大学生のころに死にかけたことがある。

 刺されたのだ、ストーカーに。

 そのストーカーは、親しくしていた同じゼミの女子生徒だった。

 そのころのわたしは、まだ人間の善性を信じていた。というより、愚かだったのだ。彼女がストーカーだなんてこれっぽっちも念頭になく、ストーカー被害を受けていることを彼女に相談さえしていた。そんなわたしを心の中でどう思っていたのか、と今でも考えることがあり、そのたびに憂鬱になる。

 事件のきっかけは、わたしが警察に相談したことだった。のちに逮捕された彼女の供述によると、第三者である警察の介入をわたしが望んだのを裏切りと捉えたそうだ。それで逆上して凶行に及んだ。

 バイト帰りの夜道で刺され、気がついた時には病院のベッドの上にいた。通りがかった人が助けてくれたのだ。

 その人とわたしの証言により彼女は逮捕されたが、今でも夢に見ることがある。 

 刺されて倒れ臥し意識が朦朧とするわたしに、「愛してる、愛してる」とうわ言のように繰り返しながら口づけを落としつづける彼女の唇の感触を、その、狂気に染まった狂喜の双眸を。

 わたしは、わたしに好意を向ける女性やそうなる可能性のある同性愛者が苦手だ。どうしてもあの子のことを思い出してしまうから。

 とはいっても、あんなことをする子がそうそういるわけがないというのは、もちろんわかっている。殺人未遂どころかストーカー行為だって、普通の人はしない。

 だから大丈夫。

 そんなふうに自分に言い聞かせて今週も仕事をやり過ごし、友人とごはんを食べたりしてから帰宅した。二十三時を過ぎていた。

 

「ただいま」


 誰もいないアパートのしじまへつぶやくのは、いつもの癖だ。返事がない寂しさにも慣れてはいる。

 半ば無意識に電気を点け──そうしてわたしはそれを見つけて息を呑んだ。

 リビングの中央の白い洋風座卓、その上にぽつねんと便箋が置かれていたのだ。

 ここ箒星市よりもずっと田舎に暮らす母には合鍵を渡してあるが、何の連絡もなく彼女が来ていたとは考えにくい。

 それなら誰が──。

 つらい記憶に急き立てられるようにして嫌な想像が形を成していき、心臓が早鐘を打つ。

 文面が表になっているので触れずとも読めた。


『せっかく彼氏と別れたのに、どうしてわたし以外の女と過ごすの?

 世界で一番あなたのことを愛しているのも理解しているのも、わたしなのに。あなたにはわたしこそがふさわしい。わたししかふさわしくない。いい加減目を覚まして。あなたにほかの人間はいらない。わたしだけがいればいい。それが一番なの。それだけが唯一の幸せへの道。

 利口な涼なら理解できるわよね? 信じてるわよ、涼。


PS これからは気をつけることね。わたしにも我慢の限界はある。あなたも胸の傷を増やしたくはないでしょう? そうならないことを祈っているわ。』


「──っ」


 悲鳴を上げなかったのは、恐怖心に負けなかったからではない。首を絞められているかのように息ができていなかったからだ。

 急に思い出したかのように空気を吸い込むと、震える手で便箋を裏返してみた。何も書かれていなかった。メッセージはそれですべてのようだった。

 警察には相談できない。あの時と同じ目に遭うかもしれないと思うと勇気が出ない。

 どうすればいいの、と考えるふりをするけれど、答えは最初から決まっていた。

 自分で解決するしかない。

 自分で犯人を突き止めて、事を荒立てないように話し合いで解決する。

 上手くやれるかはわからないけれど、だってそれしかないじゃないか。警察が駄目なら、友人や知人にも当然頼れない。巻き込んで迷惑を掛ける危険もある。それはもっと駄目だ。

 自分で何とかするんだ──半ば自棄になったような気分で無理やりに自分を奮い立たせた。

 そして手始めに、その便箋をスマホで撮影した。便箋を紛失した際にも証拠とできるように、という思惑からだった。

 ベッドに横になりながら犯人の心当たりや部屋への侵入法などを考えているうちにカーテンの隙間が白んでいった。

 この夜は一睡もできなかった。翌日──すでに今日だけれど──が休みなことだけが救いだった。







 週末一杯考えて出した結論──容疑者は赤林鈴、青山心羽、黄倉沙月の三人だった。

 月曜日、登校したわたしは彼女たちを観察した。

 しかし皆いつもと変わらないように見えて犯人の特定に至る糸口は発見できなかった。全員怪しいと言えば怪しいし、考えすぎと言われればそうかもとも思う。

 どうしたものか、と唸りながら帰宅したわたしは、再び眉をひそめた。

 金曜日と同じように座卓に便箋が置かれていたのだ。

 

『今月の生理は少し遅れぎみだったみたいだけど、大丈夫? 涼は重めだったよね? 痛み止めのストックも少なくなってるみたいだし、買い忘れないようにね。

 ……え? どうしてそんなことまで知ってるのかって?

