欲望の果て

@makaz

第1話 かみをすく

 指を滑り込ませる。少しだけひんやりとして、滑らかにまとわりついてくる感触に恍惚となる。指を引き抜くように、ゆっくり、ゆっくり、そっと滑らせる。幼少の頃から大好きだったその感触が忘れられない。大人になった今も不意にもたげてくるその欲求。堪らなくなる。私は欲求を我慢できなくなった。

 すみませんと思い切って声をかけた。はい、と振り向いたその女性の顔はのっぺらぼうのようにしか認識できなかったが、その黒々とした光沢のある滑らかな髪がとても美人だ。

「か、髪を」

「え」怪訝な表情を髪は浮かべて、ふわっと風になびいた。

「髪を指で梳かさせてくれませんか」

 寸刻考えるような顔つきをした後、意味が形を成したのか、表情を曇らせて怒りと恐怖を混ぜたような空気を発散しながら逃げていった。

 それからも美しい髪を見つけては声をかけ懇願した。しかし、揃いも揃って気持ち悪がられた。私は絶望の淵に立たされた。こんなにも黒い海があるのに、どうしてほんの少し触れることさえ叶わないのだろう。ただ指を通すだけなのに。肌を触るのとは違って、相手に感触などはほとんどないのに。

「髪を、」私はやり方を変えてみた。「お金を払うので触らせてくれませんか」

 怪訝な顔をするのは変わらなかったが、逃げない人も出てきた。そっとひと滑り。ひと掻き。ひと撫で。髪を梳く。黒い髪を愛でた。天使の輪の出来るような艶のある髪を愛した。そこに指を滑らせ、人肌にはないひんやりとしたぬくもりを感じると、私は何度も達した。

 長い髪が好みだ。短い髪では満足感が薄かった。ゆっくり時間をかけて髪を梳いていたいから。それが唯一の安息の時だった。たまに耳に指が触れてしまうことがあり、大抵の人は少しびくっとした。その仕草が私を大いに刺激し、髪の感触と合わさって何度も電流が走った。

 お金の続くだけ、幾日も幾人もの髪を梳いた。 ふと髪を持ち帰りたいという思いが湧き上がった。

「髪を切らせてくれませんか」思い切ってそう言ってみた。

「美容師の人ですか?モデル募集ですか?」そう返された。いや、そうではないのです。説明すると怪訝な顔つきになり、一様に断られた。また逃げる人も増えて来た。

 髪が、一房でいいので、髪が、欲しいのです。

 あてどもなく歩きまわり、めぼしい髪を見つけては梳かせてもらい、そして切らせてくれないかと頼む。しかし、これはと思う髪はことごとく切ることを赦してくれなかった。こんなに愛しているのに。誰よりも大切にする自信があるのに。


 そんな時にМと知り合った。

 Мは情報屋であり仲介者だった。

 金はないが美しい髪を持つ者を連れてきた。紹介することで小銭を稼いでいた。Мの連れて来る者は髪を切らせてもくれた。

 Мは小綺麗だが大きめの服を着ていて体型はわからない。ラフなパーカーの時もあれば、スーツの時もあったが、常にパンツスタイルだった。背丈は百七十センチほど。帽子にメガネ、マスクなので性別もわからなかった。もっともいまの時代、見た目で性別は判断できない。してはいけない。私はどう思われているだろうか。

 Мの素性に興味はないが、一つだけ興味があるのは髪だ。帽子に隠れているが、少しだけ零れる髪は質が良さそうに見える。いつか触りたいという欲求を奥底に隠し持った。

 ある時、Мが興味深い情報をくれた。

 情報に従い女を訪ねた。

「Мの紹介で来ました」

 私は一目惚れした。今までに見た事もないほどに美しい髪がそこにいた。

「ええ」艶やかにほほ笑んだ。

「あなたの髪はまるで神のようだ。この世のものとは思えない。なんて神々しい。神が宿るなんて噂もあるようで」

「あるいは、悪魔とも」

 私は打ち震えていた。神でも悪魔でもいい。早く触りたいという欲求が湧いてくる。手が髪のほうに向かっていた。

「対価がいります」

 髪に触れる前に手が止まった。

「ええ、いくらでも払います」

「お金ではないのです」ふっと息が漏れた。

「ではなにを? なんでも払います」

「血」

「ち?」

「血液です」

 私は予期せぬ提示に少々面食らったが、さほど迷うこともなく首肯した。「いくらでも」

 女はどうぞというように頭を少し下げ近づけた。私は得も言われぬ高揚感に身震いする。こわごわと指先を腰まである黒髪に滑り込ませた。ぬるするり。え?

