第17話 例え一箱千円超えても
あれから連絡を取ることもできないまま二週間が過ぎ、瀬野さんは何事もなかったように出社してきた。
「長く休んで迷惑をかけてごめんなさい」
頭を下げた瀬野さんの顔をじっと見る。微笑んではいるけれど、それが作り笑いだとすぐに気が付いて、思わず視線を逸らした。
はっきり言って……かなり気まずい。
居心地の悪さを感じているのは私だけだろうか。
瀬野さんを窺い見ると、まるで私の存在など最初から認識していないかのような表情でモニターを見つめていた。
いつから私はこんなにも臆病になったのだろう。他人から向けられる感情にここまで神経を使う日が来るとは思わなかった。
何かを間違ったのだということはいくら私でもわかる。
一体私はどうすればよかったのだろう。もう何度も繰り返しあの夜を思い出している。
一人で悩んでいても埒があかない。相談事はするのもされるのも苦手だ。
でも今は、誰かに話を聞いてほしい……。
重苦しい雰囲気に耐えかね、指先でキーボードを叩く。気付けば社内チャットで、後輩の名前を検索していた。
***
お昼になりエントランスで待っていると、私が呼び出した後輩は、財布片手にキラキラした笑顔でやってきた。
社長秘書になってからというもの、青澤ちゃんは会うたびにいつも幸せそうな顔をしている。
「三ツ矢さん、お疲れ様です」
「青澤ちゃん、お疲れ様。急に誘ってごめんね。大丈夫だった?」
「大丈夫です。三ツ矢さんとランチに行くの、何だか久しぶりですね」
「お店、私が決めていい? 煙草吸える店、限られててさ」
「もちろんです」
他愛もない話をしながら、最近は一人でもよく行くランチ営業もやっている居酒屋へ向かう。
食欲はあまりなかったが、悩んでいる時こそちゃんと食べないと身体も心も辛くなる一方だ。
この店を選んだのはわけがある。煙草を吸えることももちろんだけど、個室でゆっくり話せると
思ったからだった。
店に入り席に通されると、青澤ちゃんがすぐにメニューを差し出してくれた。
「三ツ矢さん、どうぞ」
「ありがとう」
メニューを眺めながら、私は朝の瀬野さんの態度を思い返していた。
心の奥底に薄暗く雲が掛かっていくのがわかる。
この後に及んで自分がどうしたいのか、いまだにはっきりしない情け無さに、私はこれでもかというほど打ちのめされていた。
気合いを入れるために注文したロースカツ定食を平らげた後も話を切り出す事ができずにいると、青澤ちゃんは心配そうに私の顔を覗き込んできた。
「あの、三ツ矢さん。今日、何かあったから私のこと、誘ってくれたんじゃないんですか……?」
「え、なんでわかんの……?」
「あの、私でよかったら、話聞きますけど」
なんて察しのいい子……。
青澤ちゃんが手を差し伸べてくれたおかげで肩の力が抜けた。こほんとひとつ、咳払いをする。
「……青澤ちゃん、ごめん。一本、煙草吸っても良い?」
これが手放せなくなってからもう何年経つだろう。気持ちを落ち着けるために煙草に火をつけて、咥え煙草のまま、箱とライターをポケットにねじ込んだ。
「……煙草って、美味しいんですか?」
不思議そうな顔をして青澤ちゃんが尋ねてくる。
「……美味しいとかそういう次元じゃないんだよね。もう、
真剣に言うと、青澤ちゃんが柔らかく笑った。
「それで、何があったんですか?」
「ん、いや、何かあったわけじゃないんだけどさ。ちょっと聞きたいことがあって。青澤ちゃんの恋人って、確か……お金持ち、なんだよね?」
「え? えっと、そうですね。……はい」
そんなことを聞かれるとは思ってなかったのか青澤ちゃんは驚いたような顔を見せた。
「そっか。……青澤ちゃんの恋人って、どんな人?」
問い掛ければ、彼女は少しだけ考えるような仕草を見せたあと、ふっと優しく微笑んだ。
「……すごく優しくて、とっても素敵な人です」
すぐにわかった。
あぁ、青澤ちゃんは恋人のことを本当に、心から愛しているんだ。眼差しから愛おしさが溢れている。
