第18話 優しさの距離

「ただいまー」


玄関の扉が開くと、結人の声が響いた。

いつもと変わらない、優しいトーン。けれど、その声が少しだけ掠れていることに、心音はすぐ気づいた。


「おかえり、お兄ちゃん。今日、遅かったね」


「うん。研究室でちょっとトラブルがあって。ごめん、晩ごはん、まだでしょ?」


「ううん、大丈夫。待ってたよ。……お兄ちゃんのごはん、食べたいから」


結人は微笑むと、キッチンに向かった。

手洗いを済ませ、エプロンをつけると、すぐに夕食の準備を始める。


(疲れてるのに……なんでそんなにいつも通りでいられるの?)


心音はリビングからその背中を見つめていた。


「ねえ、お兄ちゃん」


「ん?」


「……たまには、私が作ってもいいよ?」


結人の手が一瞬止まり、すぐにまた包丁のリズムが戻った。


「ありがとう。でも、大丈夫。心音が台所に立つと、なぜか包丁の切れ味が悪くなるんだよね」


「ひどっ!」


2人は声をあげて笑った。

だけど、その笑いの後、結人の目に一瞬浮かんだ陰りを、心音は見逃さなかった。


***


その夜、澪からメッセージが届いた。


【澪】

心音、ちょっと話せる?

今日ね、私……結人くんに言っちゃった。


【心音】

なにを?


【澪】

「無理してない?」って。

そしたらね、笑って「ありがとう」って言った。


心音の胸が締めつけられた。


(やっぱり……お兄ちゃん、無理してる)


***


夕食後、食器を洗いながら結人が言った。


「心音。明日の朝も、起こしてあげるね。コーヒー、ちょっと新しいブレンド試してみようと思ってるんだ」


「……うん。ありがとう。……ずっと、起こしてね」


「もちろん」


その声には、変わらぬ温かさがあった。

だけど――心音は少しだけ、不安になった。


(その“ずっと”って、どれくらいの時間のことを言ってるの?)


時計の針が、静かに夜を刻んでいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る