第1話(島へようこそ)

―――時は少し遡る。


「繋がった」


 エリックが言うなり、真っ先に行動したのは晃だった。

 テレビの影から幾多もの腕を作り上げ、一斉に向かわせる。この機を逃すまいと、考える余地もなかった。そんな晃を見て、慌てて翔真が晃の前に飛び出す。


「ちょっ、ちょっと晃!?いくらなんでも早すぎない!?」

「俺の勘が告げている。この向こうには夏椎しかいない」

「全然知らない人だったらどうするの!?」

「知らん」


 キッパリと言い切った。あまりの潔さに翔真も項垂れるしかない。

 やがて、テレビの向こうから影の手が抱きかかえて来たのは、黒髪の小柄な少年だった。

 黒目がちな瞳が、困惑の色を示している。でも、晃と翔真には分かる。あの頃よりも成長しているが、間違いない。間違えない。焦がれて焦がれて仕方がなかった、最愛の人。


「夏椎ー!!!」

「うわぁ!?」


 影の手が離れていくなり、今度は少年2人に突撃された。ぎゅうぎゅうと締め付けられるのは朝もやった。同じことやった。数が増えるとその分苦しさも倍だ。


「会いたかったぁ!会いたかったよぉ!」

「夏椎⋯夏椎⋯⋯っ」


 翔真が泣き叫び、晃が縋り付く。

 当の夏椎は、色んなことがキャパシティを超えてしまい、それどころではなく。


「あの、翔ちゃん、晃くん」


 カウンターの向こう側から、女性の遠慮がちな声が投げられる。


「夏椎くん、気絶してるよ」


 苦笑がちに告げられたその言葉を、晃と翔真が聞き入れるのには長い時間を要した。



☆☆☆



「ん⋯⋯」


 コーヒーのいい匂いがして、夏椎はうっすらと瞳を開けた。

 瞳に入った情報を脳が確かめる。―――知らない天井だ。柔らかなブラウン基調の天井に、木板が張り巡らさされている。天井の中央には白いプロペラがついてあって、クルクルと回っていた。


「⋯⋯どこ?」


 素朴な疑問が口から出た。そして何故自分は布団で寝かされているのだろう。ふかふかの布団は気持ちがいいが、これは一体誰の布団だ?


「おはよう夏椎!」


 いや誰?


 って言うか、何で頭に耳が生えているんだ?犬の耳⋯⋯?目の前の少年の髪と同じ薄いブラウンの耳がピコピコ揺れている。その後ろから、ちぎれんばかりの勢いで尻尾が揺れていた。

 犬の⋯⋯人間?なんか、映画のキャラクターみたいだな⋯⋯。

 夢でも見ているんだろうか。ぼんやりと夏椎が犬人間、もとい翔真をじっと眺めていると、翔真の横からまた新しい少年がにょきっと視界に入ってきた。

 漆黒よりも黒い髪の、大人びた少年だ。


「起きたのか」

「夏椎、夏椎。ごめんね、びっくりしたでしょ?晃が手荒でごめんね」

「手荒じゃない。より迅速に夏椎を連れ戻すためだ」


 むっと晃が眉をひそめた。


「でも影の手はびっくりするって。見た目怖いし」

「便利なんだからいいだろう。それに、ちゃんと夏椎を連れてきたぞ」

「相変わらずモノサシの基準が夏椎なんだから⋯⋯」


 はぁ、と翔真がため息をついた。

 矢継ぎ早に進んでいく会話を、夏椎はぽかんと見守ることしかできない。どう口を挟めばいいのか分からなかった。

 

 なぜ、ふたりは自分の名前を知っているのだとか。

 あの黒い手は何だったのかとか。

 

 だいたい、ここはどこだろう。俺の家は?スマホ、まだ取りに行ってない。時間も分からない。スクールバスに、間に合わない?