 その感触は今までに触れたどの髪も、高級なシルクやビロードも、軽々と超越していた。もの凄くふわふわでやわらかくて滑らかで。それなのにまるで乳液のような粘着性がありながら、水のようにさらさらとしている。指を慌ただしく髪に這わせた。髪がまるで抱きしめるように指先に絡まり快楽が全身に波及する。

「せっかちはだめよ」

 慌てる手をそっと止められた。やさしく、ゆっくりと。そう耳元で囁かれた。背骨を雷が貫いた。

 頷いて、焦れるほどゆっくりと、長い髪を舐めるように梳いた。髪の先から指が抜け宙に達した。私も達した。私はまるで何かが抜け落ちたように惚けた。ぼうっと手を開き見つめた。指に髪が絡まっていた。そうだ髪を切らせてくれないか。もっと髪がほしい。この神々しい髪が。口を開こうと顔を上げた。そこには何もいなかった。一陣の強い風が吹いて指に絡まった髪がほどけて風に乗って天に舞った。ああ、と声が漏れた。

 首に違和を感じ手を当てると、血がついた。鏡で見ると二つの小さな穴があいていた。まるで吸血鬼に噛まれたように。

 その穴はいつまでも塞がらずにあった。

 私は憑りつかれたようにあの髪を求めてさまよった。あの感触をもう一度味わえるなら他になにもいらない。狂気が宿っていた。

 Мには激しく迫りもう一度会わせろと言ったが、もうわからないと言われた。それでも探してくれと懇願した。ほかの情報屋にも探してもらうように頼み込んだ。

 自分でも探しながら、髪を求め彷徨った。あの髪に届くようなものはないが、それでも日々の栄養のためにМに紹介される髪を梳いて切りまくった。

 それまでは髪に触れるのは数日に一度でも我慢できていたが、今では毎日でないと発狂するようになった。すぐにМの紹介では間に合わなくなった。いつからかイライラすると首の穴を掻きむしるようになっていた。

 安全に髪を手に入れることにも退屈していたし、金も底をつきそうだった。なにより襲うほうが興奮するだろう。想像するだけで滾るものがあった。

 程なく私は目当ての髪の後を尾けて襲うようになった。足音を忍ばせ気配を消して尾行することも難なくできるようになったし、暗闇でも夜目が利いた。嗅覚もあらゆる感覚も鋭敏になったように思う。

 暴れるような女はほとんどいないが、たまにいても鋭い鋏で脅せば黙ったし、鋏を出さなくても強い力で押さえつければ次第に抵抗する力はなくなった。男でさえも制圧できるだけの力がいつの間にかついていた。必要なら躊躇せずに殺めることができるという確信もあった。

 髪を触り切るだけだと言っても、殺さないでと懇願する者は多かった。怯え、震え、時に失禁する。涙で化粧がドロドロに剥がれた顔は愛しいと思った。

 私はやさしく髪を切りまくった。ハラハラと落ちる髪を見ると、胸に大きく開いた穴の深さに気付かされた。

 ある時、デパートに入るМを見かけた。珍しいと思い、面白いので後を尾けてみた。

 Мは化粧品コーナーのブースに淀みなく入っていった。美しい髪の女が対応した。にこやかに会話する様子を見ながら、こういったところでも顧客を探しているのだなとわかった。

 Мは不意に帽子を取る。

 溢れるほどの豊かな髪が現れた。首を振り、絡まる髪を解く。

 私は衝撃に思わず達してしまう。それほどに興奮した。いた。Мめ。騙したな。

 Мがあの女だった。顔は見なくてもわかる。あの髪を忘れるはずがない。こっちを振り返りそうなことを察し、見つからないように踵を返した。

 それからはどうやってあの髪を我が物にしようかと毎日考えるようになった。

 Мに言えば触らせてくれるだろうか。いや嘘を吐いたのだ。それはない。それにそれでは満足できるはずがない。Мは吸血鬼なのだろうか。その能力や力がどれほどかがわからない。

