第6話 鈴木滉一画伯1

 うちが鈴木滉一の住所まで行くのに二時間近くかかったっちゃ。小倉駅から日田彦山線で田川伊田駅まで行き、平成筑豊鉄道伊田線の金田駅へ。そこからバスで福智町の田んぼのど真ん中のバス停で降りたばい。ゲージュツ家に会うのは初めてやっちゃけん、後学のためにミキちゃんも連れてきたっちゃ。


 作りたての空欄の契約書、社判、印肉、作品を買うたときのためのアートバックも持参したばい。現金が必要かもしれんと思うて、ATMで二十万円おろしてきたっちゃ。


 電波はとどいとるばい。Googleマップで調べると、田んぼの間の農道をバス停から10分歩いた先が鈴木滉一の家だ。ミキちゃんは楽しそうだ。直美姐さん、うちの実家はこんなところなんよ、と言って懐かしそうに周囲を見回す。あら?姐さんは都会っ子とばっか思っとったけど、カントリーガールだったんだ。


 その家は農家の古民家を鈴木滉一が買い取ったものなんだろう。ここの出身ではないから。家の周囲の生け垣から敷石が玄関まで続いている。そこから庭が見え家の縁側がのぞけたばい。縁側の床の木材が長年の拭き掃除で黒光りして掃除が行き届いている。


 玄関は引き戸でチャイムも何も無いばい。引き戸は施錠されておらず、ガラガラと開いたっちゃ。「鈴木画伯、連絡させていただいた木村でございます」玄関の奥の方に声をかける。


「おお、ぼくはこっちだ、入り給え」と奥の方から声がする。中性的な声だったばい。声のした方に廊下を進む。引き戸にノックをして、失礼します、と言って部屋に入ったっちゃ。


 北向きのアトリエだったばい。引き戸正面の窓は分厚いカーテンが少し引き開けられて、外光が室内に差し込んでいる。イーゼルを前に座っていて、アクリル絵の具で静物画を描いていたようだ。黒のボタンダウンに黒のチノパン。


 作品からあらあらしい容貌を想像していたが、細面で長身の男性だったばい。


(イケメンじゃん)とミキちゃん。

(コラ!)


「ぼくの作品を気に入ってくれて、わざわざこんな田舎まで出張ってくれてありがとう」

「いえいえ、鈴木画伯の作人に惚れてしもうたっちゃ。いろいろ聞かせてほしいばい」

「かまわんよ」


 アトリエの中におかれたソファーを指さされたばい。ミキちゃんとそこに座るっちゃ。鈴木滉一が正面に座ったばい。


 鈴木滉一の作品の中で、広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像の姿勢をさせているものがあるっちゃ。弥勒菩薩像は、弥勒菩薩の姿を表現した仏像で、弥勒菩薩は釈迦の入滅後の56億7千万年後に成仏して人々を救う未来の仏様だ。その表情は優しく穏やかで人々の救済のために降臨した存在にふさわしいばい。


 広隆寺の弥勒菩薩像は、台座に腰掛けて左足を下げ、右足先を左大腿部にのせて足を組み(菩薩坐、片足を他方の足の股にのせて座る坐法)、折り曲げた右膝頭の上に右肘をつき、右手の指先を軽く右頰にふれて思索する(思惟)姿だ。


 鈴木滉一の作品も姿勢は弥勒菩薩像と同じだっちゃ。たぶんこのアトリエの椅子にモデルを腰掛けて描いたんやろね。そして、弥勒菩薩像と違い絵のモデルは裸像だ。衣服は着ていないばい。それで、姿勢は同じでも作品の女性の表情は弥勒菩薩とはまったく異なっているっちゃ。


 モデルの彼女の表情は、醜く歪み何かを懊悩しているようだ。モデルの内面を抉っている作品やっちゃ。


「鈴木画伯、このモデルの女性は?」とタブレットの画面を見せたっちゃ。若い女性がモデルのもので、作品は東京の画廊に売却されたものだ。このアトリエにはないばい。


「ああ、彼女は高校の美術教師だ。この時は25歳ぐらいだったかな?たまたま北九州で開いたぼくの個展に来て、ぼくの作品を気に入ってくれた。ぼくも彼女から何かを感じた。アトリエに来ていいか?と彼女が言うので、了解した。それで、ここに遊びに来てくれた。ぼくと彼女は何か・・・そう、分析心理学者のカール・グスタフ・ユングと物理学者のウォルフガング・パウリが提唱したシンクロニシティ(共時性、意味のある偶然の一致)を感じたんだ。彼女は『先生、私の絵を描いてみたいと思いますか?』とぼくに尋ねた。ちょうどぼくも同じ思いを抱いていた」


 (シンクロニシティ?)