 新学期早々、遅刻かぁ⋯⋯。


 夏椎はゆっくりと身体を起こした。訳の分からない状況だが、何故か、どうしてか、ふたりを責める気にはなれなかった。

 それは、ふたりが自分を知っていることと何か関係があるのかもしれないし、ただ単純に、ふたりが夏椎に危害をくわえる気がなさそうだから拍子抜けしてしまっているのかもしれない。

 上体を起こした夏椎を、ふたりが心配そうに見守っている。

 その様子に、ふ、と夏椎が笑みを零した。


「夏椎、笑った!」


 翔真が夏椎に飛びつき、晃が柔く微笑む。

 少し、躊躇った。この言葉を言っていいのか。でも、言わなければ。だって、どうしたって、思い出そうとしても思い出せない。

 

「―――君たち、誰?」


 記憶に、ない。

 短い時間だが、限りなく思い出せる範囲を探ってみた。

 だけど、見つからなかった。茶髪の犬人間と、不思議な影を操る少年なんて。

 父親の映画の中の存在か?だけど、触れる体温は確かに温かい。

 夢じゃないなら、これが現実なら、きっとふたりが言っているのは自分ではなく別の人間なんじゃあないだろうか。

 同名の同い年くらいの少年なら、他にもいそうだ。そこまでは言わないけれど、勘違いでよく分からない場所に連れてこられたのはちょっと⋯⋯いや、かなり困る。

 可能ならば早く帰して欲しい。じゃないと、心配性の父親がパニックを起こしてしまいそうだ。


「えっ⋯⋯」


 翔真が、まん丸の瞳を更に見開いた。


「夏椎⋯⋯だよね?」

「⋯⋯えっと、夏椎だけど」


 確かに。それは間違いないのだが。


「志賀夏椎だよね?」


 驚いた、ふたりが言う夏椎とは名字まで一緒なのか。


「うん、志賀夏椎⋯⋯だけど」

「っ⋯⋯だよね!?俺、匂い間違えるわけないもん!ずっとずっと探してた匂いだもん⋯っ」

「⋯⋯えぇ?」


 今度は夏椎が目を丸くする番だった。

 同姓同名で?犬人間の翔真が言うには、匂いも一緒で?


「⋯⋯じゃあ、俺、なんで知らないの⋯?」


 ふたりの言う夏椎が、本当に自分のことなら。

 俺、めちゃくちゃひどいやつじゃないか⋯⋯?


「小さい頃だから覚えてないの?俺、夏椎がもっともっと小さい時に拾ってもらったんだよ。ほら!」


 ぼん、と煙をたてて翔真が姿を消した。

 代わりに、夏椎の太ももにちょこんと座るのは、ポメラニアンだった。茶色の毛並みの。もふもふしている。これはいいポメラニアンだ。


「可愛い⋯っ」

「ありがと!ね、何か思い出さない!?」

「んんん―――」


 夏椎は頭を抱える。幼少期。ポメラニアン?思い返しても犬なんて飼ったことはない。

 アルバムなんてそうそう見返さないし、アルバムの写真には写ってあるのだろうか、ポメラニアンの翔真と自分が。

 いや、見たことないはずだ。父さんから犬の話なんて聞いたこともない。

 夏椎が頭を悩ませていると、ふいに、晃が立ち上がった。


「晃?」


 ポメラニアンの翔真が晃を見上げる。しかし晃は返事もせず、振り返ることもなく扉を開けて外へ出ていった。

 リンリン、と鈴の音が響き渡る。


「もー。なんか言って行けばいいのに」

「⋯⋯怒らせたよな」

「いや、大丈夫だよ。晃が夏椎に怒るわけないもん」


 あっけらかんとして翔真が言う。

 どういう意味か分からず、夏椎は小首を傾げた。


「俺と晃はどういう繋がりなんだ?」

「んー、よく夏椎にくっついてたことしか覚えてないや。俺も晃も、夏椎以外どうでもいいから」


 さらりととんでもない事を言う。夏椎はどう返したらいいのか分からず、口を噤むことしか出来なかった。


「俺はね、この島がもっと昔のもっと人間が多かった頃、夏椎の通ってた幼稚園に捨てられてたんだよ。夏椎以外は棒で追いかけたり、食べ物くれなかったり優しくなかった。優しかったのは夏椎だけ」


