「はぁぁ」

 

 体操着入れの袋を地面すれすれまで提げて長い溜め息を吐くわたしは、第二体育館の出入り口の所に立ち尽くしていた。

 夜這星高校の敷地は広大で、必然的に校舎から体育館へと続く渡り廊下も長い。それだけでもダルダルなのに、箒星市が低地にあるせいで水害対策のために建物がおしなべて高い位置にあり、出入り口には階段がセットなのだ。

 つまり、体育の授業のための移動だけでいい運動になってしまう。ああ、倦怠。

 しかもこの後には苦手な運動の中でも特に苦手な球技──バレーの授業が控えている。ああ、暗澹あんたん

 などと嘆息していても通行の邪魔になるだけなので、嫌々ながら体育館内にある更衣室へ向かって歩きだした。

 笑撃の告白イベントから一箇月が過ぎ、スポーツに精を出す奇人変人が多いという十月も下旬に差し掛かっていた。

 翌日に顔を合わせた色雲は何事もなかったかのように涼しい顔をしていて、その後も懸念していたような嫌がらせなどは皆無だった。杞憂に終わったのはよかったのだけど、実にあっさりとした色雲の態度にはモヤモヤするものがなくもない。動機はどうあれ、あんなに求めていたのに、何なん? 何でそんなに切り替え速いん? まぁしつこくされても困るんだけど、少しくらいは未練を感じなさいよ。

 なんてことは所詮は青春を彩るちょっとした点景にすぎず、目下のバレエボウルのほうが断然悩ましいのである。

 体育館のホールに入って左側の壁の真ん中辺りに部首のはこがまえの形に凹んだスペースがあり、匚の字の上の棒線に当たる所に女子更衣室へのドアがある。といってもそのドアを開けたらすぐに更衣室というわけではなく、まず短い廊下があり、向かって左側にようやく更衣室のドア(真)が見えるのだ。なお、廊下の奥には女子トイレがある。もちろんキレイピカピカだ。

 更衣室に入ると、化粧品やら整髪料やら柔軟剤やら体液やらのにおいが交じり合った非常に濃厚なメス臭が鼻腔に侵入してきた。今日の一時間目の体育はA組とB組の合同授業で人数が多いのもよくないのだろう、いつもより鼻につく。

 他方の男子はパソコン室で──C組が授業しているところにお邪魔する形だ──動画を見て簡単なレポートをこなすだけでいい。人数が少ないから仕方ないのはわかるが、男子はいいよなぁ。

 そんなふうに羨みながら適当なロッカーを陣取ったところで、覚えのある、いかにも高級そうな香り──ハイブランドの香水の──が隣に現れた。

 流し目でちらと見れば、案の定、並の男子よりも高い身長にすらりとしなやかに長い手足、鮮やかなブロンドロングヘアの日米ハーフの美少女、B組の長宝院ちょうほういんユリアがいた。

 うぇぇ。

 わたしは内心で顔をしかめた。

 クラスが違うため直接の絡みはないが、長宝院の噂は耳にしている。

 長宝院を一言で表すならば女王蜂クイーンビー、若しくはガキ大将。

 旧財閥家のお嬢様である長宝院は、超男尊女卑社会の数少ない例外、つまりは男子さえも操れるほどの強大な権力を有しており、クラスどころか学年どころか学園カーストの最上位に君臨しているのだ。

 親から甘やかされて育った長宝院は、自己肯定感とプライドがべらぼうに高く、したがってわかりやすく高慢でわがままな性格をしているが、家の力だけの無能な七光りというわけではない。硬式テニスの一流選手でもあり、前述のとおり麗しい見目をも具えている。それがいっそう彼女を増長させているのは想像に容易い。

 長々と語ったが、要するに、関わりたくねぇ、ってこと。目をつけられたら高校生活の終焉、バッドエンドまっしぐらである。

 わたしは、冬眠明けの腹ペコ熊に遭遇したかのような心持ちで、しかし何食わぬ顔を装って着替えを始める。

 が、すぐ隣にいると聞きたくなくても会話が耳に入ってくるもので。


「ユリア、それってこの前発売されたやつ?」


 長宝院に話しかけたのは、同じくB組で表向きは彼女の親友ということになっている有佐ありさ美波みなみだ。有佐の親は、長宝院グループ──長宝院家が牛耳る企業グループで、世界に多大な影響力を有する──傘下の某企業で重役に就いている。それゆえ有佐もとんでもねぇお嬢様なのだが、元締めの長宝院家には逆らえない。

