夏目家へ
午前中の雨雲は見る影もなく、 初夏の太陽が照らしつける中で結弦と円香は夏目家と歩く。強い日差しが雨上がりの湿気が2人の体力を奪い続けて3時間が経過した頃、結弦は近場の日陰で立ち止まり、円香に呼び掛けた。
「関、僕は君に伝えなければならないことがある」
円香が日陰に入るのを待ってから結弦は言った。
「何よ。言わなくてもわかるけど」
「そうか。だがこれはきわめて重要な事実確認となる。確実に言語化して状況を共有した方がいい」
結弦は真剣な顔つきで関を見つめる。円香は少し呆れた表情をしながらも手のひらを向けて「じゃあ、どうぞ」という意思表示をした。
「どうやら僕たちは道に迷ったらしい」
「でしょうね! 薄々わかっていたわよ!」
円香は叫んだ。夏目家は桃園学院から車で約10分の距離にある。徒歩で向かう場合は単純計算で1,2時間程度で辿り着けるはずなのだが未だにそれらしい建物は見えてこない。結弦は不思議に思っていたが、1時間ほど考えた末に結論を得た。道を間違えたのだと。
「車でしか行ったことがなくてな。それらしい道を選んでみたが、間違っていたらしい。ごめん」
「はい、世界終わった。迷子が原因で終わったわね……」
円香はその場にしゃがみこんで深い溜息をついた。
「大丈夫だ。まだ猶予はある。方向さえあっていれば遠くないうちに辿り着けるさ……多分」
「よし、カレー食べましょう、高木君。玉ねぎ多めで野菜がゴロゴロしてるのがいいわ。近くにスーパーあったかしら」
「こんなに生活感のあふれる介錯の依頼があることに僕は驚いてるよ」
「この体に感謝ね。好きなものを食べて死ねるなんて、死に方としてはなかなか最高の部類じゃない?」
「まあ待て。早まるな。それと、姉さんがいないとカレーは作れないから諦めてくれ」
「なんで? お姉さんから出汁でも取ってるの?」
「そんな悪趣味な調理法はしてないから。とにかく、悲観してないで夏目さんの家に急ごう」
結弦が諭すと、円香は怪訝な目で見上げた。
「と言ってもね、これだけ迷って夏目さんの家に辿り着いても夏目さんが『糸』の持ち主だっていう確証はないのよね」
「……まあね。でも、根拠はある」
結弦は胸ポケットから会長の生徒手帳を取り出すと、とあるページを開いてから円香に手渡した。
「これは?」
「昨日会長が言ってた『お茶会』の出席者リストだよ。上から3番目に夏目さんの名前がある。少し近づいただけで嘔吐してしまうほど重い人間恐怖症の彼女が、お茶会という社交の場に参加できるとは思えない」
「早計じゃない? 家同士の付き合いでどうしても参加しなきゃいけないから、その場にいただけかもしれないわ」
「うん。でも、会長が『お茶会の出席者は皆、急に人格が変わった』って言ってただろ」
「……夏目さんも人格が変わった」
円香はぼそりと言った。
「その通り。ここから先は全ていくつもの仮定を前提とした推測に過ぎないけど」
と結弦は前置きしてから自分の考えを語った。
「夏目さんは相手が何を考えているか分からないから人間が怖いと言っていた。ならば、『キャラクター・ブック・ストリング』で支配した相手ならどうだろうか。多分、彼女は普通に離せるはずだ。『相手の考えていること』は『糸』の力で与えた設定通りのものに限られるからね」
「『糸』を使われて人格が変わったのではなく、『糸』の力で人と話せるようになったことだった。そう言いたいのね」
「ああ。以上が僕の考察だけど、どうかな」
円香は黙って考え始める。しばらくじっと地面を見つめていた彼女は突然ぱっと立ち上がると、スカートの埃を手でパンパンと払った。
「論理的な飛躍はあるし、あまりにも強引な前提だらけ。そもそも、彼女が『糸』の持ち主だったとして家に引きこもっている保障はないけれど、でも、最後の悪あがきにしては上々ね。いいわ。その賭けに乗りましょう」
円香は凛々しい笑顔を見せた。
「でも。彼女はなぜwこんな事態を引き起こしたのかしら。もちろん、ストレスが限界になったからと言われたらそれまでなのだけど」
結弦はこの疑問に対する答えに詰まる。古刹の綻びを突かれたからではない。むしろ、この疑問に対する自分なりの回答はある。ただ、少し言いにくい内容だった。
「『なぜ、世界を書き換えようとしたか』という意味ならわからない。でも、『なぜ、今なのか?』という問いの答えなら心あたりがある」
「それは?」
「多分だけど、夏目さんは昨日、失恋したのだろう」
「失恋? 告白して振られたってこと? 思い切りすぎじゃない?」
「いや、違う。夏目さんにそんな度胸はない」
「高木君は手心って言葉知ってる? でも告白をしていないとしたら……」
結弦の鋭利すぎる否定を流しつつ、他の失恋する要因について思考を巡らせる。答えはすぐに見つかった。
「掛谷君に好きな人がいることを知ってしまった?」
結弦はゆっくりと頷き、自嘲気味に続けた。
「偶然にも昨日、掛谷とそういう類の話をしていてね。本当にこの件に関して、僕は迂闊な行動が目立つな」
道に迷ったことを自覚してから一時間後。ようやく2人は夏目家に到着した。
「うわぁ……」
夏目家の玄関ホールの中心で円香は顔を歪ませた。この広い屋敷の中から夏目アンリを探すことを想像したからだ。平時であれば、これだけ広い屋敷にはしゃげたかもしれないが、今は果てしなく続く長い廊下が、ただただ億劫な気持ちにさせる。それに、この屋敷の広さは気持ち以外の部分でも無視できない障害となっていた。
「二手に分かれて夏目さんを探しましょう。時間がないわ」
オレンジ色の日差しが窓から差し込んでいる。日没が近いのだ。
仮にこの屋敷に夏目アンリがいるとして。
彼女が『キャラクター・ブック・ストリング』の持ち主だったとして。
猫の姿になってしまったら、『栞』を取り上げることは難しくなる。人の姿なら確実にできるというわけではないが、猫の姿では万に1つのの可能性もなくなる。 猫化の呪いは『キャラクター・ブック・ストリング』の対抗策であると同時に、事態解決のタイムリミットでもある。
「夏目さんの部屋は左側? 右側?」
「右側だ」
「じゃあ、私は右側の部屋を調べるわ。高木君は左側の廊下をお願い。調べるときは奥の部屋から順番に調べて、調べた部屋のドアは開けっ放しにして頂戴。で、違ったらキッチンを借りてカレーパーティでもしましょう」
結弦が苦笑いしながら「レトルトしか用意できないけどな」と返して、2人は夏目邸の捜査を開始した。
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