第23話

 色も形もない世界でまず感じたのは、振動だった。下から小刻みに突き上げる衝撃に、体のあちこち、膝や肘、それに腰が少しずつ揺らされる。熱も力も抜けきって、自身の体の一部であっても、まるで人形のようでさえあった。どうしてこんなところにいるのか、今、何をしている最中だったのか、それすら思い出せない。けれども、自身が今、眠りから覚めようとしていることに思い至ると、やっと目を見開くことができた。

 サルクの視界に映ったのは、幌の狭間から垣間見える、赤紫色の空だった。


 全身がようやく目覚めはじめた。まだ僅かに温もりを残す毛布から這い出て、彼は荷台の前、御者席へと這い出た。


「おはよう」


 ラクシャは、一瞬だけ振り返って、そう言った。

 アジャフは、この急な御者の変更にも気分を害することなく、淡々と走り続けてくれていたらしい。そのことに、サルクはほっと胸を撫で下ろした。


 夜が明けつつあった。竜車は北西方向に向かって街道をひた走っていた。これで先行したカーフを追い抜けるかどうかは、まだわからない。

 海辺に置き去りにしてきた仲間達がどうなったか。特に、負傷したソブックのことが気にかかった。ただ、あの場所には、他の商隊も追いついてくるはずで、そうであれば、人数が増えるとともに居残り組の安全度は少しずつ高まっていくはずだった。

 魔の山の麓に置き去りにする形になったワッドのことも、心配せずにはいられなかった。とはいえ、あの人間離れした黒衣の男が、ここまで追いかけてきていない以上、少なくともワッドは多少なりとも持ちこたえたに違いなかった。


「大丈夫? まだ寝てたほうが」

「いや、もう起きるよ」


 ラクシャが気遣うのも無理はなかった。前日の昼に海辺を離れて走り出し、夕方には魔の山を横目に見ながら走っていた。それまでの間、ラクシャには休憩が与えられていたが、日没の少し後に峡谷を抜けるまでは、念のため、彼女も目を覚ましていた。

 それからもサルクは休まなかった。月が昇り、その周囲でオクが、クズルが、モヴィウが瞬いても、なおも竜車を操り続けた。だが、その間、休憩もしなければ、食事もほとんど口にしていない。さすがに夜半過ぎになって、街道の上を安定して進む状況になってから、ラクシャが交代を申し出た。それで試しに手綱を握らせたところ、アジャフが特に不満そうな様子を見せることもなかった。それで少し気が抜けたサルクは、ラクシャの勧めに従って、仮眠を取ることにした。


「もうだいぶ進んだはずだ」

「どこにいるか、正直、わからないんだけど」

「標識がある……ほら、あれ」


 道沿いに突き出た小さな四角形の石柱。天辺の四隅のうち、どこか一方だけが高く突き出ている。つまり、それが王都シャッハのある方角なのだ。そして、王都からの距離で、その下の刻みの数が変わる。


「道は合ってる。刻みは二つ……なら、そう遠くない。到着は朝のうちかな」

「追いつけそう?」

「わからない。去年の勝負だと、だいたい不眠不休で竜車を走らせて一日で王都に着いたっていうから。カーフが着く頃に、僕らも王都の南門に到着することになると思う」


 不安げなラクシャに気付いて、サルクは微笑みかけた。


「もうすぐだよ。母さんに、いい報告をしなきゃね」


 夜が明けると、頭上には青空が広がった。初秋の、どこかもの寂しさを感じさせる朝の微風。まだ熱を感じさせる陽光の下で、ひんやりと頬を撫ぜた。

 標識の刻みは一つになり、ついにはなくなった。丈の低い草に覆われた丘を駆け上がり、下り坂に差し掛かったところで、ついに二人は見た。遠くに聳える王都シャッハの威容を。


 この斜面を下った先に、またなだらかな上り坂が見えていた。北東方向の山を背に大きな丘があって、その上に肩を寄せ合うようにして家々が犇めいていた。城壁の外側にも無数の家屋が立ち並んでおり、手近に見える家には庭や小さな畑があったりするが、城壁に近づくにつれて、そんな隙間はなくなっていく。石材に煉瓦、色とりどりの屋根瓦が斑模様をなしていた。