 敬語ウザい。

 幼少のころにこう言われた有佐はタメ口を利かざるを得なくなった。しかしその奥にはいつも忖度のニュアンスがちらついていて、聞いていて胸がきゅっとなる。


「そうよ」面倒なのか、ぞんざいな口調で長宝院は答えた。


「ええー、いいなぁ」有佐は言う。「うちのママ、なかなか買ってくれないもんなぁ」


「始末がいいって言われたいんでしょ」


「だねー。京女はめんどくさいのよ」


「あと、陰湿で見栄っ張りで淫乱」


「こじらせイキリ陰キャの上位互換、てか下位互換? ってわたしは思ってる」


「それ」


「でしょー」


 京都の女に何の恨みがあるんだ、と思いつつ横目で見れば、スマートフォンのことを話しているようだった。SNSでも確認しているのか、長宝院はだらだらと着替えをしながらスマホをいじっている。わたしの記憶が確かなら、最新の、いわゆるハイエンドスマートフォンと呼ばれる最上位機種だ。発売してすぐのを買ってもらえるなんてわたしんちとは大違いだ。

 ま、考えてても詮なきことなりー。

 わたしはそそくさと着替えを終わらせ、ロッカーを閉めようとしたところで、ドアを開けて入ってくる丸っこい影に気づいた。

 もう授業が始まるというのにいまだにブレザー姿のその影──B組の百瀬ももせももが、女の群れを縫うようにして小走りにわたしのほうへ近づいてくる。

 え、わたし?

 と疑いはしない。だって面識しかないし。

 その予想は正しく、ちょいぽちゃの百瀬は汗ばんだ息を切らしながら長宝院の前に立った。


「遅い」長宝院が冷たく、低く言い放った。


 びくんとして百瀬は、「ご、ごめんなさい。でも、自販機はどこも売り切れてて」


 そういえば、百瀬は売店のレジ袋を持っている。ペットボトルのスポーツドリンクが覗いているところを見るに、パシられたのだな。


「だから何?」と、いっそう酷薄に長宝院。


「あ、ご、ごめんなさい」百瀬はおびえきった様子でうつむいた。


 有佐がレジ袋からひょいっ、ひょいっとペットボトルを二本抜き取った。一本を長宝院に渡すと、


「もういいよー。暑苦しいからさっさと消えてね」


 と優しげにほほえんで言った。ただし、目は笑っていない。


「あ、あの、お金は──」百瀬は上目遣いに尋ねるが、


「え、何? 聞こえない。ごめんね、もう一回言ってもらえる?」


 有佐ににらまれ、すくみ上がった。


「あ、あ、ごめ、ごめんなさいっ、わたし馬鹿で勘違いして、ましたっ」


 百瀬はそう言うや否や身を翻して隅のほうへ逃げていった。

 怖ー。

 わたしはいまだ開けたままのロッカーの扉の陰に顔を隠しながら口の中で、有佐はんもばっちり京女の血ぃ引いてるやん、とつぶやき、危うく噴き出しかけた。やべーやべー。







「あべし!!」


 鋭く放たれたボールが、わたしの頬をしたたかにぶった。あまりに重い一撃に思わずよろけて膝を突く。

 相手コートが、


「やりぃー」「ナイスキィ!」


 と沸いているのが聞こえて顔を上げると、強烈すぎるスパイクを決めたメスゴリラ、長宝院ユリアが得々とした笑みを浮かべていた。汗が輝いてやがる。

 膝を突いたままのわたしを心配したらしき体育教師の最上もがみ──体育大学出の三十代の短髪女だ──が寄ってきた。


「おい、大丈夫か」


「何、かすり傷ゆえ心配無用なり。関ヶ原で受けた膝の矢傷が、ちと疼いただけじゃよ」


 最上は痛ましそうに眉を集めて、「頭をやられてるじゃないか。少し休んでろ」


「かしこまりー」

 

 そう答えてわたしは、ほくそ笑みながらコートから出た。壁際で体育座りをしようとして、ぶるるっと尿意を催した。


「おしっこ……」


 そうつぶやいて更衣室の所のトイレに向かう。

 匚の字の凹みの横では一人の女子──B組の人見ひとみが体育座りをして膝に顔をうずめている。生理を理由に見学しているのだ。曰く、重いらしい。その真偽は定かではないが、お大事に、と念じておく。

 トイレを終えて戻ると、人見は同じ姿勢のまま微動だにしておらず、まさか死んでる? と疑いたくもなるが、かすかに肩が上下していて呼吸はしているとわかる。一安心したわたしは、そっとその場を離れて自分のチームの近くの壁際に腰を下ろした。

