助けるであろうと、アレクは火加減に目を凝らした。


 次は鉄の鍋を烈しく熱する。油が走り、白い煙が立った一拍ののち、牛肉が躍り込む。ジュッという音と同時に、ニンニクと生姜が香りを切り裂き、オイスターソースの深い旨味が鍋肌に薄い膜をつくる。


 アレクは鍋を片手であおり、肉の表面に焦げ目をつけては、余分な油を巧みに逃がす。火の輪が彼の手首に沿って揺れ、ヤオ・ジンはわずかに目を見張った。力のある体に相応しい、たんぱくの冴えた一皿である。


 蒸気の立つ蒸籠では、栗ともち米が息を合わせている。アレクは渋皮の下の黄金色を確かめるように栗を剥き、指先に残るほろ苦さを水で払った。


 炊き上がった栗子糯米飯リツノミファンは、ふっくらと湯気を抱え、もち米の甘さと栗のほっくりした歯ざわりが、噛むほどに交わる。湯気越しに笑うアレクの横顔を見て、ヤオ・ジンは口元をほころばせた。


 食後の用意も怠らない。蓮の実やクコの実をふくむ八宝茶は、湯を差した瞬間に瑞々しい香りを咲かせる。透明な盃の底で、実がふるりと揺れ、甘やかな温みが喉から胸へ落ちていく。


 杏仁豆腐は白磁の小皿で静かに震え、匙を入れれば、雪解けのような口どけである。甘さは控えめ、余韻は長い。


 ◇ ◇ ◇


 卓には白い湯気と油の光が並び、磁器と箸の触れ合う音が、家の奥へリズムのように響いた。窓の外では夜風が庭木を渡り、香草の匂いをひとつまみ運び込む。


 温かさが腹の底に降りてくるのを確かめながら、ふたりは黙々と箸を進めた。調味の塩梅、火の入り方、出汁の厚み――どれもが素直に舌へ届く。食卓を囲む時間が、家の体温を少しずつ上げていく。


 この夜を境に、ヤオ・ジンとその家族は、アレクに深い信頼を寄せるようになった。彼の存在は、台所の熱や湯気と同じほど確かなものとなり、この家の欠くべからざる一部であると、皆がひそかに頷いた。食器を洗う水音が、長い一日の幕をやわらかく閉じたのである。


後書き

手配は外へ広がる網であり、食卓は内を支える柱である。追跡の前に心身を整えることが、次の一歩を強くする。夜は更け、嵐の前の短い安らぎが訪れた。

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