第1話 旅路


 時計の針が、コツコツと壁を叩いていた。

 湯飲みの縁から、立ちのぼる湯気。じいちゃんが、それをすする音が部屋にやさしく響いた。


「……賢治、悪いがな。今度の週末、付き合ってくれんか。」


 じいちゃんは、湯飲みを置きながら、少しだけ照れたように笑った。


「いいよ。何か用事でも?」


 僕は湯気越しにじいちゃんの顔を見た。


「ちょっと、出かけたいところがあってな。」


 僕はふと視線を落とした。

 じいちゃんは去年、脳梗塞の後遺症で免許を返上した。

 今、僕が乗っている車は、でかくて、重厚なセダン。

 お下がりをもらったとはいえ、正直言って、初心者の僕にはいささか荷が重い。

 ぶつけても文句は言わないから、乗ってみなさいと言われて乗っているけど……運転には、まだあんまり自信がない。

 友達からは「ボンボンの車」なんてからかわれているけど、乗り心地は悪くない。……ちょっとだけ気に入っているのが悔しい。


 旅が好きなじいちゃんとばあちゃん。二人で全国を回っていたらしい。

 でも今は、ばあちゃんの膝が悪くて、遠出も難しくなってしまった。


 ふと、湯飲みがテーブルに軽く置かれる音がした。

 僕は口を開いた。


「それで、どこに行くの? じいちゃん。」


「……あれは、どこだって言ったかな。」


 じいちゃんは、窓の外を眺めながら言った。


「景色は覚えてるんだがな……今はもうないんだ。」


「もうないって……なんだよ、じいちゃん。

 いったい何があるって言うんだよ。」


 僕は途方に暮れた。

 さすがにそれじゃ、ナビに入力できない。


 スリッパの音が近づいてきて、ばあちゃんが台所から顔をのぞかせた。


「もう、そんな季節になりましたねぇ。」


「ばあちゃん、どこ行くのか知っているの?」


 僕は少し期待を込めて、聞いてみた。


「んー……東伊豆、だったかしらね。

 昔は毎年のように行っていたのよ。

 行けば、思い出すと思うわよ。」


 じいちゃんが笑いながら、

「ガソリン代と、昼飯くらいは出してやるよ。

 まあ、どんな場所かは、車の中で話してやる。」


「あ、それからハイキングできる格好と靴を忘れないでね。

 そういう場所だから、ばあちゃんは今日、お留守番なのよ。」


 東伊豆って、ここから何時間かかるんだ?

 そもそも、そんな遠くまで僕が運転して行けるのか?

 思ったより、大ごとじゃないかこれ。



 朝の空気は、澄んでいて、とても静かだった。

 昨日と同じはずの玄関も、今日は違って見えた。


「おはようございます、今日はよろしくお願いします。」


 僕がそう言うと、じいちゃんが帽子のつばを軽く持ち上げた。


「おはよう、賢治。朝飯、ちゃんと食ってきたか?」


「大丈夫。パンとコーヒー、詰め込んだから。」


 ばあちゃんが、玄関の奥からそっと顔を出した。


「それじゃ、先生によろしくね。」


 そのときのばあちゃんの目は、いつもより少しだけ優しかった。

 それが何を意味するのかは、まだ分かってなかったけれど。


 その手には、小さな花束があった。

 包み紙がこすれる音が、聞こえた。

 それを受け取ったじいちゃんの表情は、少し照れていて……

 でも、少しだけ、遠くを見ているようでもあった。


 じいちゃんのナップサックには、水筒と弁当、タオル。

 いつもより新しいトレーニングウェアに、スニーカー。

 それに、深くかぶった帽子。

 じいちゃんがこんな格好をするのは、見たことがない。

 じいちゃんは、もう靴を履き終えていた。

「じいちゃん」っていうより、「登山サークルの新入り」に見えた。


 一方、僕はUCLAのTシャツに、いつものジーンズ。

 なんとなく「出かける準備」ってより、「近所に買い物」みたいな恰好だった。

 それでも靴の紐だけは、ちゃんときつくしてある。


「気をつけてね、行ってらっしゃい。」


 僕たちを見送るばあちゃんのその声は、いつもより少しだけ、柔らかかった。


 ドアの向こうの空は、どこか遠くまで続いていそうな青さだった。

 セダンのエンジン音が、低く心地よく響いていた。

 僕はナビの画面とスマホの地図を見比べて、小さく息をついた。


「東伊豆って……たぶん、小田原を通って、熱海の先、下田の手前くらいか。

 でも、地図にないって……マジでどこ行くんだよ。」


 道の名前は表示されているのに、目的地だけが不透明だった。

 ナビにも出てこない。

 徒歩ルートがあるなんて話まで出てきて、ますます訳が分からない。

 そう呟いたとき、車内に流れていたラジオの音がふっと小さくなった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る