第16話 盟ノ宣言(めいのせんげん)2
その夜は、不思議なほど静かだった。
灯籠の明かりが、障子に淡く揺れ、部屋の中にぼんやりとした光と影を落とす。
ナギはひとり、身支度を終えた几帳のそばで、膝を折っていた。
明日にはこの宮を発ち、異国の地に赴く――その重みが、今さらのように胸に満ちていた。
そのとき、戸が音もなく開いた。
「……支度は、整ったか」
低く、凛とした声。
振り返らずとも、それが誰であるか、ナギにはすぐにわかった。
「はい……すべて、整っております」
オオキミは、几帳の向こうへと進み、ナギの正面に立った。
その表情には、いつもの威厳と冷静さがあったが、その奥に――
ほんのわずかな翳りが、影のように滲んでいた。
しばし見つめ合ったのち、オオキミはゆっくりと手を伸ばし、ナギを抱き寄せた。
その腕は強くもなく、弱くもなかった。
ただ、確かに“ぬくもり”を持っていた。
「……必ずや、カムナ国のイズナを落とせ」
その声は命ではなく、願いに近かった。
そして、そこにはもはや“愛”も“欲”もなかった。
あるのは、共に火の中を歩んだ者にしか築けぬ、名のない絆――
魂のどこか深くでつながった、言葉にしえぬ確かなもの。
ナギは、そっと顔をあげた。
その瞳には、もう迷いも、ためらいもなかった。
「かしこまりました」
その声は穏やかで、どこか切なげで――
だが、誰よりも強い意志に満ちていた。
朝。
霞のように淡い陽光が、宮の瓦屋根を優しく撫でていた。
春の空気には、まだ夜の冷たさが微かに残っている。
奥の間で、ナギは静かに身支度を整えていた。
朱と金を重ねた装束は、目にも鮮やかでありながら、その重さはまるで、この先に待つ宿命そのもののように肩にのしかかっていた。
几帳の向こうでは、ナズナが控えている。
彼女はすでに装束をととのえ、ナギとともに旅立つ覚悟をその身に刻んでいた。
「……行きましょう、ナズナ」
ナギの声は静かだったが、その奥にはゆるぎない意志がこもっていた。
「はい。ナギさま……」
ナズナは、わずかに目を伏せ、すぐに顔を上げた。
かつて、長老に蹂躙された少女は、今や立派な侍女として、ナギの影となり、盾となる覚悟を秘めていた。
廊下に出ると、見送りの者はわずかだった。
誰もが目を伏せ、声をかけることもない。
それでも、ナギの歩みは迷いなかった。
すべてを見据えるように、真っすぐに門へと向かって進んでゆく。
その足元を包む衣は重く、けれど、揺るぎなかった。
後ろには、ナズナがひとつ間をあけて、きっちりと従ってくる。
まるで、その背に火を守る者のように。
ナギの目は、誰よりも遠くを見ていた。
かつて失った者たちの無念も、オオキミとのあの夜も、駒としての覚悟も――
すべてを内に秘めて、ナギは歩き出した。
その背には、静かなる炎。
それは冷たくも、美しく――
決して消えることのない、誓いの火だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます