無冠の剣

たる

1.流刑地の少年

帝国アークレイド――それは幾多の戦乱と征服を経て生まれた、圧倒的な支配を誇る大帝国だった。




かつて数多の小国が存在したこの大陸は、長きにわたる争いの果てに、アークレイド帝国という一強体制に収束した。帝国は圧倒的な軍事力を背景に次々と周辺国を征服し、その強固な支配網を広げていった。力を持つ者だけが正義であり、弱き者は屈服を強いられた。こうして築き上げられた帝国の統治は、安定という名の抑圧であった。




帝国はまた、精霊の存在を否定し、精霊と交感する者たちを異端として激しく弾圧した。かつて人々の暮らしを支え、信仰されていた精霊たちは、帝国にとっては支配を脅かす邪魔な存在でしかなかった。帝国は精霊との関わりを絶つことで、人々の精神的支柱を奪い去り、心の底から帝国への服従を促そうとしたのだ。異端審問が設立され、精霊とのつながりを持つとされた者たちは次々と処刑され、あるいは社会から隔絶された流刑地へと追放された。




その流刑地こそが、帝国に反抗する者や、帝国の政策に異を唱えた者を社会から切り離すために作られた場所だった。帝国は反逆の芽を摘み取り、人々の抵抗の意思を挫くために、意図的にこの地を荒廃させた。支援や援助は一切なく、ただ生き延びることすら困難な極限の環境を作り出した。




こうして帝国は反抗勢力を弱体化させ、社会的影響力を奪い取り、自らの支配を絶対的なものにしようとしたのである。この流刑地に追いやられた者たちは、生きる希望すら許されない絶望の地で、日々をただ生き延びるためだけに費やしていた。












冬の流刑地は、まるで死そのものだった。




雪は容赦なく降り続き、昼夜を問わず大地を覆い尽くしていた。踏みしめた足跡もすぐにかき消され、すべての痕跡を白の闇が塗り潰していく。空は常に灰色に曇り、陽光のぬくもりなど何日も感じていなかった。凍てつく風は皮膚を切り裂くように吹きつけ、木々は凍りついた枝を軋ませている。川も湖もすでに完全に凍結し、かつて命を育んでいた水源は沈黙して久しかった。




村と呼ぶにはあまりにも心もとないその集落には、いくつかの木造小屋がひしめくように立ち並んでいた。屋根には厚い雪が積もり、壁の板は歪み、隙間風が容赦なく吹き込む。焚き火の煙がかすかに上がる小屋もあれば、煙すら出ていない沈黙の住処もある。その意味は一目瞭然だった。




「……また、今朝で三人目だ」




そんな声が、凍えた朝の空気の中に溶けていった。猛吹雪が続いた夜の翌朝、凍死者の数は日に日に増えていた。




亡骸を囲む者はほとんどいない。簡単な布を顔にかけたら、それで終わりだ。土は凍って掘れない。だから亡骸はそのまま、雪の下へと押しやられるだけだ。




人々の顔には悲しみも、嘆きもなかった。ただ、沈黙だけが支配していた。助けを求める声もあっただろうが、誰もそれに応じなかった。自分が生きることに精一杯で、他人に手を差し伸べる余裕など、誰一人として持ち合わせていなかったのだ。




「おい、少し分けてくれ……」




ガリガリに痩せた男が、別の小屋の扉を叩いた。だが中から返ってきたのは冷たい怒声だった。




「ふざけるな!うちだって限界だ!」




「……頼む、子どもが……」




「他を当たれ!」




バタンと扉が閉まる音が、氷のような空気に鋭く響いた。




どこにでもあるやりとりだった。驚く者はいない。村人たちは互いに顔を知っていても、名前すら知らぬ者も多かった。語らず、関わらず、ただ静かに命を燃やし尽くすのを待つだけの場所。それが、帝国に見捨てられた者たちの末路だった。




それでもなお、生きようとする者たちはいた。毎朝、薪を集め、罠を点検し、ほんのわずかな食料を得るために森へ向かう者たち。その姿に賞賛の眼差しは向けられない。むしろ「まだ足掻くか」という冷笑が背中に刺さるばかりだった。




この地では、希望は罪だった。生きようとする意志は、既に諦めた者たちにとって苛立ちでしかない。そうやって、この村の空気は、雪よりも冷たい孤独に満ちていた。












ライグという名の少年は、雪の白に埋もれた流刑地の中で、異質な存在としてそこにいた。




まだ十五歳。だが、その瞳には年齢に見合わぬ鋭さと覚悟が宿っていた。肩まで伸びた黒髪は雪に濡れて重く垂れ下がり、顔の輪郭を細く縁取っていた。頬はこけ、痩せた体には栄養の欠如と疲労の色が濃く刻まれている。身にまとうのは、何度も繕われた古い外套。布地の隙間からは、凍傷に赤黒く染まった皮膚や、裂けた傷跡が覗いていた。手のひらはひび割れ、指先は火にかざしてもなかなか温まらない。けれども、彼の瞳だけは、決して曇ることがなかった。




アークレイド帝国において、ライグの家系はかつて名を馳せた名門だった。代々剣士を輩出し、前線の戦場で数々の武功を立ててきた。しかし、彼らには致命的な欠点があった。政治に無関心だったのだ。帝国の中枢でうごめく政争の渦に抗う術も持たず、次第に敵を増やしていった。そしてある時、その火の粉が一家に降りかかる。




父は、剣士である前に一人の人間として、弱き者を守るという信念を持っていた。帝国の不正に対して異を唱え、民衆に寄り添おうとした彼は、体制の「異物」として処理された。公開処刑の場で、彼は最後に息子であるライグに目を向けたという。まだほんの小さな子どもだったライグの記憶に、父の口元のかすかな笑みと、風に消えた最期の言葉が残っている。




