夏目アンリはどちらを選ぶのか

「っていうわけなんだけど、答えになっているか?」

「……素敵な答えだと思いますわ」

 凪のように穏やかな心境で答えた。 掛谷正法は純粋な善意を持って自分と接してくれる。だから、ナイフがなくても、怒りに任せなくても、『キャラクター・ブック・ストリング』がなくても、吐き気を催すことなく会話ができている。そのことがたまらなく嬉しかった。

 アンリは掛谷の顔をじっと見つめた。写真ではない生身の掛谷の顔だ。どれだけじっと見つめても怖くない。こんなに間近で直視できる。その喜びに浸っていると掛谷の顔がずぶ濡れのままだったことを思い出した。

 アンリはポケットからハンカチを取り出して掛谷に差し出した。

「よかったらこれで顔を拭いてください」

「大丈夫なのか。高そうだけど」

 掛谷はンカチをまじまじと見る。

「大したものではありませんので」

「そうか。じゃあ、お言葉に甘えるわ」

 ハンカチを受け取ろうとして伸ばした掛谷の手は真っ赤に腫れていた。火傷のように見えた。

「ありがとな。洗って返すわ」

 掛谷が水滴を拭っている間、その全身を見渡してみると至る所に生傷ができていることに気づいた。どれも最近できたように見える。

「掛谷先輩……手に火傷が……全身も傷だらけですわ。どうしましたの?」

「ん? これか」

 掛谷はなんともないように火傷ができた掌を見せる。

「これは道中でボヤに遭遇してな。その時にできた」

「道中で……ですか」

「大したことなかったから心配は要らないぞ。しかし、今日はやけに事故が多くてな。行く先々で遭遇するせいで学校にも行けてない」

 血の気が失せていくのを感じた。

 真っ先に浮かんだのは、作りの粗い人形が突発的な危機に対応できなくて引き起こした事故なのではないか、という可能性だ。掛谷はきっと彼らを助けようとして負傷したのだろう。つい先ほど池に落ちた浮浪者を助けたのと同じように。そんなことを何度も、何度も繰り返してこんな傷ができたのではないだおるか。


 自分の理想の世界が、好きな人を傷付けている。


 思い浮かんだ可能性に胸がチクリと痛む。

 目の前で浮浪者が溺死しそうになっても、自分の願った世界で知らない誰かが事故を引き起こしても何も感じていなかったのに、掛谷が傷ついている現状は耐えがたいほど苦しい。

 この後も彼は行く先々で人を助けるだろう。容易に想像ができる。そんなことを繰り返しているうつに、下手をしたら死んでしまうかもしれない。

 想像しただけで身の毛がよだつ。今まで味わったことのない恐怖を覚えた。

「どうした? 具合が悪いのか?」

 そんな思いが顔に出ていたのか、掛谷が心配した様子で声をかけてきた。

「い、いえ。なんでもありませんわ」

 アンリは平然を装った。

「そっか。じゃあ俺はそろそろいくぜ。夏目も気をつけろよ」

「え、ええ。お気遣い、ありがとうございます」

 アンリは笑って見せたが、その笑顔は人間恐怖症による吐き気をこらえていた時よりもぎこちなかった。

 どうしたら掛谷が傷つかずに済むのだろうか。遠くなっていく掛谷の背中を見ながら必死に考えた。

 考えた末に一つの案を思いついた。掛谷は今『糸』の支配を受けていないから彼の欲に従い、人助けをし、傷ついている。ならば『糸』の力を使って、人格を植え付ければ見ず知らずの人を助けることはなく、彼の命を守れるはずだ。

 アンリは「栞」の力を発動し、純白の手袋が装着された右手を去りゆく掛谷の背中に向けた。

「できません……」

 震える声で呟いて右手を抑えてその場に崩れ落ちた。人格を書き換えてしまったら自分の愛した掛谷正法ではなくなる。そんな真似はできない。ヤケになって世界中の人間を支配した昨日ならいざ知らず、できるわけがない。

 今の世界を世界を手放すしかない。しかも、『キャラクター・ブック・ストリング』を捨てる形で。

 掛谷の安全を考えたら今すぐにでもこの世界を手放すしかないのである。

 糸の支配を一人一人解除していたら何年かかるかわからないし、残った全ての人類に人格を与えるのも同様に時間がかかりすぎる。最も確実に、最も手早くこの世界を元に戻すには『キャラクター・ブック・ストリング』を捨てるしかない。

 アンリは純白の手袋に包まれた自らの右手を見つめる。ブルブルと震えていた。この力を捨てようと考えて──

「いやだぁ……」

 悲鳴に近いかすれた声を上げて、アンリは頭を抱えてうずくまった。

 この力のおかげで仮初の友人を手に入れ、孤独と他人への恐怖を乗り越えることができた。そんな心の拠り所を失った世界が恐ろしくてしょうがなかった。

 選ぶことなんでできない。でも、選ばなければならない。

 惚れた男が傷つかない世界か。自分にとって居心地の良い世界か。掛谷が公園を出てしまう前にどちらかを捨てる覚悟を決めなる必要がある。

 2つの選択肢に向き合ったアンリは歯を食いしばる。食いしばった歯の隙間から嗚咽が漏れた。

 

 答えは最初から決まっていた。どれだけ泣いて悩んでも答えは変わらなかった。足りないのは覚悟だけ。でも、覚悟が定まるのを待つ時間はない。走り出さなければならない。

 アンリは立ち上がり、地面を強く蹴って走り出した。

 宵闇に包まれた理想の世界の中を脇目も振らずに走る。これから立ち向かう世界への恐怖を誤魔化すように。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る