第5話(1) シンガポール行きの機上

 明彦が直美と美雪と出会う前のお話。

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 私はエアランカ、UL304便の機上にあった。国際機関と日本の研究機関の所属技官、これが私の職業である。


 半年ごとの日本への一時帰国の権利は9月だったのだが、いろいろ忙しく、取りそびれている内に、いつの間にか12月になり、気づいてみればクリスマス前は満席。 クリスマス当日に席があるという。それもがら空きで。


 21世紀では、20世紀の旅行者の数の数十倍が移動している。だから、クリスマス前の数週間は満席だ。しかし、クリスマス当日にわざわざ国外移動するバカはいない。田舎路線のコロンボ-シンガポールならなおさらだ。


「だから、明彦、イブの前1週間は満席、クリスマスの後、26日以降は帰国者が多くてダメ。クリスマス当日なら空いているわ、それもがら空き」と私の機関の秘書がいう。


「わかった、それでいい、25日の便を取ってくれよ」と私。

「そんなに日本に帰りたいの?コロンボだって楽しい年末年始が送れるわよ、彼女さえいれば・・・いる?」と彼女。

「いないね。いつ、そんな時間が取れるというのか?」

「あ!わかった!日本で待っている女性がいるってことね?」

「それもない、とにかくいいから25日の便を頼むよ」

「もてないのねぇ~」

「うるさいなあ・・・」


 25日、午前1時40分発、シンガポール着午前8時5分。シンガポールで乗り継いで、成田に向かう。


 秘書が言う。「コロンボ-成田のダイレクトフライトなら他の日も空きがあるのに・・・」

「だから、シンガポールに寄って、一泊してから成田に行く、っていっているでしょうに!」と私。

「シンガポールで悪いことをするのね?」

「日本に持っていく緊急の書類を受け取るんです!」

「だって、クリスマス休暇中でみんな休みじゃないの?」

「それは欧米の国、日本はカレンダーの新年前後が休みなんですよ。日系機関に勤めているんだから、日本文化も知っておいて欲しいものだね」

「明彦が教えてくれなきゃあ、わからないじゃないの?」ああいえば、こういうヤツだ。


 私のボーディングパスは28C。後ろ側のアイル(通路側)席だ。シンガポールエアに以前勤めていた秘書が、これだけはありがたく手配してくれた。


「ビジネスにするよりも、がら空きならエコノミーの方がいいわよ。DEFG席で寝転がってもいいわけだし」と。

「アイルサイドでいいよ。Cでいい。飛行機の一番後ろ寄りに取ってよ」

「う~ん、28Cなんかどう?」

「それでいい。ありがとう」


 飛行機は後部にいくに従って、尾翼に向かい幅が急に狭まる。だから、一番うしろの30などでは席の間が狭くなる。28は狭くなる手前の席だ。後ろの方の席はがら空きで誰もいなかった。


 こりゃあいいや、と思って、A、B、C両席を占有して寝転がって本を読んでいると、黒いストッキングが右の視野に入った。


「エクスキューズ・ミー、Are there 44A? I think it's mine!」という若い女性の声が降ってきた。


 起きあがると、二十代後半と思われるスリランカ女性がアタッシュケースをぶら下げてたっている。こんながら空きで、なんで隣席にチェックインカウンターは席をリザーブするんだろ?


「おっと、失礼。隣席に誰かが座るとは私はまったく期待していなかったものですから・・・」と私。英語を日本語に直すと、こんな日本語になってしまうのは許して欲しい。


「私、チェックイン前にこの席をエージェントに言って確保したの」と彼女。「私も同じ。会社の秘書に確保してもらったんだ」と私。


 ちょっとお互いにらみ合う。周囲は前後左右、空席で充ち満ちている。反対側の28K(窓側)だって空いている。


「OK。わかった。とりあえず、キミの荷物をコンパートメントにいれようか?」と私。「お願いするわ」と彼女。


 席に座って彼女が言う。「だって、リザーブしたんだし、離陸まではこの席に座らないと・・・」と航空規律に律儀な彼女。


「私も同じ。あとで私が席を換わろう。オポジット(反対側)だって空いている」「わかったわ」


「ところで、私は、アイーシャ。アイーシャ・リンドバーグと言います。アイーシャと呼んで」と彼女が言う。


「私は、明彦、明彦・宮部。明彦で結構・・・ところで、アイーシャ、立ち入ったことをお聞きしますが、国籍はスリランカですか?私は日本人ですが・・・」と彼女に聞いた。だって、名字がリンドバーグじゃないか?