 すり、とポメラニアンの翔真が夏椎に頬擦りする。その柔らかい毛並みに、思わず抱きしめてしまいそうになる。

 でも、それは出来なかった。そんな大切に想ってくれているのに、想われている張本人は微塵も覚えていない薄情な奴だから。

 翔真の言っていることが、嘘でないのが伝わってくる。伝わってくるだけに、ものすごく酷いことをしている自覚が芽生えてしまう。

 ごめん、と言ってしまいたかった。

 その謝罪は、自分が楽になるためだけの謝罪と分かっているから口には出せないけど。


「翔ちゃん、椎ちゃん起きた?⋯あれ、晃くんは?」


 晃が出て行ったのと反対側の扉から、背の高い金髪の女性が入ってきた。

 喫茶店の制服らしい洋装を着ている、綺麗な女性だ。腰まで伸びた長い髪を1つに結わえて、腰にはサロンエプロンを巻いている。


「マスター。晃出てっちゃったよ」

「何で?」

「拗ねちゃったんだよ、きっと。夏椎、俺達のこと覚えてないんだって⋯⋯」


 しょぼんと小さくなるポメラニアンが、夏椎の庇護欲をぎゅうぅと掻き立てる。

 でも我慢。抱っこしたいけど我慢。万が一思い出したと勘違いさせては可哀想だ。


「そうなんだ。全く?」

「⋯⋯はい」

「まぁ、そうだろうねぇ。晃くんが言うには椎ちゃんと過ごしたのは4、5歳くらいの時らしいから、覚えてなくても不思議はないよね」


 うんうんとマスターと呼ばれた、エリックが納得したように頷く。


「じゃあこの島のことも知らないんだよねぇ」

「島⋯⋯」

「そう。ここは日本のとある島なんだけど、椎ちゃんが住んでた場所とは次元が違うんだ」


 次元?


「⋯⋯とは?」

「つまり、この島は人間が圧倒的に少なくて、僕みたいな存在が多いのさ」


 エリックがパチンと指を弾くと、瞬く間に赤い炎が現れた。

 夏椎はぎょっとする。今のは魔法なんだろうか。龍司が出た映画にもそんな設定はあったが、まさか、現実で見ることになるとは。


「翔ちゃんも人間ではないしね」

「うん!俺は犬人間だよ!」


 再びぼん、と音がすると翔真が煙に包まれた。

 瞬間、足の上がとたんに重くなる。人の姿に戻った。翔真はんしょっと夏椎の上から降りると、えへへと無邪気に笑って見せた。


「この島は不思議な力で守られてるから、通常は人間が入ってくることはないんだよ。中から招かれた椎ちゃんみたいな人は別だけどね」

「な⋯⋯なるほど?」

「あ、もう起きたんだったらお布団片付けちゃうねー」


 エリックが指を弾くと、今度は夏椎を包んでいた布団が消えた。なんだか手品師みたいだ。一気に色んなことが起こりすぎて、思考が追いつかない。

 追いつかない、が。


「⋯⋯あっ!学校!」


 これだけは何とか思い出した。今日から新学期!ハイスクールに行かなければ!