恋人を思い出すだけで、こんなにも人は優しい表情で笑う事ができるのか。
「青澤ちゃんは、彼のこと、大好きなんだね」
「はい」
「じゃあさ、例えばその彼氏がお金持ちじゃなかったとしたら……どう?」
「別に、どうもしません。一緒に居たいと思う気持ちに、お金の有無は関係ないと思います」
まっすぐな瞳。羨ましいな……はっきりとそう言い切れることが。
きっとこの子は本気で言っている。綺麗事なんかじゃなくて。
「そうだよねぇ、まあ、青澤ちゃんなら、そう言うよねえ……」
「三ツ矢さんの恋人は、お金がないんですか? もしかして、すっごく借金してるとか?」
「違うよ、そもそも恋人じゃないし。……お金持ちと、結婚したいんだってさ」
「……そう、言われたんですか?」
青澤ちゃんが眉を顰める。
今すぐにでも「やめておいたほうがいいんじゃないですか」なんて言ってきそうな雰囲気だ。
まあ、そうだよね。まさか相手が瀬野さんだなんて思わないだろうし……。
「直接言われたわけじゃないんだけど……前からそう言ってたし……。自信がないっていうか。自分でもどうしたいのか、どうなりたいのか、正直よくわかってない」
瀬野さんが求める「幸せ」は、私では与えられないものだとわかっているのに、どうして諦めきれずにいるのだろう。
「……三ツ矢さん。私、今の恋人と付き合う前、実は大失敗してるんです」
「大失敗?」
「……自分の気持ちに、素直になれなかったんです。本当は離れたくなかったのに、相手の人生をめちゃくちゃにしてしまうかもしれないと思うと怖くて……逃げました。その時は、それが最善の策だと本気で思っていたんです。でも……その先に待ってたのは地獄のような日々でした。あのとき、怖じ気づかずに一緒にいられる道を探していればと……今も、思う」
きっと、人に話したくないような、辛い思い出のはずなのに。青澤ちゃんが私のために、後悔のないように背中を押そうとしてくれていることが伝わってきた。
私を見る薄いブラウンの瞳が、優しく細められる。
「三ツ矢さんの好きな人が、どんな人かは知りませんけれど……でも、もっとシンプルに、自分の気持ちと向き合った方がいいです。好きなら好きで、いいじゃないですか」
「……青澤ちゃん、ありがと。なんか、ちょっと気が楽になった」
好きなら好きで、か。青澤ちゃんは本当に痛いところを突いてくるなあ。
覚悟を決めなければ。
玉砕覚悟で進むにしても――もう諦めて、何もかも終わりにするとしても。
その後、オフィスまでの道のりを二人で歩いた。
そろそろ冬の気配を感じるほどに肌寒くなってきていて、隣を歩く青澤ちゃんが、両手で身体を抱きしめるように摩っていた。
「青澤ちゃん、薄着だから寒そうだね」
「そうですね。こんなに冷え込むなんて思ってませんでした」
「社長秘書が風邪引いちゃったらまずいでしょ。今日一日上着貸してあげる」
ジャケットから煙草とライターを取り出すと、青澤ちゃんの肩にかける。
「大丈夫ですよ、三ツ矢さんが風邪引いちゃいます」
「私? あぁ、大丈夫、会社にカーディガンおいてあるから」
「……本当にいいんですか?」
「いいよー、帰りに返しに来てくれれば。じゃあ、私もう一本吸っていくから」
「はい。今日はご馳走さまでした」
「ううん。私の方こそ付き合ってくれてありがとう」
青澤ちゃんとはエントランスで別れた。屋上に向かい、冷たい風を感じながら煙草に火をつける。
「あっ三ツ矢さん、お疲れっす」
名前を呼ばれて振り向くと、黒崎くんがニカッと笑って近づいて来た。
「黒崎くんお疲れ。今日も元気にサボってんね」
「三ツ矢さんも人のこと言えないじゃないすか」
「私は良いの。今吸っておかないと午後がきついんだから」
あんまり離席すると有村ちゃんにチクリと言われるかもしれないからね。
まあ、最近は大人しいというか、貸しを作ったせいなのかとてもやりやすいけれど。
「これからもっと忙しくなるんで、息抜きは大事っすよ」
「そうなの?」
「来期の予算編成とかあるし……クリスマス・年末商戦の時期と被るし……去年なんて死にかけましたよ、俺」
