「お、お姉ちゃんはどうなるんですかっ?」

 

 やっとのことでわたしが絞り出した問いに、法橋が答える。


「今までは決定的な証拠がなかったため起訴が見送られていましたが、自白という最強の直接証拠が出たことで検察官が起訴手続きを進めているところでしょう。検察庁の決裁権者の状況次第ですが、遅くとも明日には起訴されるはずです。そうなると裁判が始まってしまいます」


「裁判……」


 事件があってから調べた刑法の条文が、頭をよぎった。


『刑法第百九十九条 人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の拘禁刑に処する。ただし、男性を殺した女性は死刑に処する。』


 条文上は死刑一択。

 そして、過去にあった男殺しの裁判では、殺害の事実が認定されなかったこともなければ情状が酌量されたこともなく、責任能力に問題がなかった場合はすべて死刑となっている。また、責任能力に問題があると認められた例も極端に少なく、仮に認められたとしても心神耗弱しんしんこうじゃくによる減軽までで、心神喪失とされて無罪判決が下ったことは一度もない。

 つまり、裁判になった時点で厳罰は確定してしまうのだ。

 その残酷な現実は、わたしの胸をきつく締めつけた。息が苦しい。喘ぐように、


「法橋さんっ、弁護士なんですから何とかしてくださいよっ」


 法橋は困ったように眉尻を下げ、「最善は尽くします。しかし──」そこで伏し目がちに、悔しげに口ごもった。


 その、まるで初めから諦めているかのような様子が、わたしの気を逆撫でした。カッと熱くなった頭が癇癪を起こしかけた──その時、


「有罪率百パーセントぐらい、ぼくが崩すから心配しなくていいよ」


 綾崎先輩の落ち着き払った声。


「でも──」


 いくら綾崎先輩でも無理だよ、という反論は、わたしの唇を押さえた彼の繊細な人差し指に止められた。

 目と鼻の先にいる綾崎先輩が、


「だーいじょーぶ」と歌うように言い、そのきれいな顔が、ふいと悪戯っぽくほほえんだ。「何たって、ぼくは千年に一人の究極完全体美少年らしいからね、これくらいよゆーよゆー」


 あまりにも軽く、何でもないことのように断言するものだから毒気を抜かれた心地がして、気持ちが鎮まっていく。

 それを見て取ったのか、綾崎先輩は指を放した。

 綾崎先輩の体温の名残を確かめるようにこっそりと唇を舐めた──仄かに甘やかで、不思議と安心する味がした。







「綾崎君はすごいですね」


 赤信号につかまったところで運転席の法橋がぽつりと言った。

 わたしたちは姉に会いに警察署へ向かっていた。


「我々プロの弁護士でも尻込みしてしまう状況なのに堂々としていて──」法橋は、言い訳と懺悔がまじったような微妙なニュアンスをにじませていた。「何度も大番狂わせを起こしてきた母を見ているようです」


 後部座席で車窓を眺めていた綾崎先輩は、法橋のほうを一瞥だけして、


「ぼくが男の子で、ぬるま湯でぬくぬくと生きてこられたからじゃない? 痛い目を見たことがないから人が死んでもゲーム感覚でいられる。不安なんて抱かないから、盤面を鳥瞰して冷静に最善手を探せる──壁にぶつかったり失敗したりして血を流しながらも、くじけずにがんばってる女の人たちとは違ってね」


 と自虐めいた言葉。


「それは……」法橋は返答に窮しているようだった。


 ふ、と鼻先でほほえで綾崎先輩は、


「──ま、単に人格破綻者なだけかもしれないけどね。ぼくって、ちょーエゴイストだから。自分が楽しければそれでいいってね」


 芸術的なEラインを描く横顔を目の端で盗み見ながら、本当にそうだろうか、と密かに懐疑する。

 何となくだけど、違う気がしていた。

 綾崎先輩はきっと優しい人だ。希望的観測じゃない。今はそう信じておこ──、


「いよいよこのミステリーゲームもクライマックスだね!」出し抜けにこちらに笑顔を向けた綾崎先輩が言った。その目はキラキラと輝いている。「ね、小春、無事解決した暁にはこの事件のこと小説のネタにしていい? ちゃんとアレンジ加えてフィクションとしておもしろおかしくするからさ。

