第19話
部屋の中は静まり返っていた。慌ただしく二人の来客を迎えた後、空気の流れのない室内には、じっとりと重苦しい湿気が充満するばかりだった。けれどもその沈黙は、同時に喧騒でもあった。橙色の暖かい光に照らされた室内、そこに置かれた調度品の数々は、実にやかましくその存在を主張していた。鮮やかに彩られた光沢のある壺、黒い小箱、丁寧に金糸で刺繍を施された椅子の座面。ベッドのシーツまで極彩色だった。
室内には、香が焚かれていた。ただの虫除けというだけでなく、居室に留まる人の気持ちを安らかにするためのものだった。だが、今のサルクにとっては、ただただ煩わしいだけだった。
彼は、座り続け、考え続けた。けれども、一切考えを纏めることができなかった。
それで思い余って立ち上がり、苛立ちを発散するかのように室内を歩き回った。そうすることで得られたものは、やはり何もなかった。
ふと、入口の反対側に、目立たない黒い扉があるのに気付いた。サルクは、何の気なしに手をかけて、扉を押した。
そこは、中庭への入口だった。
こんな時間に庭でのんびりしようなんて人は、まずいないのだろうに、ところどころにランプが吊り下げてあり、香も焚かれていた。どちらも無駄遣いとは言えない。防犯対策でもあり、虫除けでもある。
何か考えがあったのでもなかった。彼は誘い出されるようにして、中庭へと彷徨い出た。
星々煌めく夜空の下、サルクはただ無心に立ち尽くしていた。
何も聞こえなかった。虫の声すら。風も止んでいて、葉の擦れる音すらない。ただ、音もなく燃えるランプの光が、中庭に置かれた神像の数々を、ぼんやりと照らし出すばかりだった。
ふと、彼は思った。どこかで見たような景色だと。
無論、そんなことはない。彼がケットロン王国を訪れたのは、これが初めてのことだ。だから、どうして見覚えがあるように感じるのか、自分でもよくわからず、思い返そうとした。
それで思い至った。これは、とても遠い記憶。かつてオリジャノ家が居を構えていた邸宅を去る、その前日の夜とそっくりだった。
そうなる一年前の春は、それは賑やかなものだった。広大な中庭のあちこちに催事用の柱が突き立っていて、そこに色とりどりのランプが吊り下げられていた。大勢の来客が立食パーティーを楽しんでいた。まだ幼かったサルクは、それがいかにも楽しそうに見えるので、中庭に飛び出したかったが、メイド達に遮られてしまっていた。それでへそを曲げて、遠くから中庭を眺めるばかりだったのだが、来客の相手が一段落した母が戻ってくると、彼はすぐ機嫌を直した。母も心得ていて、パーティーに持ち込まれた珍しい品々を、ちゃんとサルクの目に前にも運ばせてくれていた。
邸宅の中庭は、普段はだだっ広いばかりで退屈だけど、たまに賑やかで楽しくなる場所。幼いサルクにとっては、そんな空間だった。夏の朝、庭の手入れに駆り出されたメイド達相手にかくれんぼをして困らせたりしながら、サルクは周囲の大人達にめいいっぱい甘えて育った。
すべてが暗転した秋。何が起きたのか、サルクにはよくわからなかった。あんなに儚い笑顔を浮かべた父を見たのは、最初で最後だった。翌日の朝には、中庭の真ん中に真っ白な棺が置かれていた。貴族の一家の長に相応しく、その周囲には花々が添えられて、美しく彩られていたけれども、そんなことは何の慰めにもならなかった。
けれども、この時点ではまだ、オリジャノ家には体面を保つだけの余裕があったといえた。エスガルは、まさしくその身分に見合った形で弔われた。
むしろ、そこから先こそが絶望の始まりだった。
オリジャノ家は取り潰される。となれば、屋敷内の使用人達をそのまま抱えておくなど、できない相談だった。既に所領も俸祿もないのだ。地位の喪失ゆえに、付き合いのあった貴族や商人達も、すぐさま掌を返した。使用人達の行く末をなんとかするために奔走する間にも、彼らの口は食べ続ける。だからスゾーニは、バートゥルサーグの許しを得て、邸内のさまざまなものを売り払った。それらは足下を見られて、実に安く買い叩かれた。気付けば、あの壺も、あの彫像も、いつの間にか消えていた。人が減っていくと同時に、屋敷の中もがらんとするようになっていった。