「俺、帰らなきゃ。父さんが心配する。学校は⋯⋯どうか分かんないけど」


 なんせ自由が売りのアメリカだ。あんまり心配されてなさそうだが、単位を落とすのは好ましくはない。


「えー⋯⋯。じゃあ、俺もついて行く」

「それは⋯⋯。まぁ、いいか。誰も気にしなさそうだし」

「やった!夏椎の家も見たい!」


 ぴょんぴょんと嬉しそうに跳ねる翔真が、エリックに笑顔を向けた。


「マスター!ゲート開いて!」

「はいはい」


 エリックが、テレビに向かって指を鳴らす。

 しかし、何で次元の入口がテレビなんだろう。しかもテレビ、壁掛けテレビだし。あそこまで跳ぶのは無理だから、脚立借りなきゃな⋯⋯。

 ぼんやり考えていると、翔真がまた抱きついてきた。このスキンシップの激しさは生来の犬所以かな。別に嫌ではないけれど、単純にちょっと重い。


「夏椎、今はどこに住んでるの?」

「ニューヨークだよ。2階建てで、静かなところ」

「俺、犬になって走っても大丈夫!?」

「犬の方がいいんだ?」

「犬の方がいいの!」

「⋯⋯あれ?」


 夏椎と翔真が話していると、エリックが怪訝な声を出した。

 2人が首を傾げる。エリックはうーん、と唸りながら、何度か指を鳴らすが、テレビの見た目は何も変わらないように見える。


「⋯⋯ねぇ、椎ちゃん」

「はい」

「ごめんだけど、晃くん探してきてくれない⋯⋯?どうやらあの子、ゲートの核持ってっちゃったみたいで⋯⋯」

「ゲートの核?」

「つまり、このままだと帰れないんだよねぇ」

「え」


 笑いながらさらりと言われ、夏椎は言葉を失う。


「影の手を入れた時にたまたま持ってっちゃったのかなぁ。それか椎ちゃんが帰りたいと言うのを阻止したのか⋯⋯」

「後者じゃない?」

「まぁ僕もそう思うけどね」


 え⋯⋯困る。それは困る。かなり困る!


「その核って言うのがないとダメなんですか!?」

「うーん、日本なら近いから当てずっぽうでも行けるかもしれないけど、アメリカは遠いし広いでしょ?」

「遠いし広いです⋯っ!」

「だよねぇ。翔ちゃんにお願いされてから、椎ちゃんのポイントに繋がるのに5年近く費やしたもん。またイチから探し直すとなるとそれくらいはかかるかも⋯⋯」

「ご、5年⋯⋯!?」


 なんてことだ。成人してしまう。

 そんな長い間父親に会えないなんて、父親が無理だ。何するか分からない。冗談ではなく世界中の人に迷惑をかけてしまう。

 あの人ならメディアを使って世界中の警察を動かすし、なんかよく分からない俺の本とか写真とかが出回るような気がする。


 嫌だ。それは絶対嫌だ!!


「その核って言うの、どんなのですか!?」

「親指くらいの大きさで、紫色の宝石みたいな感じだよ」

「ちなみに、時間の流れって次元が違うと変わるんですか!?」

「頻繁に島の外と中で行き来してる人もいるし、変わらないみたいだよ」


 エリックの言葉に夏椎はほっとする。良かった。浦島太郎のようなことにはならなさそうだ。


「俺、探してきます!」


 夏椎は言いながら、晃の出ていった扉を目指して走り出した。


「待って、夏椎!俺の靴貸してあげる!」


 翔真も夏椎の後を追って走り出す。バタバタと忙しなく2人が出ていくと、ふ、と女性は微笑を零した。


「あの晃くんが素直に帰してくれるかねぇ?」


 まだ5歳ほどだった翔真と晃が、突然いなくなった夏椎を探すために島の端々を必死で駆けずり回ったと聞く。

 5年前、島の外に繋がる術を持つ自分を探し出し、懇願してきた2人は今にも消えてしまいそうな様子だった。

 自分が了承すると言った時の、あの嬉しそうな顔は忘れられそうにない。


「さて、僕は開店準備でもしようかな」


 エリックが指を鳴らすと、カウンターやテーブルがずらりと並ぶ。

 ここは喫茶店『兎の目』。

 島の外と中を繋ぐ、彼女、エリックの店なのだ。

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