第4章:秘められた記憶

マーカス医師から聞かされた断片的な真実――『実験体』、『イレギュラー』、そしてノックスという影――は、レインの心に大きな衝撃と混乱をもたらした。自分が何者なのか、この力の根源は何なのか。知れば知るほど、謎は深まるばかりだった。 その重圧に呼応するかのように、悪夢とフラッシュバックは、さらに頻繁に、より鮮明になって彼の精神を蝕んでいく。

ある夜、レインは再び、七年前の実験室の光景を見た。今度は、さらに具体的だった。 冷たい処置台。苦しむ他の子供たち。失敗作が「廃棄物」として運び出されていく無機質な光景。消毒液の匂いと絶望的な静寂。 そして、ノックスと、ダイアナと呼ばれていた女性科学者の言い争い。 『こんなことは間違っている! 彼らは人間よ! 我々の研究はこんなことのためにあったのではないはず!』ダイアナの悲痛な叫び。 『感傷は捨てろ、ダイアナ! これは必要な犠牲だ! より大きな目的のためにな! 君も、夫であるスカイのために協力すると決めたはずだ! このドームの永遠の安寧と、我ら選ばれたる者の『進化』のためにはな!』ノックスの声は、もはや理想ではなく、歪んだ支配欲と焦りに満ちている。 『私は…! 私はただ、外の世界で人々が生きられる可能性を探りたかっただけ…! この星に残された『コア』の意志に応え、調和の道を探りたかった…! こんな非道なことのために、あなたの狂気に手を貸したわけでは…!』 (スカイ…長官も関わっていたのか…!? コアの意志…?) 混乱する意識の中、胸の中心から、再び制御不能な青白い光が溢れ出す。激痛と共に、周囲の空気が、エネルギーが、渦を巻くように流れ込んでくる感覚。これが『完全肺』の覚醒? 暴走? 彼はこの時、自分の力が単なる肺機能強化ではなく、周囲のエネルギーそのものに感応し、それを吸収・変換する異質なものであること、そしてそれを制御しなければ自己が飲み込まれてしまう危険があることを、断片的にだが理解し始めていた。 (駄目だ…! 止まれ…! このままじゃ、俺は…俺でなくなってしまう…!) 必死に意識を集中させようとした瞬間、傍らにいたダイアナが、彼に何か小さな、輝く石のようなものをそっと押し当てた。温かく、穏やかな光を放ち、まるでコアの一部であるかのようだった。荒れ狂う力が、その石を通じてわずかに制御を取り戻す感覚。そして、彼女が悲しげな、しかし強い意志を込めた声で囁いた。 『…ごめんなさい…あなただけでも…生きて…そして、いつか真実を…この力を、正しい道へ…。恐れないで。あなたは独りではない…この石が、あなたを導くでしょう…『コア』の声を聞くための鍵となるはず…』 そこで、悪夢は途切れた。「うわあああああっ!」 レインは絶叫と共に跳ね起きた。全身汗びっしょりで、呼吸は激しく乱れている。心臓が張り裂けそうだ。 あの光景は、ただの悪夢ではない。断片的な、しかし確実に存在する『記憶』だ。冷たい処置台、青白い光、ノックスの冷たい目…。だが、今回は違うものが見えた気がする。混乱の中、白衣を着た、悲しげな瞳の女性がいた…? 彼女は何かを躊躇い、俺に小さな輝く石のようなものをそっと押し当て、『…ごめんなさい…あなただけでも…生きて…そして、いつか真実を…この力を、正しい道へ…。恐れないで。あなたは独りではない…この石が、あなたを導くでしょう…』と囁いたような…。あれは、誰だったんだ…? アリアの母親…ダイアナ・スカイだったのか…? 。彼女は、俺を助けようとしてくれたのか? 彼女が託そうとした「正しい道」と「石」とは? コアの声を聞くための鍵? 彼女の死の真相は? スカイ長官はどこまで知っている? 謎は深まるばかりだった。そして、自分の持つこの力の本当の意味と、それに伴う責任の重さを、レインは改めて痛感していた。これは単なる特殊能力ではない。多くの犠牲と、陰謀と、誰かの願いが絡み合った、重い宿命なのだ。