 と、人見が、ハッとばかりに顔を上げるのが見えた。口元を手で拭っている。

 居眠りしていたのだろうか。顔色は案外悪くもない。







 事件が起きたのは、体育の授業が終わり、汗くさいメスどもが更衣室に雪崩れ込んだ直後だった。


「ない……」


 わたしの右隣で長宝院がつぶやいた。何やらロッカーの中をがさごそと漁っている。


「どうしたの?」その長宝院の更に右隣の有佐が、訝しむ。


「スマホがないのよ!」


 長宝院の声は明らかに苛立っていた。忍耐強さなど猫の額ほども持ち合わせていない短絡的な彼女のことだから、次の瞬間にはキレてそうだな、と予想していたら、案に相違せず、


「誰よっ?!」長宝院は更衣室全体をギロリと睥睨して喚いた。「わたしのスマホ隠したやつ、今すぐ出てきなさいっ!!」


 ざわついていた更衣室が、しんと静まり返った。

 ここのロッカーは鍵のないタイプで──更衣室自体は外から鍵を使うか内からドアノブのつまみを回すことで施錠できるが、授業中は解錠されていた──中の私物をくすねて隠そうと思えば簡単にできる。長宝院が全員を疑うのも無理はなかった。

 有佐は面倒なことになったなぁというように当惑顔になっている。

 体感で三秒が経ち、誰も名乗り出ないと見て取るが早いか、長宝院は有佐に命じた。


「何とかしなさい」


 完全に暴暗君のそれである。

 哀れな有佐は、ロッカーから自分のスマホを出して電話を掛けはじめた。長宝院のスマホを呼び出そうというのだろう。

 しかし、有佐は小さく吐息を洩らすとスマホを下ろした。


「電源切られてる」それから有佐は、いかにも駄目元というような弱々しい聞き方で、「ユリアのスマホ、電源オフでも捜せるように設定してたりしない?」


「何それ。そんなの知らない」


 長宝院は自分に奇禍が訪れるなど想像だにしていなかったのだろう。ぬっくぬくのぬるま湯──恵まれすぎた環境で育った人間には、たまにあることだ。


「だよね」


 肩を落とすでもなく有佐は一瞬思案げな顔になり、次いで更衣室全体を見渡すと、


「ちょっと待ってて」


 と残して更衣室の奥へと消えた。

 少しして戻ってきた有佐は、報告した。


「更衣室の横に座ってた人見に、授業中に更衣室に入った子を聞いて当たってきたんだけど、スマホは持ってなかったしロッカーに隠してもいなかった。念のため人見のことも調べたけど、こっちも何も出てこなかった」


 犯行推定時刻は一時間目が開始してから終了するまで──開始前に更衣室から最後に出てきたのが長宝院と有佐で、終了後はみんな一緒に入ったことを考えると授業中ということになる。だからこそ門番よろしく更衣室脇に鎮座していた人見を頼ったのだろうが、それが空振ったとなると──。


 ちっ、と長宝院は大きく舌を鳴らし、「だったら、しらみ潰しに調べるしかないじゃない。今すぐに、体育を受けていた全員の持ち物検査をするわよ」


 溜め息をこらえるように喉を上下させて有佐は、「最上もだよね?」


「当たり前でしょ」


「わたしは? 調べなくていい?」


 有佐がそう尋ねたのは、根も葉もない嫌疑を掛けられるのを未然に防ぐためだろう。


「そうね……」とささやいて少し考えた長宝院は、「わたしと美波は最上に調べさせましょう」


かいより始めよ〉とも言うし、人を従わせるには必要なことなのかもしれないが、長宝院が彼女自身をもその対象にしたのは意外だった。

 そうして突如として始まった持ち物検査──精密な身体検査を含む──は、しかし芳しい成果は得られなかった。長宝院のスマホは煙のように消えていたのだ。

 その時点で二時間目にがっつり食い込んでいた──本来ならこの時間に体育館を使うはずだった一年生は有佐により門前払いを食わされている──のだが、長宝院は、がんばって捜したけど見つかりませんでした、で素直に諦めるような玉じゃない。火でも噴きそうな恐ろしい形相で、ぎりっと歯噛みすると彼女は、そばに控える、すっかり、親友から部下へと華麗なる転身を遂げた有佐に次なる指示を飛ばした。


「体育館を調べるわよ」


「いいけど、この子たちはどうするの?」


「捜索に使う子以外は見つかるまでここで待機ね」


 女の群れ、特に最上から絶望の気配がぶわっと広がった。しかしどうしようもない。長宝院だもの。逆らったら最悪物理的に消される。

 そして、長宝院は捜索メンバーの選抜を始めた。基準は謎だが、たぶん近くにいる人から適当に選んでいるのだろう。

 なぜそう思うのかって?