 ──え、何で道端で潰れて干からびた蛙を見るような目をしてるの? そんな目で見られたことなんて少ししかないんだけど。小春って中一のころからぼくに憧れてたんじゃないの? ちょくちょくメスい目で見てきてたよね?」


 うーん、この男の子、ちょっとよくわかんない──え、てか、いろいろ完璧にバレてるじゃん。恥ずかしっ!







 夜だというのに警察署では多くの職員が働いていた。

 法橋が接見の手続きをして、そして再び狭い面会室で姉と対面した。


「お姉ちゃん……」


 思わずわたしはつぶやいた。姉の目が赤く泣き腫らされていたから。


「さっきぶりだね」しかし相変わらず綾崎先輩は、姉の目が見えていないかのように場違いに明るく切り出した。「ちょーっと確認したいことがあるんだ」


「もういい、です」


 姉は諦めてしまっていた。苛烈な取り調べに疲弊して、それから解放されたい一心で無実の罪を認めてしまうケースは少なくないと聞いたことがある。姉もそうなってしまったのだろうか。

 それか、上手く誘導されたか。姉のことだからこちらも十分にありえそうだった。


「わたしが煎豆さんを殺したんです。もうそれで、いいんです。これ以上みんなに迷惑を掛けたくないんです。もう帰って──」ください、という弱々しい姉の言葉を、


「やだよ」綾崎先輩が切り裂いた。「どうして勝てるってわかってる試合を放棄しなきゃいけないのさ?」


「勝て、る……?」姉が訝しむようにささやいた。


「そそ、みんなどんでん返し大好きでしょ? 推理作家の端くれとしてはそういうエンタメを書かないわけにはいかないの。だからぼくの質問にしょーじきに答えてね」


 おちゃらけた口調に意味不明な理屈。それなのに有無を言わさぬ迫力があった。

 姉が戸惑いながらも首肯すると、早速、綾崎先輩は尋ねた。


「現場から逃げていった松原さんの格好について教えて」


「?」姉の顔が疑問の色に染まった。「普通の格好だった、けど……?」


「うん、知ってる。そこをもうちょっと具体的にお願い──例えば、どんな髪型だったか、とか、どんなコートを着ていたか、とかね」


「髪はいつものストレートロングの金髪で、コートは白いのだったけど……」


「その白いコートというのは、風花さんがナポリタンを零しちゃったハイブランドのコートのこと?」


「うん」姉は、少しはにかむようにしてうなずいた。「オレンジ色の猫ちゃんがいるの」


 綾崎先輩の口角が妖しげに吊り上がり、「ナポリタンの染みが猫みたいな形だったってことだよね?」


「?」姉が、なぜそんなことを聞くのか不思議そうに小首をかしげつつ、「そう、だけど?」と答えると、


「チェックメイト」綾崎先輩はささやきを転がした。


 狐につままれたような表情の姉に、おやすみ、またね、と挨拶して面会室を出た綾崎先輩が次に執った行動は、わたしが十五年余りの人生で培ってきた常識をぶち壊すものだった。