「スリランカよ・・・ああ、リンドバーグね。結婚してサー・ネーム(名字)が変わったの。英国人、英国人医師と結婚したのよ。私もメディカル・ドクター。旧姓は、スリランカでもポピュラーなジャヤワルダナだけど・・・」


「へぇ~、ドクターとは思わなかったな。私はエンジニアです。スリランカに駐在している」

「あら、ヘルメットをかぶっているようには思えないわね」

「ありがとう、普段はオフィス勤務だけど、でも、サイト(工事現場)に出ればヘルメットはかぶるよ」


「ところで、アイーシャ、なんで28Aなの?」と私は彼女に訊いた。

「飛行機後尾の方でしょ?墜落する時にもっとも生存率が高いって聞いたのよ。」とアイーシャ。


「なるほど。私は、秘書に言ったらここになった。飛行機の後ろの方ってリクエストしたらね」

「これも何かのFATE(運命)なんでしょうね。普通にチェックインしていたら、隣り合わせにもならなかったでしょう。これだけガラ空きなんだから・・・」


「そうだなあ。アイーシャのファイナルデスティネーション(最終目的地)はどこなの?シンガポールからどこかにいくの?」

「今、シンガポールが私のレジデンス(居住地)なの。夫がシンガポールの病院勤務で、私は大学の研究室。部屋代を節約するので、大学の講師専用棟に一緒に住んでいるのよ」


「ああ、ブオナ・ビスタか」

「よくご存じね」

「知り合いが大学で教えていて、そういっていたんだ」

「あなたのファイナルデスティネーションは?」

「東京、成田。これから帰って、シンガポールの支社に寄って、書類を受け取り、日本に帰る。実家は横浜」

「私、東京に行ってみたい。ディズニーランドって面白そう」


 会話も弾んだ。「アイーシャ、あなたさえよければ、シンガポールまで旅の仲間ということで、このままの席でどう?」と私。「私はそれで結構よ」と彼女。


 アイーシャは、ブスの多いスリランカ人には珍しく、インド美人のようだ。彫り深く、鼻高く、足がすらっとして、黒のビジネススーツと同色のストッキングが似合う。胸の当たりまでとどく漆黒の長髪。ほのかに匂うディオールの香水。


 シンガポールまでの飛行時間は、約4時間。


 乗客も少ないので、ディナーが回ってくるのもすぐだし、お酒もよく勧められた。彼女はブランディーを飲んでいる。


「そのブランディー、VSOだろ?」と私。

「そう、ちょっとまずい」と彼女。

「クルボアジェーのXOがあるんだ。デューティーフリーで買ったやつが・・・」

「それ、あなたのお土産じゃないの?」

「いいや、自分でシンガポールであけて飲もうと思ったから。今あけてもいい」と彼女の答えを待たずに席を立って、上のコンパートメントからビニール袋に入れられて厳重に封をされた酒を取り出す。CAに見つからなければいいことだ。酒が残ったらどこかに捨ててしまおう。


「アイーシャ、このお酒でいいか?」と酒瓶を見せて彼女に聞く。

「クルボアジェー、好きなのよ、私。ロックで飲むのよ、いつも」と彼女。話せるなあ。酒飲み、好きだ。


 私は、CAをコールして、氷をたくさん持ってきて貰った。クルボアジェーのXOのボトルはむろん前の席の下に押し込んで隠した。


「ミスター・ミヤベ、氷、バケットで持ってきたわ、ナッツもこれでいかが?乗客がまったくいないから、VSOも余っちゃった。これよろしければ」とCA。こういう気が利く女性はスマホの番号を聞きたいところだ。でも、VSOだからなあ。


「Cheers(乾杯)!、アイーシャ!」

「Cheers(乾杯)!、明彦!」


 飛行機後部で、誰にも邪魔されずに美人の既婚女医と酒が飲めるなんて機会はそれほどない。ざまをみろ、わが社の秘書めが!

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