「正しいことを選べ、ライグ。どんな時でも……」




それが、父から息子に遺された唯一の遺言だった。




やがて、母とともに流刑地へ送られたライグは、さらに過酷な現実と向き合うことになる。寒さと飢えに蝕まれ、希望という言葉が死語となったこの地で、母は次第に衰弱していった。薬も医者もなく、せめて布団すら与えられない環境の中で、彼女は静かに力尽きた。ライグはその小さな手を握りしめ、何度も助けを求めたが、誰も来なかった。




その夜から、ライグは一人になった。




生きるために覚えたのは、狩り、薪拾い、雪解け水の集め方。罠の作り方も、自分の傷の手当ても、誰にも教わらず身に着けた。誇りだけは捨てなかった。父の剣を思い、母の微笑みを胸に、彼はこの極寒の地を一人で歩き続けてきた。




誰にも頼らず、誰にも従わず、ただ己の信じる道を見失わぬように。












朝の空気は、肺の奥まで凍らせるほどに冷たい。凍えた靴の中で足の指がしびれ、感覚が薄れていくのを、ライグは意識の片隅で受け流していた。寒さと飢えは、流刑地で生きる者にとって常に隣り合わせだ。それを嘆いても、何かが変わるわけではない。




この日、ライグは森の北側に罠を仕掛けに向かっていた。昨日撒いた獣道沿いの餌の残り具合を確認しながら、足音を極力殺して雪を踏む。獲物が罠にかかっていることを祈るのは毎度のことだったが、彼の期待はすぐに裏切られた。




「……また、盗まれてる」




わずかに散らばる足跡と、切断された縄。そこにあるべき獣の姿はなく、代わりに他人の靴跡が交差していた。村の誰かが、罠にかかった獲物を盗んだのだ。そうしたことは珍しくない。いや、むしろ日常と言ってもいい。




「悪いな、若ぇの。狩りがうまくいかねぇ時もあるさ」




近くで木を切っていた初老の男が、斜めに笑いかけてきた。雪の下から出てきた斧を肩に担いで、どこか諦めたような顔をしている。




「盗られたんですよ。俺の罠の獲物」




「……そりゃあ、不運だったな」




会話はそれ以上続かない。責める気もない。互いに生きることで精一杯だ。だがライグは、ただ黙って諦めるわけにはいかなかった。




その夜、彼は罠の縄に小さな鈴を括りつけ、雪に紛れるような位置に再び設置した。翌朝、鈴の音で目を覚ました彼は、雪原を駆けて罠へと急いだ。そこにはようやく、一匹の小動物がかかっていた。小さなウサギだったが、貴重な食糧だ。




「よし……」




冷え切った指で器用に縄を外し、持ち帰る準備をする。誰にも見つからないように、道を変え、足跡をかき消して村へ戻る。それは、何度も裏切られてきた末に編み出した、彼の生きる術だった。




「今日も獲ったのか、あんた」




若い女が、干した魚の骨を手に立っていた。ライグは軽く頷くだけで通り過ぎようとしたが、彼女は続けた。




「どうして、そんなに頑張れるの?……みんな、もう無理だって思ってるのに」




ライグは立ち止まり、ふと空を見上げた。灰色の空。凍える風。希望など微塵もない世界。




「諦めたら、何も残らない。それが……怖いだけだ」




それだけ言って、彼は再び歩き出した。背中に残ったのは、冷たい視線と、ほんの少しだけ混ざった、羨望のような何かだった。










夜が来るたび、ライグは静かな孤独と向き合っていた。




焚き火の明かりが揺れ、壁に影が滲む。風が小屋の隙間を通り抜けるたび、古びた板が軋む音がする。外は氷の世界。寒さに震える体を外套で包みながら、彼は膝を抱えて座っていた。




母の亡骸を抱いた、あの夜の寒さもこんなだった。誰にも手を貸してもらえなかった。助けを求めても返ってきたのは沈黙だけだった。あのとき彼は知ったのだ。希望を口にすれば笑われ、正しさを叫べば嘲られるのがこの地の現実だと。




“それでも、俺は……”




心の奥底で小さな火が燻っていた。絶望の中にありながら、燃え尽きることのないそれは、父から受け継いだ灯火だった。




「正しいことを選べ、ライグ。どんな時でも」




処刑台の上で、父が微笑みながら残した最期の言葉。




帝国の手によって、正義が踏みにじられたあの日。ライグの中に、燃え盛る怒りが芽生えた。父を奪い、母を見殺しにし、自分をこの地へと追いやった帝国。その巨大な影は、彼の生きる世界を支配している。




「許さない。絶対に、許さない」




口にした言葉は震えていたが、その怒りは静かで、揺るぎなかった。ただ憎むのではない。父のように、正しさを選び取るために立ち上がる。それがライグの誇りであり、存在理由だった。




「この世界は間違ってる。弱き者が見捨てられ、声を持たぬ者が消えていく。俺は……俺は、それを変える」




拳を握る。その小さな手のひらには、何の力もない。だがライグは知っていた。力は与えられるものではなく、掴み取るものだ。




「一人でもいい。誰も信じなくてもいい。俺は、自分の信じた道を貫く。そうでなきゃ……父さんに、顔向けできない」




パチ、と火が鳴る。それだけが、彼の決意を肯定しているようだった。ライグはそっと立ち上がり、冷え切った空を見上げた。灰色の雲の奥に、光があるとは思えなかった。それでも、彼はその先を見ていた。




「俺が……俺の手で、この世界を変えてみせる」




それは幼い願望などではなかった。凍てつく現実を這いずり回りながら、それでも立ち上がり続けた少年の、決意の言葉だった。

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