 二人は、ついに帰ってきたのだと実感して、その景色に見惚れたが、そんな感慨はあっという間に吹き飛ばされた。というのも、すぐ目の前の横道から、黒い点のような竜車が物凄い勢いで走り込んでくるのが見えたからだ。


 その竜車の御者もサルク達に気付いているようで、城壁の南門を目指して、乱暴に右へと方向転換をした。


「危ない!」


 思わずサルクは叫んでいた。朝の水汲みに出ていた女性が巻き込まれそうになって、間一髪でなんとか轢かれずに済んでいた。とはいえ、桶は手放し、彼女自身も道の脇に尻餅をついていたが。


「勝ちさえすれば、なんでもいいのか」


 相手に聞こえるはずもない非難の言葉が、口をついて出た。


「アジャフ!」


 声をかけると、アジャフは首を持ち上げて応えた。少しだけ歩調が速まった。


「あの人」


 ラクシャがポツリと言った。


「プーミの商人だったと思う」

「そういえば、そんなこと言ってたね」

「ここで何をしたって、別に自分の街じゃない、自分のお客さんがいるわけじゃないから……」


 サルクは押し殺した声で改めて宣言した。


「なんとしても勝たなきゃな」


 それからも先行する竜車は、暴走としか言いようのない走り方をしていた。速度だけは出ているが、明らかに制御できていない。猛り狂った竜は、右に左に蛇行しながら走った。ちょうど、献上品競争の見物のためにと道沿いにはいつもより多くの露店が立ち並んでいたが、それが好ましからざる結果を招いたのは、必然だった。

 簡素な木の柱を立てて拵えた布の日除けの下に、串焼き肉のための立ち焼きコンロが置かれていたが、それが揺れ動く竜車の車体に叩きつけられて弾け飛んだ。コンロの中の炭火もぶちまけられ、近くにいた人々は避けようとして転倒した。

 かと思えば、その向かいにあった蒸しパンを売る屋台にも車体が叩きつけられ、これまた屋根もテーブルも、もちろん積まれていた真っ白な蒸しパンも、一度に吹き飛んだ。


「いくらなんでも、これは」


 後を追いながら、サルクは息を呑んだ。


「ひどすぎる。みんな、生活があるのに」


 王都の城壁外に暮らす人々は、その内側の住民より貧しい人々が多い。一日分の売り物が台無しになっただけでも、相当な打撃になることは、想像に難くなかった。


「にしても、どうしてあんな」


 こうしている間にも、先行する竜車とサルク達の距離は、徐々に開いていった。まっすぐ走るアジャフより、蛇行しながら走るあちらの竜車の方が速いのだ。

 何かがおかしい。それというのも、休みなしにここまで走ってきたのは同じでも、あちらはサルク達より早く海岸を出発し、魔の山を大きく迂回してここに至っている。距離でも時間でも、疲労が蓄積しているのは彼らの方に決まっているのに。


「まさか、ピス草を食べさせた?」


 以前にソブックが言っていた。竜を興奮させ、短期的に力をみなぎらせる薬草がある、と。だが、その代償に、竜は落ち着きをなくし、より凶暴になる。しかも、加減を考えずに動くので、怪我をしやすくもなる。限界を超えた暴走の後には、ひどい衰弱が待っている。


「本当に、後先なんか考えてないんじゃない、あれは」

「なんて奴だ」


 先行する竜車が南の城門をくぐり、サルク達も続いた。

 城門をくぐった時、二人は大勢の人の声を耳にした。それは競争を見物に来た人々の歓声が半分、もう半分は、これまでに見たこともない危険な暴走ゆえの悲鳴と怒号だった。

 サルクにとって、ここは馴染みの通りだった。いつも商品を仕入れては、馬車でここを通って、商会の事務所まで運んでもらったものだ。そう何度も立ち寄ったわけではないにせよ、道沿いにある青果店も、花屋も、居酒屋も。どこも見慣れた風景の一部だった。

 そう、半分はいつも通りだった。三ヶ月前と変わらず、少し離れたところに、ハカット神殿の尖塔が突き立っていた。かと思えば手前には、濃淡のある石材を巧みに組み合わせて拵えられた、表通りを飾る大きな宿屋も、以前のままの佇まいを見せていた。なのに、そこにいる人々だけが違う。

