第2話 砂糖漬けの花


 透明なガラスの中で、ふわりと揺蕩い、開いていく桜を、私たちは無言で見つめていた。


 休日で、一日家にいるはずだった母は、突然、会社から呼び出され、慌ただしく出て行ってしまい、同じく、いつもうるさい妹も、友達と遊びに行ってしまった。父はそもそも金曜日から出張でおらず——家のリビングは、いつになく静かだった。お祝いに買ってきたんだと差し出された、桜のつぼみの砂糖漬け、それを大げさに喜んで見せ、そのパッケージに書かれた通りにお湯を沸かし、ハーブティー用のガラスの急須に、それをぽとりと落としてしまった後は。


 いつもは妹が座る、テーブルの向かいの椅子に座り、ガラスに視線を落とすのは、私の年若い叔父だった。母より十五も年下の、私と八つしか違わない叔父。車で十分しかかからない、隣の市に住んでいるというのに、この家を訪ねてくるのは、およそ一年ぶりのことだった。優ちゃん、だめだよ——私の手をそっと押しのけたあの日から。


 あの日を境に、私たちが会うことはなくなった。母はそれを喜び「あの子にもようやく彼女ができたのかも」などと言っていたけれど、そうではないことを私は知っている。私たちは会うべきじゃない、そう考えたからこそ、叔父は離れていったのだ。これ以上、私の気持ちが深まることのないように、そして、叔父自身もまた、私という存在を忘れてしまえるように。


 そう、私たちは互いに思い合っていた。私にとって「優しいお兄ちゃん」だった人は、十五を過ぎた頃から、眩しい男の人となり、「小さな可愛い姪」だった私は、その人にとって、誰よりも愛しい女性になっていった。そして、互いに惹かれ合う、そんな二人が、互いの思いに気づかないわけもなかった。


 けれど、気づかないふりを続けたのは、二人の関係が禁忌にしかならないことを知っていたからだった。血の繋がった、叔父と姪の恋愛は、周囲を不幸にしてしまう。母を、父を、私たちの大切な家族を、近親相姦という名で汚してしまう。


 近親相姦——それは忌まわしい響きを持ち、私たちの前に立ちはだかる言葉だった。否、価値観と言ってもいい。なぜなら、互いが成人している大人の場合、それは日本の法律において、刑罰の対象には当たらない。三親等内——叔父と姪は三親等内だ——での結婚は、近親婚と呼ばれ、禁止されているが、それ以外に規定はない。十八になった私が、叔父と望んで交わったとしても、それは許されることなのだ。結婚という、その先は望めないにしても、愛し合うことは自由なのだ。


 それなのに、それは忌むべきこととして、忌避される。後ろ指を指され、堂々と恋人同士でいることもできなくなる。周囲の人ばかりではない。そもそも、両親や妹が、嫌悪の表情を浮かべるだろう。そして、叔父との関係を口にしたが最後、元には戻れなくなる。大好きな家族は、私の目の前からいなくなってしまう。叔父も、私も、そんなことは望んでいない。だから、気持ちを殺し、口を噤むのだ。互いが運命の人に違いないと、そう感じていたとしても。


 ピピピッ、ピピピッ——突然、静寂を破る電子音が鳴り響き、私はびくりと椅子から飛び跳ねた。自分でかけたタイマーだ。慌てて机の上のそれを止めると、くすり、微かな吐息が聞こえた。見ると——どれくらいぶりだろう、その人の笑顔。一瞬、動きを止めた私を尻目に、叔父はそれぞれのカップに急須の中身を注いだ。するり、開ききった桜のひとひらがカップに入り込み、くるくると楽しげに回った。私のカップには一枚、叔父のには二枚。咲いていたときと変わらないような、美しい色で、やがて静かに底に沈む。


 努力の甲斐あって、私は先日、志望大学に合格した。だから、この桜の花の砂糖漬けは「サクラサク」。他意を込めることなく選ばれた、ただの合格祝いなのだろう。本当なら、ここに母もいて、妹もいて、私と二人きりの状況なんて、考えもしなかった結果なのだろう。


 けれど、私には、これがさよならに思えてならなかった。終わりに思えてならなかった。私たちの気持ちは、咲くこともなく散ってしまう。この美しい砂糖漬けのように、つぼみのままに摘み取られ、甘く漬け込まれ、望まぬ永遠を強いられて——。


「……甘いね」


 ぽつり、叔父がそう洩らす。その言葉に、私もカップに口を付ける。甘い。それは叶わぬ恋のように、とてもとても、甘い。じんわりと、気づかぬうちに視界が滲み、私はそれを隠れて拭う。


 私たちは、悪いことをしているわけじゃない。例えば、いま、認められつつある同性愛のように、普通ではないかもしれないけれど、他人を傷つけるものじゃない。さらに言うなら、近親相姦で生まれた子供は障害児になる確率が高いと言われるけれど、実際のところはそうではないし、もしそれが真実だったとしても、それは誰かに禁じられるようなことじゃない。障害児を産む可能性の高い人間は、子供を作ってはいけない——そんな前時代的な思想は、人権を侵害するもので、現代にあってはならないものだからだ。


 それなのに——その人は、席を立つ。おめでとう、繰り返すように頷いて、「またね」と私の前から去って行く。また——顔を上げることもできない私は、その背中につぶやいて、扉の閉まる音を聞いている。追いかけようと思っても、体はそこから動かない。残されたカップの底に張り付いた、花びらのひとひらのように。


 さよなら——私はそう言うべきだろうか。この恋に区切りを付けるべきなのだろうか。甘い砂糖漬けは、甘いまま。それが、摘まれぬ運命だったなら、儚く散っていただけか。



 その甘い液体が冷えゆくままに、底に揺蕩う花びらを、私はじっと見つめ続けた。


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