サルクを愕然とさせたのは、秋も深まったある日のことだった。恐らく、幼少期の彼は、急速に移り変わっていく屋敷内の雰囲気に耐えられなかったのだろう。人数の減ったメイド達が、いかにも億劫そうに落ち葉を拾い集めているところに顔を出して、夏の間にしたように、ちょっとした悪戯をしでかしたのだ。返ってきたのは、冷たい視線と、容赦ない叱責だった。もうあと数日でここから立ち去るのに、どうしてお坊っちゃんのご機嫌取りなんかしなきゃいけないのと、そうはっきり言われた。その日を境に、サルクはぱったりと悪ふざけをしなくなった。
冬が訪れた。この頃にはもう、屋敷内にはほとんど人が残っていなかった。清掃も行き届かず、北風が何もない廊下を吹き抜けると、埃も舞い上がった。寒さが厳しくなってきても、一家には薪を買うだけのお金もなかった。厚着をしたくても、冬用の質のいい衣服はもう手元になかった。
そんな中、母が病に倒れた。毎日、ひどい咳が続いた。この頃のバートゥルサーグは、サルクの知る限りで最もみすぼらしい姿をしていた。かつての貴公子然としたところは、どこにも残っていなかった。無精髭も伸びたまま、乞食でも身につけないような服を着るのが常だった。食べるものも干からびた古いパンばかり。ただ、それでも彼は、少しでもまともな肉や野菜が手に入ったら、それはまず母、それにサルクや目下の人間に分かち与えていた。貧困と飢餓、恥辱を堪えながら、日夜、せめて母のための薬だけはと駆けずり回っていたらしい。
真冬の寒さが去り、春のはじめ、剪定もされないままの庭の木に野鳥が止まり、それが囀りを聞かせる頃に、母が亡くなった。今度は、見るからに物悲しい葬式となった。安物の戸棚だってもう少し出来がいいだろうと言いたくなるような粗雑な棺に、母は横たえられた。それを運ぶのに、立派な馬車なんてものはない。バートゥルサーグとスゾーニが、自らそれを運んだ。それを見送る人も、両手の指で足りるほどの数しかいなかった。
いよいよ春らしくなってきた頃、やっと邸宅の売却の話が纏まった。利益なんてさして残らない。お金の殆どは、借金の支払いに充てられることになっていた。
邸宅を去る前の、最後の夜。サルクは、もの寂しいその中庭の真ん中に立って、空を眺めていた。
誰もが力尽きていた。やれることはやりきった。糸の切れた人形のようにしゃがみ込むばかりの兄、スゾーニ、それにヒズマ。
何もできなかった。サルクには、できることがなかった。まだ七歳の幼さでは当然だった。それが理解できない少年ではなかったが、だからといって、そのことを受け入れられるかどうかは、また別だった。
バートゥルサーグは手元に残った僅かな元手を頼りに、王都の片隅で小さな商会を営むことにした。といっても、商売がわかるのはスゾーニくらいなものなので、大半の仕事は彼任せだったが。兄も、大人達も、サルクには優しかった。してあげられることは少ないが、立派な大人になれるよう、教育だけは施してあげられるとよく言われたものだった。
それから一年が経った頃、サルクは、この状況に耐えられなくなった。誰もが自分だけは守ろうとしてくれる。優しくしてくれる。余裕があるのでもないのに。そのことが、何よりつらかった。
気がつくと、彼は市場に向かっていた。そこにいた親方に頭を下げ、どんな仕事でもいいからさせてくださいと頼み込んだ。それから六年、彼はひたすらに働き続けた。
……いつの間にか、サルクは俯いていた。過去に思いを向けているうち、何もかもが目に入らなくなっていたのだろう。
でも、今、考えるべきは、これからどうするかだ。とはいえ、過去から切り離された未来なんてものがあり得るのだろうか?
どうしたらいいのだろうか。クンナンの持ちかけた話を受け入れるのか、それとも……
再び顔を上げ、星々の彼方に目を向けた。そんな中、南の彼方、一際明るく輝く星に目が吸い寄せられた。
それは祈願の星、サリックだった。
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