 近くでぽけっと突っ立っていただけのわたしをいの一番に指名したからだ。

 やったードラフト一位だぁー!

 ってなるわけがない。クソダルイベントがクッソダッルゥッイベントにレベルアップしたのだ、悲しすぎる。

 齡十七にして人を顎で使うことが習い性になっている長宝院は、沈痛な面持ちの捜索メンバーに言った。


「まずは更衣室を調べなさい」


「かしこまりー」


 とはいえ、どこをどう調べればいいのやら。

 死んだ魚の目をしてしぶしぶと仕事を始める捜索隊を尻目に、少し状況を整理してみる。

 更衣室への侵入自体は体育に参加していた全員に可能だった。人見の監視を掻い潜ることさえできれば疑われにくくもなる。そして、人見の体調──生理中に眠くなるのはよくわかる──を考えると、それはそう難しいことでもなさそうだった。つまり、容疑者は体育をしていたA組とB組の女子全員に教師の最上となる。それ以外の者が入ってくるには体育館の出入り口か窓を経由するしかないが、そんな者はいなかった。有佐が持ち物検査の際に尋ねていたが、みんなそう証言していた。

 なお、更衣室にも窓はあるが、教室などにある横にスライドさせるタイプではなく、窓の上側を軸にしてドアのように開閉する横滑り出し窓というもので、その開閉範囲は非常に限られている。およそ人が通れるものではない。

 つまりこれは、体育館という巨大な密室を舞台とした紛失事件。

 であれば、やはり内部の者が犯人なのだろう。

 では、どうやってスマホを消したか。

 素直に考えるなら、授業中に更衣室に入って何かしらのトリックを用いたと見るべきだろう。

 といっても、そんな方法あるか?

 例えば、窓から外に投げ捨てる? でもその後は? 

 例えば、共犯者を窓の外に待機させておいて受け渡す? ……これなら理屈のうえでは可能か。

 となれば、その証拠が欲しい。

 わたしはおもむろに更衣室の奥へ行き、窓を開けた。

 窓の外は土の地面で、ほんの五メートルほどの距離に刑務所を彷彿とさせる高い塀があるばかりでほかには何もない。塀の高さは目算で五メートルほどで、窓から地面までは、高床仕様のため体育館のステージから床を見下ろしている距離感に近く、だからおそらく二メートル強ほどだろう。

 体育館の建物の角まではどれくらいだろうか、と考える。向かって右側の角まではだいたい二十メートル弱か。左側はかなり遠くて測りかねるけど三十五メートルはありそうだ。

 この窓は西に面しており、つまり目の前の何もないスペース──いわゆる体育館裏──基準だと体育館の建物が東側で、塀が西側にあるため一日の大半が日陰になる。残念ながら今の時間もその例に洩れないが、人間の足跡くらいなら見えなくはないだろう。

 皿にした目をあっちにやったりこっちにやったりして捜す──が、見つからない。


「何を見てるの」


 不意に後ろから声がして、


「ひょわんっ」奇声を上げてわたしは、振り向いた。


 不機嫌そうに口をへの字に結んで腕組みをした長宝院が、身長差のエグいわたしを見下ろしていた。


「や、やあ、シスター! スマホを受け取る役の共犯者がいたのかもと思って調べてたのさ。けど──」わたしは目線で地面を示した。「足跡なんてないじゃん? 当てが外れちまったぜってね、がっかりしてた次第でそうろう」


 長宝院は窓の外を一瞥すると、「なるほど、乳に栄養を取られた、ただのチビじゃないようね。ちゃんと考えて仕事をする人間は嫌いじゃないわ」


「このパイオツでも」とわたしは意味もなく胸を張り、「学年二位なりー」


 ちなみに前回の期末テストの文系の学年総合二位は二人いて、同じクラスのメグとかいうケバいギャルがそれだ。一位は言わずもがなの綾崎千宙であり、上位三名をA組が独占している。


 長宝院は仏頂面をぴくりとも動かさずに、「話し方ウザすぎだし、イタい」と冷酷に切って捨てた。「今夜のうちに人生を終わらせたくなかったら、今すぐ改めろ」


「はい、すみませんでした」わたしはしゅんとしおたれた。ふりをした。「真面目にしますー」


 長宝院は非常に胡乱な視線を寄越したが、


「まぁいいわ」とまさかの寛容さを見せて、「来なさい」と言って背を向けて歩きだした。


 ついていきたくねー。

 遠巻きに見物しているギャラリーを、助けを求めるともなく見たら、さっと目を逸らされた。せちがれーぜ。

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