「黒崎くんは何担当してるんだっけ?」
「投資計画の進捗管理っす。……でも本当は俺、営業企画部希望してたんすけどね。絶対楽しいじゃないすか。もっとこう、実績が目に見える仕事がしたかったんすよ」
「確かに、黒崎くんはそっちの方が向いてそうだね」
「そうっすよね? 本部長にも早く俺の良さに気付いて欲しいんだけどなぁ」
黒崎くんって、なんかこう、でっかい犬みたいなんだよな。憎めないというか、なんというか。
「そうだ、三ツ矢さん、今日暇ですか? 一杯飲みに行きません? もっと俺の愚痴聞いてくださいよ」
「今日? あー……いいよ。暇、暇」
家に帰っても、瀬野さんのことばかり考えて気が滅入りそうだし。
そう思って了承すると、黒崎くんは嬉しそうに笑った。
午後からもずっと瀬野さんの様子を窺っていたけれど、一度も目線が合わないまま時間だけが過ぎて行った。
時計を見るとそろそろ定時だ。
いつもだったらこんなに長引かずに仲直りできるはずなんだけど――どうにかきっかけが摑めないものかと思っていると、「三ツ矢さん」と良く通る凛とした声で名前を呼ばれて、反射的に椅子から立ち上がって振り向いた。
「お、お疲れ様です……!」
振り向いた先には社長が立っていた。私より少し高い背を見上げると、にっこりと微笑んでくれた――けど、なんだろう。背筋がぞわりとした。
「青澤さんに今日、ジャケット貸してくれたんだよね。ありがとう」
「へ?」
青澤ちゃんに貸したのに、なんで社長が返しにくるんだ……?
と思ったけど、慌てて差し出されたジャケットを受け取った。
「あ、すみません、わざわざ届けてくださってありがとうございます……」
驚きを隠せないままぺこりと頭を下げる。すると社長が首を傾げて私の顔を覗き込んできた。
整った顔にじーっと見つめられると、後退りしたくなる。
この人、ホント綺麗なんだよな……。美人すぎて、もはや威圧感すら感じる。
真っ黒い瞳に見つめられると、呼吸も止まりそうになって思わず反射的に視線を逸らした。
「……三ツ矢さんって」
「は、はい」
「恋人はいる?」
「こ、恋人ですか? いえ、いませんけど……」
「ふーん……。どんな人がタイプなの?」
「好み、ですか? えっと……」
突然聞かれて動揺を隠しきれなかった。
好みのタイプ!? なんでそんなことを、と思ったけど社長の突き刺さるような視線に息を呑む。
ここで返答を間違えたら……何故だろう、取り返しのつかないことになりそうな気がする……。
タイプ……どんなタイプが好きだろう。今までそんなこと考えた事なかった。冷や汗を拭いながら考えてみる。
えっと……童顔で、良い匂いがして、胸が大きくて――じゃない!
「筋肉質な人、ですかね……?」
咄嗟に口から出た言葉だったけれど、そう言った瞬間、社長の表情がぱっと明るくなった。
「……そっか。変なこと聞いてごめんね。それじゃお疲れ様」
「は、はい……お疲れ様でした」
急になんだったんだろう。思わず力が抜けて椅子に座り込むと、がたりと音を立てて向かい側の瀬野さんがバッグを持って立ち上がった。
「お先に失礼します。お疲れ様でした」
瀬野さんの冷たい視線が刺さる。
あ、そうか、もう定時か。
「あ、ちょっと待っ……て……」
引き留める間もなく足早に去ってしまった瀬野さんの背を見送って、深いため息をつく。
だめだこりゃ、とりつくシマもない。
するとずっと静観していた有村ちゃんが、ふうと小さく溜息をついて、私を横目でじとりと見た。
「瀬野さんと、喧嘩でもしたんですか?」
「……そう見える? あれ怒ってるよね、絶対」
「早く仲直りしてくださいね。業務に支障が出る前に」
「……善処します」
頭を抱えて項垂れる。私だってそうしたい。でもなんだか瀬野さんの雰囲気がいつもとは違う気がして――追いかける勇気なんて、残っていなかった。
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