 そんなの決まってるでしょ? あなたの出したゴミを調べたのよ。汚くなんかないわ。ゴミといっても愛する人のものだもの、わたしにとっては宝物よ♡』


 ──くしゃっ。


 たまらず便箋を握り潰してしまった。嫌悪感に心がクサクサするし下腹部も痛いし、最悪な気分だった。

 が、一応撮影だけはしておいた。

 次の日、精神的なものか、いつもは鎮まりはじめるはずの三日目なのに生理痛がひどく、午後からの出勤──愛車に乗り込んでアパートを出たのが午後零時半──となってしまった。

 すると、たまたま同じように遅れて登校した赤林と正面玄関の所で行き合った。互いの第一声は、


「大丈夫?」「大丈夫ですか?」


 だった。よほどやつれていたのかもしれない。

 時刻は午後一時を回ったところ。昼休み──午後零時五十分から午後一時四十分までだ──の職員室に行き、遅れたことを謝ると、


「そんな日もあるわ。気にしなくて大丈夫よ」


 雲雀は朗らかにそう言ってくれた。けれど、申し訳ない気持ちはずっしりと重たい。

 黄倉もそんなわたしを、


「本当に大丈夫?」


 と心配した。


「え、ええ、もう大丈夫です」


 黄倉が犯人かもしれないと思うと素直に受け取れない。


「健康すぎるくらい健康で学生のころから無遅刻無欠席継続中のわたしからすれば、すごく大丈夫じゃなさそうに見えるけど」


 黄倉のほうも疑わしそうにわたしを見ていた。これが演技だとしたらたいしたものだ──そこで、彼女は演劇部の顧問だったか、と思い出した。

 夜這星高校は演劇部──毎日熱心に練習している──ですらレベルが高い。そんなところで指導に当たる黄倉なら、こんなふうに涼しい顔を作って善良な同僚の役を演じるのも容易いのではないか。

 わたしの疑心は、見たくもない暗鬼を見ようとしてしまう。本当に疲れる。

 そうやってメンタルを磨り減らしながらも午後を乗り切った時にはすっかり疲労困憊で、定時になると逃げるように高校を後にした。買い物しとかなきゃ、という頭はあったけれど、早く休みたいという欲求には抗いがたく、寄り道せずにアパートに帰った。日はまだ沈んでおらず明るい時分だった。


「また……」


 わたしの憮然としたつぶやきは、一人住まいの静寂に溶けて消えた。

 また便箋があったのだ。これで三通目。鍵を換えたほうがいいのだろうが、アパートでそれをやるとなると貸し主に事情を説明する必要があるし、報復が怖い。


『今日は元気なかったね。無理しないでゆっくり休んでね。』


 どの口が言うのか、と怒りで便箋を持つ手が震えた。


『PS ごはん作っておいたから温めて食べてね(涼の好きなのだよ♡)。』

 

 リビングと一体となったキッチンへ視線を走らせた。一見何もないが、電子レンジを開けるとラップをしたハンバーグがあり、デミグラスソースの酸味まじりの濃いにおいが、ねとっと鼻腔に絡みついた。

 ──その瞬間、あまりの気持ち悪さに吐き気が込み上げた。

 とっさに口元を押さえるも、こらえきれずにえずく。飲み物ぐらいしか胃に入れていなかったためキッチンが吐瀉物まみれになることはなかったが、すさまじい不快感だった。

 その次の嫌がらせは金曜日のことで、写真だった。それはわたしの傷を抉るものだった。昔、例のゼミの子にも同じような写真を送りつけられたことがあったのだ。


『愛してるよ、涼♡』


 と口紅らしき赤い文字で書かれていた。大きく押し広げられたストーカー女の女性器のすぐ横の内腿うちももに。

 黒い草むらにぬらぬらと濡れ咲く淫花に、憤怒と嫌悪と恐怖が爆発した。


「もう嫌っ!」近所迷惑も憚らずに叫んでしまい、止まらない。「どうしてわたしなのっ?! やめてよっ! 愛してるならわたしを苦しめないでよっ!」


 視界がにじみ、涙が溢れる。

 ひとしきり泣くと、少し冷静になれた。病んで完全に壊れてしまえていれば楽だったろうに、と恨めしく思う自分に乾いた溜め息をくれ、証拠の撮影と片付けをした。

 一人きりのアパートでの静かな夜は重くのしかかり、晴輝に振られていなかったらこんなことにはなっていなかったのかな、と虚しい空想が浮かんだ。

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