なぜ高木結弦は支配されなかったのか

 アンリは目の前に出現した黒猫を呆けた顔で見る。自体が飲み込めない。ただ、最大の脅威がどこかへ消えたことだけは理解した。

 今のうちに円香の持っていた『栞』を回収しようと地面を這って移動した。

(あれさえなければ、わたくしの理想の世界を壊せる者はいなくなる)

 後少し。あと少しで『栞』に手が届く。

 アンリの指先が『栞』に触れる直前で、『短剣』の力が込められた『栞』は男の手によって拾い上げられた。

「関の今の姿は、君の力のせいかもしれないんだ」

 顔を上げると結弦が『栞』を手に持って見下ろしていた。

「世界樹が誰かの願いを叶えた時、ああやって別の誰かに呪いを与える……らしい」

 アンリは体を起こし、尻もちをついたまま後ずさりする。

「君が人間を恐れる理由もわかる。掛谷に好きな人がいたことを黙っていたことも、申し訳ないと思う。でも、それは誰かを苦しめたり、ましてや世界そのものを壊したりしていい理由にはならない」

 結弦は『栞』を発動させずに、こちらに手を差し伸べていた。

「その力を手放すんだ」

 アンリは結弦の手を払いのけ、後ろに下がって距離を取った。

 手元にナイフはない。招集した応援の到着にも時間がかかる。残された抵抗手段は『キャラクター・ブック・ストリング』のみ。

 一度無効化されているけれど、ここで諦めたら自分はあの恐ろしい世界に戻らなければならないのだ。どんなに醜くても足掻くしかない。

 アンリは最後の抵抗として『糸』を放った。

 結弦はよける素振りすらみせず『糸』を正面から受け止めた。アンリの指先と結弦の体が無数の『糸』によって繋がれる。手ごたえはなく、心が折れそうになったが円香の時と違って『糸』は消滅していない。まだチャンスはあると自分に言い聞かせ、アンリはブラウスのボタンを1つ外した。

「関」

 結弦は状況を観察するように糸を見つめている円香に話かけた。

「2人がかりでやった方が良かったのかもしれないが、確証が持てなかった。ただの偶然を頼りに君の足でまといになっては申し訳ないと思って後ろに下がっていたけれど……やっぱり僕には『キャラクター・ブック・ストリング』、夏目さんの『糸』の力は効かないらしい」

「どうして、そう思うのです? 単に時間がかかっているだけかもしれませんわよ?」

 アンリは震える声で結弦を挑発した。

「学校からここに来るまでの間、僕はなぜ、他の人たちと違って正気を保っていられるのかを考え、1つの仮説を立てた。『キャラクター・ブック・ストリング』は人間の『欲望』をトリガーに人を操るのではないかと」

 アンリの顔が強張る。まさか、そこまで的確に見抜かれるとは思わなかった。

「君は僕がこの部屋に入ってきて『糸』を結び付けても効果がないと知るとナイフを僕に突き付けてきた。あたかも決まった所作のようにね。『糸』が効かないから始末しようとするにはためらいすぎているし、『糸』をほどくこともしなかった。このことからなんらかの感情を誘発させることが必要条件なのは何となく察しがついてた。少なくとも、萩原さんをお茶会のメンバーにした時ぐらいまでは、ナイフで脅迫しないと『キャラクター・ブック・ストリング』の力を使えなかったんだろう。僕たちが萩原さんにあったとき、制服にあったほつれ跡はナイフを使ったときについたもの、だったりしないかな」

 アンリの心臓の鼓動が速くなる。結弦はもう目と鼻の先まで迫っていた。落ち着け。まだチャンスはあるとアンリは自分自身に訴える。幸いにして結弦はまだ『栞』を短剣の姿に変えていない。こちらを甘く見ているんだ。そこに付け入るしかない。

「ナイフによる脅迫はしたのは恐怖が最も『欲』を引き出す手段として簡単だから、かな。要するに『安全な状態でありたい』という欲求を強引に引き出すわけだ。今、こうしてたった一晩で町中の人間を『糸』の支配下にできたのは『欲望』に頼らずに使えるようになったのかな。それとも人間は多かれ少なかれ欲望を持っているから、という解釈の方が的確だろうか」

「さぁ、どうでしょうね?」

 アンリは煽るような口振りを意識した。苛立たせることが目的だ。しかし、『糸』が結弦の感情に反応する様子はない。

 それでもまだチャンスはある。まだ『糸』の力を取り上げる瞬間が残っている。世界の命運がかかったこの『栞』が欲しくてたまらないはずだ。人は欲しいものを目の前にした時、欲望が最大に膨らむ。そこで絶対に引っ掛けて見せる。

「そもそも、ナイフからどうして欲望が条件だと思いますの? 少々強引理屈理じゃありません?」

「現象が特定の個体にのみ起こらない場合。大きく分けて2つの理由が考えられる」

 結弦は立ち止まり、淡々とした口調でアンリの質問に答えた。

「1つはその個体しか持っていない何かがある場合。例えば関のように『呪い』を抱えている場合だ」

 そして、と結弦は続けた。

「もう1つは、その個体だけ何かが欠落している場合だ。僕は自分が特別な何かを持っているとは思えない。だから後者の可能性を第一に考えた」

「何が言いたいんですの?」

 訝しむような眼でアンリは結弦を睨んだ。

「要するに消去法だよ。僕にないものがトリガーだと考えて、そこから逆算しただけだ」

 一息置いてから、結弦はこう言った。

「僕は欲望という物を持てないんだ。10年前に父をこの手で殺してしまってからね」

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