第四話 「春の名残、桜の香り」
八月。
空は高く、セミの鳴き声はすでに力強さのピークを過ぎ、少しずつ夏の終わりを匂わせていた。
健一たちは、ついに完成した試作品に名前をつけた。
《春の名残(はなのこし)桜蜂蜜エール》
原料には、杉山の桜蜜。
発酵には、長老がかつて使っていた低温発酵の酵母。
そして醸造は、修二が三度の失敗を越えて生み出したもの。
琥珀色のビールは、澄んでいながら、わずかに“やわらかな濁り”がある。
グラスの縁には繊細な泡がふわりと乗り、時間が経っても消えない。
「……これ、すごくないか?」
さやかが、泡の縁を指でなぞるようにして言った。
「普通のビールなら、もっと早く泡が消えるけど……」
「たぶん、蜂蜜の“粘性”だ」
修二が冷静に答える。
「糖分と植物由来のタンパク質が、泡の膜を強くしてる。
しかも、重すぎないから泡立ち自体は良好……偶然だけど、これは“武器”になるかもしれない」
健一は、グラスの中を見つめながら笑った。
「春の蜜が、夏を越えて、グラスの中に残ってる……まさに“春の名残”だな」
町の文化会館ロビーで開かれた試飲会は、風鈴屋主催の“地元向けイベント”だった。
クラフトビールはまだ販売できないが、「あくまで試飲として提供する」という形で町の人に披露する。
参加者の多くは、風鈴屋の常連や、マルシェで蜂蜜ドリンクを気に入った人たち。
そのなかには、若い女性のグループや、観光パンフレットを片手にした新しい顔ぶれもあった。
グラスに注がれた“桜蜂蜜エール”は、光を通すと淡くピンク色を帯びて見えた。
テーブルのあちこちで、最初の一口に声が漏れる。
「え……なにこれ、おいしい!」
「めっちゃ華やか! でも甘すぎない!」
「……泡がずっと残ってるの、なんか贅沢な感じするよね」
三人は、会場の隅からその様子を見守っていた。
直接感想を求められることも多く、照れながら、でも誇らしげに答える。
「蜂蜜って、酒に向かないって思われがちなんですけど、酵母と仲良くできれば“香りの魔法”を起こせるんです」
「泡が消えにくいのも、実は特徴なんです。グラスのなかに、季節が長く残ってるような気がするでしょ?」
とある若い女性が、さやかに笑顔で言った。
「このビール、もったいなくて最後まで飲めないかも。
グラスの中の桜が、ずっと咲いてるみたいで……」
その言葉に、さやかは思わず、ほんの少しだけ目を潤ませた。
「……ありがとう。ほんとに、うれしい」
イベントが終わり、三人で片づけをしているとき、健一がふと呟いた。
「……最初にさ、修二の蜂蜜ドリンクを飲んだとき、“この味で町が動くかも”って思ったんだよね」
「で、今は?」
「……本当に、動き始めたんだなって。今日、それを実感した」
修二は、持っていたタオルで汗を拭きながら言った。
「けど、今日の成功は“入り口”にすぎねぇ。
もっと蜂蜜を集めなきゃ、保存のことも考えなきゃ、ライセンスも正式に取らなきゃ……」
さやかが笑った。
「うん。でも今日は“終わらない泡”がひとつできたってことで、いいじゃない」
三人は見つめ合い、静かに笑った。
風が吹いた。
文化会館の外に吊るされた風鈴が、ちりん、と鳴る。
その音はまるで、町のどこかで咲き残っていた桜が、
いま、グラスの中でそっと揺れているような、やさしい音だった。
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