 しばらくは観察を続けながら美しい髪を持つ者を男女を問わずに襲った。髪を一房手にするたびに力が強まるのを感じた。

 充分に力が付いたと思った時、襲うことを決めた。決行する日は、Мが女の血を流す日。あるのか確信はないが、月に数日連続して姿を消すことがある。観察を続けるとそれは周期的なことがわかった。それはそういうことだとあたりをつけた。きっと力が弱まるはずだ。そして不意打ちをすればМと雖もどうにかできるのではないかと目算した。満月の日だと尚更いい。民間伝承では吸血鬼は月明かりに弱いとも言う。これはオマケみたいなものだが。

 あてが外れたらその時は正面から戦うまでだ。敵わずに殺されるならそれでもいい。あの髪に葬られるなら本望だ。だがただでは死なない。ほんの少しでも触れたい。その気概と願望は強く持っていた。

 そして周期的にそろそろМが姿を見せなくなる頃合いになった。消える直前に襲うと決めていた。ちょうどその日に襲いたかったがその日にはМは消えている。棲家を見つけようと何度か尾行したがどうやっても撒かれてしまった。だからせめてその直前が今できる最善だと思った。もう待てないほどに渇いてもいた。

 やってきた決行日。空には真ん丸の月が祝福するようにあった。

 Мを尾行し、ひと気のない路地に入ったところで素早く羽交い締めにした。膝裏を蹴り跪かせた。後ろ手にしてガムテープで固定する。呆気なく制圧した。

 帽子とマスク、メガネを剥ぎ取り、口にガムテープを貼り付けた。

 神々しい髪が乱れ舞っていた。見惚れると共に溢れる唾液が口を満たす。ゴクリと飲み込み喉仏が上下するのを感じた。

 興奮が最高潮になり、全身が喜びで震えた。すでに何度も達していたが全くおさまらないどころかマグマのように熱く滾り力が裡から漲っていた。抑えきれないほどの欲望で満たされながら、目の前の夢にまで見た髪に指を入れようとした。

 が、夢破れた。

 Мは圧倒的な怪物だった。ガムテープは意味を為さず簡単に千切れた。振り返った目に睨まれると蛙のように動けなくなった。立ってることもできず膝から崩れた。鋭くなった嗅覚は女の血の匂いも嗅ぎ分けるようになっていたが、Мにはその気配すら微塵もなかった。

 足蹴にされ仰向けに転がされた。ここまでか。目の前にしながら届かないのか。

 Мはにこやかに見下ろしている。

「よくここまで育ったね」

 呻くような声しか出なかった。

「私は美食家。おいしそうな血を見つけたら育ててから喰らうの」

 血を吸う時に唾液を混ぜることで吸われた者は筋力が上がり、五感が鋭くなる。強い肉体と優れた能力をあなたのような特殊な性癖の者が持ち、狂気が加われば怪物になる。そんな怪物の血が好物だと言った。

「あなた、最上級を経験したらまた欲しくなったでしょ? それを目の前にした時の高揚感は血を滾らせる。そして」

 そして? 目で問う。

「そして絶望感で滾る血をしめる。茹でた麺を冷水でしめるように。わたしは血をしめるのが大好きなの。最後のスパイスね」

 キャハハハと少女のように笑う。うっとりした顔付きで続けた。

「デパートで見つけたときは嬉しかったでしょ? あの時のあなたの顔ったら最高だったわ」

 踊らされていたのだ。

 力を得て、先に見つけ、月のものがあるように見せられ、不意をつく分があり、簡単に制圧できて、お宝を目の前にして手中におさめた、と思わされた。うまく行き過ぎていた。丸い月が嘲笑っている。

 絶頂からの奈落。この落差が私の血を美味しくする。せめて。

 ——せめて残さずに堪能してほしい。

 Мが傍らに屈み、私の首に牙を立てた。

 私のからだはしびれて震えた。それからからだが弛緩すると失禁していた。感じたことのないほどの快楽と少しの羞恥心が混じり合った。私はグツグツと煮込んだ砂糖たっぷりのイチゴジャムのようにとろとろに蕩けた。

 指先にМの長い髪が思いがけず触れた。動かないはずのからだが指先だけわずかに動いた。髪をそっと梳いた。

 神に愛撫されたような、神を愛撫したような快楽が全身を駆け巡り連続で達し果てた。

 Мは赤子のように血を吸い続けている。

 私は思わず破顔した。


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