 去年もそうだったから、サルクにも想像ができた。献上品を運んでくる竜車のために、南門が開け放たれている。競争に巻き込まれるのを避けるため、一般の通行人は南門を使わない。城門に付属する尖塔には兵士達が立っていて、いよいよ果物を満載した竜車らしきものが接近すると、そのことを市民達に告げる。すると、今年の勝利者を一目見ようと大通りの両脇に集まるのだ。これは、露店を営む人々にとっては、ちょっとした書き入れ時でもあった。

 だが、暴走する竜車の通った後は、無残だった。門を抜けても、なお竜は猛り狂ったまま、周辺の露店を片っ端から巻き込んで、路上に混乱を巻き起こしていた。


「追いつかなきゃ」


 あまりの惨状に、ラクシャは顔を青くしながら、そう言った。


「あんなことをする人に勝たせるなんて」

「だけど、ここであんまり速度を上げたら」


 サルクは、どんどん距離を広げられていることに焦りを感じつつ、それでも手綱を引き締めた。

 勝たなければいけない。カーフは、勝つためなら、どんなことでもした。それなら自分だって……


「だめだ」

「でも」

「こんな狭い道で、もし、子供が飛び出してきたら」

「だからって、諦めるの?」

「それは、いやだ。だけど、どうやって」


 アジャフも、自分の歩みを止めようとする御者の迷いを感じ取ったらしかった。首を回して、サルクの顔を覗き込んだ。

 今、この瞬間に限っては、カーフの方が速いのだ。少し頑張ったくらいでは、もう追いつくなんてできっこない。それとも、なりふり構わず、アジャフを全力で走らせる……


「あっ」

「どうしたの?」

「アジャフ、このままでいい。ゆっくりだ」


 勝負を捨てたかのような指示。なのに、その表情はさっきまでとは一変していた。


「どう、して?」


 だが、サルクには迷いはなかった。


「そうそう、アジャフ、もう少しだけ、ゆっくりがいい。大丈夫、大丈夫だから」


 怪訝そうではあったものの、サルクが迷いなくそう指示していることを理解してか、アジャフは走るのをやめ、歩き始めた。


「ラクシャ、もうすぐ決着だ」

「えぇ?」

「この街には、大勢の人がいる。みんな、日々の暮らしの中に、大切なものを抱えた人々だ。ここは、みんなにとっての故郷なんだ。それなのに、もし、そんな人達の思いを踏みにじるような乱暴者がやってきたなら」


 サルクは確信をもって言い切った。


「必ず裁きを受けるんだ」


 その瞬間だった。

 前方から、通りに立つ人々に身を竦めさせるほどの激烈な破砕音が轟いた。と同時に、無数の小さな影が、青い空と家々の赤茶色の屋根を背景に、勢いよく打ち出されるのが見えた。


「ね?」


 カーフの竜車がどこかに衝突したのだろうか、けれどもそんな都合のいいことが起きてくれたとも思えず、ラクシャは目を見開くばかりだった。

 やがて速度を落としたまま、その地点を通り過ぎる段になって、ようやく何が起きたかを悟ることになった。


 王都には、市域拡大のために、古い城壁を撤去したという歴史がある。だが、その際、基礎部分を取り壊さないままに街道を跡地に敷設してしまったがゆえに、数十年の時間経過で、他より強度の高い城壁の基礎部分が、僅かに迫り上がってしまっていた。だが、プーミの商人だったカーフは、そんな王都の事情など、把握していなかったのだろう。

 彼の竜車は、そこに全速力で突っ込んでしまったのだ。その段差は、大人の握り拳一つ分程度しかない。それでも、相当な速度が出ていたせいもあって、竜車は大きく跳ねて、そのまま横転してしまった。その時の勢いで、荷台に積まれていた果物の多くが天高く打ち出され、飛び散った。それ以外の果物の多くも、路上に散乱することになった。

 その上を、サルクの竜車が速度を落として通過した。せっかくケットロンからここまで運んできた南国の果物ではあるものの、こうなってはおしまいだった。多少の揺れを感じつつ、サルクは遠慮なく果実に埋め尽くされたその道を押し通った。


「ほら」


 行く手に聳える白い王城。サルクは笑顔で指差した。


「僕らが一番乗りだ!」


 二人は笑いながら、手を取り合った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る