「はーい、皆さんちゅーもーくっ!」


 信じられないことに彼は、この警察署の大会議室に設置された、姉の事件──カフェ店主殺害事件の捜査本部に突撃したのだ。

 百人近くはいるだろう強面の女傑たちもあんぐりと顎を落としている。

 ひぇぇ、いくら何でも無茶苦茶すぎるっ。

 後でどんなお咎めがあるのかと思って戦々恐々としているわたしと法橋とは対照的に、綾崎先輩は最高に楽しそうで、透明感がありながらも芯のあるよく通る美声で続けた。


「こっからは探偵役の推理披露パートだから、心して聞くようにっ!」


「いやあの、あなた誰なの。どう見ても不法侵入なんだけど、流石に見過ごせないよ?」


 近くにいたパンツスーツの若い女性が、困惑の極みのような顔で尋ねてきた。

 もっともすぎる。みんなも、うんうん、とうなずいている。


「何、美少年のぼくがみんなのためにわざわざ来てあげたのに文句でもあるの?」綾崎先輩は、あざとくもかわしらしく唇を尖らせた。「お姉さん、そんなんだとモテないよ? 彼氏いたことある?──そんなの関係ないでしょって? ないけど、改めたほうがいいのは確かだよ。ずっと独り身は嫌でしょ?──え、彼氏いたことあるの?! 嘘っだぁ。ぼくを見た時のうろたえ方といい下心満載の目線といい、処女まる出しじゃん。無理して見栄張ってもいいことないよ? 知ったかぶりの処女ほど痛々しいものはないからね──違うくないでしょ。はいはい、もうそれでいいからセクハラで訴えられたくなかったら処女はおとなしくしててね」


 パンツスーツの女性はうつむいて黙り込んでしまった。耳まで真っ赤で、若干涙ぐんでもいる。

 わたしは激しく同情した。

 これ、男の人でもぎりぎりアウトなんじゃ……、と思っていると、


「あれ、あの子ってもしかして」


「嘘っ、綾崎千宙君っ?」


「ホントだ! ほら、画像の子と同じだよ!」


 綾崎先輩の正体に気づきはじめた会議室が色めきはじめ、黄色いざわざわが広がっていく。

 すると今度はブラウンのスカートスーツを品よく着こなした初老の女性が歩み出てきた。

 カンリカン、という声が周りから聞こえた。

 その彼女は淑女然とした静かな口調で、しかし眼光鋭く綾崎先輩を見据えながら言う。


「先ほどあなたは『探偵役の推理披露パート』と言いましたが、あなたにはこの事件の真相が見えているのでしょうか?」


 その視線を事もなげに受け止めて綾崎先輩は、「うん、そうだよ」とうなずいてみせた。「真犯人のこともそうだし──」そこで彼はにこっとほほえみ、「おばさんたちが焦ってることも違法な取り調べしてたことも全部お見通しだよ」

 

 二人がにらみ合い、緊迫した沈黙が広い会議室を支配する──けど、それは長くは続かなかった。


「いいでしょう」カンリカンと呼ばれたブラウンスーツの女性が引いたのだ。「その推理とやらを聞いてさしあげます。しかし的外れなことを言うようでしたら──わかっていますね、名探偵?」


「ん、りょーかい」綾崎先輩はどこまでも超然としていて、「さぁて、やりますか!」誰よりも楽しそうだった。


 長テーブルにあったマイクを無断で取った綾崎先輩は、大会議室の奥の大きなスクリーンの前に立ち、語りはじめた。


「まず大前提として一野風花は犯人ではない。彼女を単独正犯たんどくせいはん又は共犯の実行役としたら返り血の不自然さから、準備などで実行役の手助けのみをしたという共謀共同正犯きょうぼうきょうどうせいはん又は幇助犯ほうじょはんとしたら意味もなく、というか疑われるとわかりきっていたはずなのに現場にいた不自然さから当然に容疑圏外に弾かれる──ここまではいいよね?」


 姉を犯人としようとしていた立場では素直にうなずけないのだろう、曖昧に顎を引く刑事たちの中から疑問の声が上がった。


「しかし一野は松原に濡れ衣を着せるために虚偽の供述をした──これは一野が犯人でないとすると矛盾するのではないか?」


「そう、そこなんだよね、この事件の肝は」綾崎先輩は言う。「〈犯人ならば言い逃れたり濡れ衣を着せたりするために嘘をつく〉という命題とその逆を共に真としつつも〈動機がなく、確固たるアリバイもある松原鏡子の無実〉と〈その松原鏡子を見たという一野風花の無実〉の二つが矛盾せずに成立する解釈が一つだけ存在する──つまり、一野風花は意図的に嘘をついたわけじゃないんだ。彼女はしみ真実、逃げていく松原鏡子を目撃したと信じてる──ま、要するに、まったくの別人を松原鏡子だと勘違いしてるんだよね、風花ちゃんは」


