『泡と蜜のノートブック』―日ノ杜の職人が綴る、泡と記憶の物語―
Algo Lighter アルゴライター
🍃第1章|ただ泡の音が聴こえた
🍃第1話|ノート#1:泡の音がした日
春の気配が混じる風が、日ノ杜の坂道をそっと撫でていた。
陽のあたる路地に、ぽつりぽつりと開いたレンゲの花。
どこか懐かしいにおいが、帰ってきたばかりの修二の鼻先をくすぐった。
トランクひとつで戻った実家。
母が他界してからは誰も住んでいない古い平屋の、玄関の引き戸は重たかった。
埃の匂い、閉じた空気。けれど、その奥にある小さな流し台を見たとき、
心のどこかで何かが“カチリ”と音を立てた気がした。
夜。
古びた流しに立ち、修二は黙って手を動かしていた。
ガラス瓶、蜂蜜、レモン、炭酸、そして……かつての自分が書いたメモ。
「蜂蜜ドリンク試作03-B:アカシア蜜+白檸檬+微炭酸」
・甘みは前半に。苦味は後半へ流す。
・“あの町の風”の香りを、どこまで閉じ込められるか?
それは、もう何年も前。
東京のアパートでひっそりと書きつけた、誰にも見せなかった“味の夢”。
仕込み終えた瓶を静かに机に置いた。
部屋の中は静かだった。けれど、瓶の中では——音がしていた。
「……チリ、チリ……」
酵母じゃない。炭酸の気泡が、蜂蜜の中を上がっていく音。
泡が小さく、やさしく、弾けていくその音が、
なぜか修二には、心臓の奥で鳴っている音に聞こえた。
少し冷やしてから、グラスに注いで口をつけた。
一口目。
花の香りが鼻に抜けて、舌の上にやさしい甘さが残る。
そして、わずかに感じるレモンの苦み。
目を閉じると、幼い頃、風鈴屋のカウンターで飲んだ“初夏のラムネ”の記憶がよみがえった。
杉山の養蜂場で、ふいに嗅いだ満開のアカシアの香りも。
「……ああ、こんな味だった」
声が漏れた。
まるで、自分自身がずっと忘れていた“町の音”を、口の中で聞いたような気がした。
泡は静かに消えていったが、
心のなかには、確かにひとつの衝動が残っていた。
ノート記録:#1
「泡の音がした。
それは、味の記憶が動き出す音だった。
人は理由がなくても、また“作りたくなる”ときがある。
それがたぶん、職人ってやつの病だと思う。」
修二は、グラスの底に残った泡を見つめながら、
次の一歩のことを、まだ言葉にはできずに、ただ静かに考えていた。
けれど——もう、始まってしまったのだ。
この町で、もう一度“味をつくる”という旅が。
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