レインの様子がおかしいことに、ルナは気づいていた。悪夢にうなされる回数が増え、消耗した顔で「ラストブレス」に現れるようになった。彼が何か大きな秘密と危険を一人で抱え込もうとしている気配を感じ取っていた。 「おい、レイン」ある日、ルナは「ラストブレス」の裏部屋で、一人考え込んでいるレインに声をかけた。「いい加減、吐けよ。何を隠してる? 例の『実験体No.7』のことか? それとも、クラウンゾーンのお嬢様とのことか?」 レインは驚いて顔を上げた。ルナはやはり気づいていた。マーカスから聞いたこと、悪夢で見たこと…どこまで話すべきか迷う。 「…お前には関係ない」 「関係なくもねえんだよ!」ルナは珍しく声を荒げた。「あたしだってな、お前と同じような実験の噂…いや、実際にそれに関わった連中を知ってるんだ! あの頃、コアゾーンじゃ、親のいないガキが何人も消えた! そして、誰も戻ってこなかった! …あたしの、たった一人のダチを除いてな」 ルナの瞳に深い悲しみと怒りの色が浮かぶ。 「そいつは奇跡的に実験施設から逃げ出して、ボロボロになってあたしの前に現れた。そして、『化け物になった』って…肺だけじゃない、身体のあちこちがおかしくなっちまったって…そう言って、あたしの目の前で自ら命を絶ったんだ…! あたしは何もできなかった…!」彼女は拳を強く握りしめた。「だからな、レイン。お前が何を抱えてるのか知らねえが、一人で抱え込むな! あの時のあたしのダチみたいになるんじゃねえぞ! お前まで、あんな風にさせやしねえ!」 ルナの魂からの叫びと、初めて明かされた彼女自身の過去の痛みに、レインは心を打たれた。彼女もまた、このドームの闇によって深い傷を負っていたのだ。そして、彼女の言葉は、彼が一人ではないことを強く感じさせた。 「…分かった。話す」 レインは、これまでの経緯――アリアとの出会い、自然回帰派の影、マーカスの告白、そしてノックスの接触と自身の過去の記憶、ダイアナの謎――を、ルナに全て打ち明けた。 ルナは黙って最後までレインの話を聞いていた。そして、全てを聞き終えると、大きなため息をついた。 「…はぁー。やっぱり、とんでもねえ厄介ごとに首突っ込んでやがったか、この朴念仁が」彼女は悪態をつきながらも、その目にはレインへの深い同情と、奇妙な納得の色が見えた。「実験体No.7…完全肺…ノックス…長官の娘と自然回帰派、それに死んだはずの長官夫人ねぇ…。こりゃ、ドームの根幹を揺るがす、とんでもねえスキャンダルだ。下手すりゃ、あたしたち全員、消されるぞ」 彼女はレインの肩を掴んだ。「だがな、レイン。お前さんはもう一人じゃねえ。あたしがいる。それに、あのお嬢様も、お前さんのこと、ただの協力者とは思ってねえはずだぜ?」ルナはニヤリと笑った。「あたしが見たところ、ありゃ完全に惚れてるね」 「なっ…! ば、馬鹿言うな!」レインは思わず顔を赤らめた。 「おっと、図星か?」ルナはさらに意地悪く笑う。「ま、とにかく、一人で抱え込むな。あたしも協力してやる。あのお嬢様のため、ってのもあるが…それ以上に、あのクソみてえな実験に関わった連中を、あたし自身が許せねえからな! 特に、ノックスと、奴の片腕だったっていうあのクソ野郎ども(・・・・・)はな!」彼女の目に再び暗い炎が宿る。「それに…あたし自身も、ケリをつけなきゃならねえことがあるのかもしれねえ。この妙な勘の良さも…もしかしたら、あたしも『適応者』ってやつなのかもな…」 「…ルナ」 「ただし!」ルナは表情を引き締めた。「危険な橋を渡るんだ。あたしの指示には絶対に従ってもらう。それと、絶対に、無茶して死ぬんじゃねえぞ。いいな?」 「…ああ。分かってる」 こうして、レインとルナの間に、単なる仕事仲間以上の、利害と過去の因縁を超えた、危険な真実へと共に立ち向かうための、確かな協力関係(あるいは共犯関係)が結ばれた。一人で抱え込んでいた重荷が、少しだけ軽くなったような気がした。