 大会議室のどよめきは、勘違いの可能性についてはみんなうすうす勘づいていたのだろう、それほどではなかった。


「はっきり言っちゃうと、一野風花には発達障害の傾向が見られる。しかも境界性知能の疑いもある。彼女たちの中には、思い込みが強いという特徴を持つ人がいるんだけど、見たところ一野風花はそれが顕著だ。それで悪気なく錯誤に陥った」


「それでは、逃げていった人物というのは誰なんだ?」核心に迫る質問が飛んだ。


「うん、それは同僚の三葉杏奈」綾崎先輩はあっさりと答えを口にした。「真犯人である三葉杏奈が松原鏡子に変装してたんだ」


 今度はさっきよりも大きくどよめいた。


「その根拠を説明するには、一野風花がなぜその人物を松原鏡子と思い込んだのかを話さないといけない。

 調べたところによると、事件当日の午前中、松原鏡子は前日に買ってもらったばかりのコートを着てカフェに出勤したという。そして、休憩室兼更衣室で一野風花によりそのコートにナポリタンを零された。下手人曰く、『オレンジの猫ちゃんがいるの』だそうだ。つまり、そのナポリタンの染みはかなり特徴的な──猫みたいな形だったということなんだ。

 もうわかったよね?

 そう、その、いわばナポリタン・キャットを見たからこそ勘違いした。加えて、中途半端に薄暗かったことと松原鏡子に変装した人物が彼女のヘアスタイルに近い金髪ロングのウィッグを着けていたこともその誤解を深くした。

 ここまでわかったら、あとは単純な消去法でたどり着ける。

 カフェが閉店する午後八時には、近辺のクリーニング屋は一般的な例に洩れず営業を終了していた。

 そして松原鏡子は、染みのついたそのコートの画像をSNSに上げたり友人に見せたりもしておらず、帰りにはそのコートを煎豆翼のマンションに置いて代わりに別の黒いコートを着ていた。

 また、ほかの店員が染みを撮影していたということもない。無実が明白な松原鏡子がそれを証言していたし、勤務中は鍵付きのロッカーに保管していたことから状況的にも彼女の目を盗んで撮影することは不可能だったとわかる。営業が終了するなりまっすぐに飲みに行っていた煎豆翼も撮影はありえず、マンションから現物を持ち出す暇もなかった。

 したがって、当日に猫の形の染みを視認して正確に知っていたのは、その日にカフェに出勤していた人間しかいない。

 そのうち一野風花については先述のとおりで、松原鏡子もアリバイがあり動機もないことから犯人にはなりえない。ついでに言うと、ファミレスで松原鏡子と会っていた彼女の旧友も煎豆翼と面識がなく、動機が認められない以上犯人ではない。また、そのほかのカフェと無関係の者にも目ぼしい人物はいない。

 次に長戸鞠子。彼女は風邪で休んでいてカフェに顔を出していなかったから直接視認することはできなかったけど、被害者及び店員らに比較的に近しい人物ということで又聞きの場合について言及する。

 仮に長戸鞠子を犯人とすると、単独正犯の場合はカフェの人間からコートのことを聞いて犯行に及んだということになるけど、これは犯人の心理としては不自然だ。なぜって、捕まれば死刑一択という超ハイリスクなギャンブルをなそうとする人間が、人から聞いた、しかも画像も現物もない言葉のみの情報を基に、生命線である変装の内容を決めるとは考えられないから。

