カルテNO.04 前田 (5/7)

 初回の治療を終えた前田さんは、記憶を取り戻すため、治療の継続けいぞくを希望した。


 私は次回の診察予約を確認して前田さんを帰した後、治療方針について検討けんとうした。今日の診察で、彼女との信頼関係の基礎ができた。また、治療に前向きな態度であることも好感触こうかんしょくである。


 でも、解離性健忘かいりせいけんぼうの引き金となった出来事は、まだ特定できていない。


「まだまだ、これからね……」


 デスクの上のポットから白湯さゆをカップに注ぎ、一口含んだ。


 ふう、と息をつき、背もたれに体をあずける。


「中学生の頃とか、『なかったこと』にしたい記憶の一つや二つ、あるわよね……」


 眉根まゆねを寄せ、「私にもね」とつぶやいた。


 ◇◆◇◆◇◆


「あ~、プール爆破ばくはしたい……」


 中学二年の私は、物騒ぶっそうなことを考えながら教室を出た。


「なんで水泳って必修ひっしゅうなんだろう。泳げないと困ることって、ある? 普通に生きてて」


 水泳自体が嫌いなわけではない。あの水着が許せないのである。


 言ってみれば、八つ当たりである。「坊主憎ぼうずにくけりゃ、袈裟けさまで憎い」っていうやつだ。いや、それの逆バージョンか。


「あんな恥ずかしいカッコで、みんなよく平気だよね……」


 私は、物心ものごころついたころから自分を男だと思ったことはない。そんな私にとって、あのショートスパッツみたいな薄い布切れ一枚では、全然面積が足りないのである。人前に出るには。


「さすがに、もう休めないしなぁ」


 体が男の私には、女の子特有の理由で水泳を見学することができないため、仕方なく毎回水着を「忘れて」水泳の授業を見学していた。


 3回目に体育の教師から怒鳴どなられ、4回目の水泳の授業の後、親が学校に呼び出された。


 母親は、いつも父親に対してするようにオロオロして頭を下げ、次の水泳の授業には必ず私を参加させると約束させられた。


 母親の顔を立てなければならない義理ぎりはないのだが、これ以上親の情けない姿を見るのもがたいため、私は断腸だんちょうの思いで水泳の授業に参加することにした。


「なんだ、冴木さえき! その格好かっこうは」


 せめてもの抵抗にと、バスタオルを体に巻いてプールサイドに出た私に、体育教師のするどい声が刺さる。


「あの…… 恥ずかしくて……」


 消え入るような声で答えた私に、体育教師は「あ? なんだって?」と言って耳に手を当てた。


 私がだまっていると、「お前、女か?」と吐き捨てるように言って、体育教師は去っていった。


 私がくやしさに震えていると、男子生徒たちがニヤニヤしながら私を見ていた。模擬試験の成績で私にかなわない連中にとって、体育教師に恥をかかされた私の姿が、さぞかし愉快ゆかいに見えたのだろう。


「死ね、みんなとても苦しんで死ね」


 私はのろいの言葉を心の中でつぶやいた。


 準備体操までは、意地でタオルを巻いたまま過ごした私だったが、さすがにプールに入るときにはタオルを取らざるを得ない。


 渋々タオルをフェンスに掛けると、私はスタート台の上に立った。


「合図で飛び込んで、25メートル泳いだらすぐにプールサイドに上がってタオルを巻けばいい」


 私は自分に言い聞かせ、合図を待つ。ただでさえ恥ずかしい格好をしているのに、こんな「お立ち台」の上にいるのは、私には耐えがたい仕打ちだった。


「あー、もう、早くしてよ!」


 コースごとに、スタート台の後ろに順番に並んで、自分の前に泳いでいる生徒が全員ゴールしてから、次の組が飛び込むことになっている。私がイライラしながら合図を待っていると、私の後ろに並んでいる生徒が、何やらひそひそと話していた。


「イヤな感じ」


 私は、あえて聞こえないふりをしていた。


 ようやく前の組が全員プールの壁にたどり着き、体育教師がホイッスルを鳴らそうとこちらを振り向いた時、なぜかお尻がスッと寒くなった気がした。


「え? 何?」


 すでに飛び込みの体勢になっていた私は、足元に何かがまとわりついたため、バランスをくずしてそのままプールに落ちた。


 軽いパニック状態で確認すると、私の水着は足首まで降ろされていた。あわてて引っ張り上げてから、水面に顔を出す。


 私の水着を降ろした連中は、バカみたいに笑っており、体育教師は「しょうがねぇなあ」というように苦笑いしているだけだった。


 私は、今後何があろうと水泳の授業には出るまいと、固くちかった。

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