「彼女は・・・名前を上野先生というんだが、ぼくが何も言わなくても服を脱いでしまった。ぼくも彼女の裸像を描きたいと思っていたんだ。ぼくの心を読んでいるかのようだった。彼女はあそこの」とアトリエの隅の木の椅子を指さして、「椅子を引き寄せ窓近くに置いた。光線の当たり方がベストの場所だ。ぼくが指示したとしてもそこだったろう。彼女はまたぼくの心を読んだ。弥勒菩薩半跏思惟像の姿勢を彼女自身がとったのだ。ぼくはこの作品はぼくの重要なものになるだろうと思った」


「ぼくは描画中も黙っていられないんだ。モデルに語りかける。モデルから何かを引き出したいからね。上野先生は当初は穏やかな表情をしていた。それで、ぼくは彼女に尋ねてみたんだ。あの時は・・・」


鈴木「上野さん、ぼくはあなたから懊悩を感じるが、なぜだろう?」

上野「いろいろと人には言えない不幸せなことが重なったんです」

鈴木「そうだろうなあ。上野さん、その『人には言えない不幸せなこと』を最初から今まですべてを思い出してご覧」

上野「ハイ、やってみます」


 うちは鈴木画伯の上野さんとの会話をそのまま話す粘着力のある口調にゾッとしたっちゃ。これは一種の催眠術ではないか?


「上野さんがとっていたポーズは、最初、弥勒菩薩の半跏思惟の姿勢そのものだった。しかし、彼女が過去を思い出すにつれて、その姿勢は崩れてきた。この左脚の開いた角度を見てくれ」とタブレットの画像を指差す。


「本来の弥勒菩薩の半跏思惟は、右脚を左脚の股の付け根深くに折り曲げ、左脚は正面にきちんと向いている。しかし、彼女がさまざまなことを思い出すにつれ、右脚は左脚の膝近くに移り、左脚はだらしないほど股を開くようになってきた。これは悟りの姿勢ではなく、懊悩と煩悩の姿勢だ。彼女は股を開き、画伯に自身の陰部を見せつけるようにした。彼女の表情も、懊悩と煩悩だけでなく、恥ずかしくも耐えきれない情念を見せ始めた。私は、これこそが画伯の描きたかったものだと思った。一時間ほど経った。彼女の陰部はひくつき、開いてきた。粘液がしたたり始めた」


 うちはうちが上野先生になったような錯覚を覚えたばい。うちの陰部も上野先生の道を辿っとる。いかんばい!ビジネスを忘れそうだ。まだ他に聞きたい作品があるっちゃ。


「鈴木画伯、では、このモデルの女性は?」とタブレットの別の画面を見せたっちゃ。ベッドに横たわって身をよじって何かに耐えている中年の女性がモデルの作品だ。これも大阪の画廊に売却されてここにはないものだ。

「ああ、彼女は近所の農家の未亡人なんだ。吉沢さんという。よく野菜を持ってきてくれる。彼女にもぼくはシンクロニシティを感じた。彼女もぼくに感じたそうだ。今でもお互い感じている」


 鈴木画伯は、上野先生とも吉沢さんとも肉体関係を持ったんやろね、とうちは直感したっちゃ。美術家がモデルと関係を持つのは珍しいことではないばい。アトリエという密室で二人だけの時間を長く長く過ごしていれば、画伯のシンクロニシティを感じるまでもなく、モデルは画家に抱かれたく思ってしまう。画家もモデルと一体となりたいと思ってしまうのだ。うちも美大でクロッキーや油絵のモデルになった時、変な気持ちを覚えたことがあったっちゃ。


「さて、木村さん、あなたはぼくの作品のエージェント、プロモートをしたいんだよね?」

「ハイ、画伯、その通りやっちゃ。画伯の作品を買い上げたり、借り出したりさせていただき、日本と香港、台湾、中国の顧客に画伯の素晴らしい作品を紹介したいんよ。日本だけではなく、世界に紹介したいと思っとるばい」

「なるほど。それはいい話しだと思う」

「条件を詳細に記述した契約書の草稿も持参しとるっちゃ。今すぐというわけやなかばい。検討してもらえたら嬉しいっちゃね」


「そうか。その草稿を拝見させてもらおう。よこしなさい」うちは契約書の草稿を彼に渡したが、彼はそれを机の隅に押しやって見ようとはしなかったばい。「条件がどうあれ、たぶん私は木村さんと契約すると思う。だが、私にも条件がある」とうちの横に座って黙って聞いていたミキちゃんの方を向いたっちゃ。ミキちゃんが急に画伯の視線を浴びてドギマギしている。

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