一方、上層(クラウンゾーン)。アリアもまた、レインとの次なる接触と、「ポイントX」への探索に向けて、密かに準備を進めていた。しかし、彼女の心は複雑な感情で揺れ動いていた。 レインという存在。彼の力、彼と共にいる時の解放感。それは彼女に希望を与えてくれた。だが同時に、彼が下層出身の「境界越え」であり、「実験体No.7」かもしれないという可能性は、彼女を不安にさせた。もし事実なら、父である長官は彼を決して許さないだろう。自分たちの関係は破滅的な結末を迎えるしかないのだろうか? (いいえ、それでも…私は彼を信じたい。彼がどんな過去を持っていようと、彼の瞳は、彼の魂は、決して邪悪なものではなかった。それに…彼に惹かれている自分を、もう否定できない…) 彼女の葛藤は、もう一つ、別の方向からも深まっていた。亡き母、ダイアナ・スカイに関する記憶だ。父は母のことを「研究中の事故で亡くなった」としか語らない。だが、アリアが父のデータベースを探索する中で、母の名前が、あの『緑地帯再生プロジェクト』や、あるいは『プロジェクト・キメラ』に関連する極秘の研究ファイルに、断片的にだが確かに記録されているのを見つけてしまったのだ。さらに、レインが見たという悪夢の内容。母は、あの実験に関わり、そしてレインを助けようとした? 母が研究していたという「コアの意志に応えること」とは? (お母様も…あの『実験』に関わっていた? レインを助けようとした? そして、そのせいで…消された…? 父さんは、どこまで知っているの…?) アリアは、幼い頃の朧げな記憶を必死に手繰り寄せた。優しかった母。聡明で、いつも何か難しい研究に没頭していた母。そして、時折見せる、どこか悲しげな、何かを憂いているような表情。父とは、研究方針を巡って意見が対立することもあったような気がする。母は、父の言う「ドームの安定」よりも、「生命の可能性」「失われた地球との再接続」を信じていたような…。 (お母様は、一体何を知っていて、何をしようとしていたの…? そして、その死は、本当にただの事故だったの…?) 母の死の真相。父が隠しているドームの秘密。そして、レインの持つ謎の力。全てが、どこかで繋がっているような気がしてならなかった。 アリアは、自室に飾られた母の写真を見つめた。写真の中の母は、優しく微笑んでいる。 (お母様…私は、真実を知りたいのです。あなたが何を願い、何を残しようとしたのか。そして、私は、あなたのように、ただ運命に流されるのではなく、自分の意志で未来を選びたい…! レインと共に!) 彼女は、決意を新たに、通信デバイスを手に取った。レインに連絡し、「ポイントX」への具体的な侵入計画を伝えるために。そして、自分の抱える不安や疑問も、少しだけ彼に打ち明けてみようと思った。彼となら、共有できるかもしれない、と。彼への信頼は、すでに友情以上の、特別な想いへと変わり始めていたからだ。「レイン…あなたに、話したいことがあるのです」通信に乗せた声は、少し震えていた。

ディープゾーンの隠れ家で、レインはアリアからの詳細な連絡を受け取った。ポイントXへの侵入経路、必要な機材、そして決行日時。全てが具体的になり、いよいよ後戻りはできない段階に来たことを実感する。アリアの声には、以前のような不安よりも、むしろ吹っ切れたような強い覚悟が感じられた。彼女もまた、自分の運命と向き合う決意を固めたのだろう。通信の最後に、彼女が母について何かを調べていること、そしてレインの過去にも関わるかもしれないという、含みのある言葉を残したのが気にかかったが、今は目の前の計画に集中するしかない。 レインはルナと合流し、最終的な準備に取り掛かった。ルナは持ち前の情報網とコネクションを駆使し、必要な装備や、管理庁の警備システムを一時的に欺くためのツールを調達していく。その手際の良さは、さすがベテランの境界越えだ。 「ま、これで準備は万端ってとこだな」ルナは装備一式をレインの前に並べながら言った。「あとは、お前さんたちの運と、あたしの腕次第ってわけだ。死ぬなよ、二人とも」彼女は珍しく真面目な顔で言った。 レインもまた、静かに覚悟を決めていた。 自分の過去の記憶。実験体No.7という存在。ノックスの執着。アリアのタイムリミットと母の謎。そして、ドームの外の世界の真実。 全てが、これから向かう「ポイントX」の先に待っているのかもしれない。 それは、希望への道か、それとも破滅への入り口か。まだ分からない。 だが、彼はもう独りではなかった。アリアがいる。ルナがいる。そして、遠くで見守る(あるいは監視する)ゼノやマーカスのような存在もいる。 それぞれの思惑は異なれど、運命の糸は、確かに彼らを一つの場所へと導こうとしていた。 (行くしかないんだ)レインは、胸の中心で微かに熱を帯びる『完全肺』の感覚を確かめながら、固く拳を握りしめた。(俺自身の過去と、この世界の真実を知るために) ドームの深淵で、過去の亡霊たちが囁き、秘められた記憶の扉が開かれようとしている。運命の歯車は、もう誰にも止められない速度で、回り始めていた。

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