 共犯であれば、松原鏡子と一野風花を除くと、ほかに目ぼしい人物がいない以上三葉杏奈との犯行ということになるけど、これもおかしい。

 まず三葉杏奈と長戸鞠子の二人が共に実行犯となる典型的な共同正犯の場合は、一野風花が一人しか目撃していないことから否定される。

 そして三葉杏奈と長戸鞠子のうちどちらかのみが実行犯になり片方は準備などの手助けのみという、共謀共同正犯又は正犯と幇助犯の組み合わせの場合は、二人ともアリバイがないことから否定される。一般に共犯者が疑われるというのはリスクでしかない。ボロを出されたら諸共に破滅するからだ。したがって、実行時刻を把握している共犯者ならその時間は人目のある所に滞在してアリバイを作るはずなんだ。なのに、彼女たちはそれをしていない。ということは、前提条件つまり共謀共同正犯及び正犯幇助犯パターンが偽であると言える。

 以上から、三葉杏奈の単独正犯であり、松原鏡子に変装していたのは三葉杏奈でしかありえないと結論づけられる」


 一拍の沈黙があって、


「いや、待ってちょうだい」聴衆から疑問が提出された。「その推理は、一野風花が実際にコートの人物を目撃していたという前提に立っているわ。そもそもコートの人物なんて存在せず、一野の完全な捏造だった可能性が否定できない。逃げる三葉の目撃証言がないと空論の域を出ないのよ」


「そんなの現場周辺の聞き込み捜査をすればいいだけでしょ」


「それは当然我々も行ったが、現場から逃げる人物が存在したという裏は取れなかったぞ」横合いからやや語気の弱い反論があった。


「どうせおばさんたちは、早く事件を片付けたくて雑な聞き方したんでしょ? 松原鏡子の写真を見せて、『この人物を見なかったか?』とか、『公園から足早に離れていく白い無地のコートを着た金髪の女を見なかったか?』とか、そんな聞き方じゃ駄目に決まってるじゃん。

 殺害の状況からいって三葉杏奈が返り血を浴びていたことは確定的なんだから、人通りのある繁華街に飛び出す直前にはコートを脱いで、丸めて脇に抱えるなりしていたはずだよ。雪の降る寒い夜に、コートを持っているにもかかわらずそれを着ずに歩いてる人間は、きっと通行人の記憶に残ってる。

 だから正解の聞き方は、『雪の降る中、防寒具も着ずに歩いていたか走っていた女を見ませんでしたか?』だよ。イエスと答える人がいたら三葉杏奈の写真を見せて確認すればいい。

 ついでに、近辺のブティックなりで当日のカフェ閉店時間の午後八時以降に三葉杏奈が松原鏡子のコートと同じか、似ているコートを購入したかも調べたほうがいいね。仮に計画的な犯行だったとしても、松原鏡子が前日に突然、彼女が普段は買わないような色合いのコートを買ってしまったことで急遽調達する必要に迫られたはずだから」


 気づけば、会場の温度が上がっていた。刑事たちから高揚の熱が立ち上っていた。


「動機は? 三葉の犯行だったとしてその動機は何なんだ?」少し早口に、興奮ぎみに刑事の一人が尋ねた。


「あー、うん」そこで初めて綾崎先輩の歯切れが悪くなった。ぽりぽりとこめかみを掻いて、「まぁたぶん好きだったんだろうね、被害者のことが。それで執着心やら嫉妬心やらでどうしようもなくなって暴走してしまった。松原鏡子が一人で過ごす予定だった時を狙ってあわよくば彼女に罪を着せようと彼女に変装したのも、返り血を浴びるリスクがあるのに滅多刺しにしたっていうのも、そういった黒い感情と整合性がある──正直、これに関しては推理としては弱くて憶測に近いんだけどね。

 でも、ホワイダニット以外の状況証拠はすぐに揃うだろうし、ここまでお膳立てしてあげたんだから、真っ当なやり方でも十分落とせるでしょ?」


 その挑発的な物言いは、刑事たちのプライドを刺激したようだった。目に力強い光が宿っていた。

 ただ、ここまで聞いてもわたしにはわからないことがあった。だから、それを知りたくてわたしもこの推理披露パートとやらに参加することにした。

 

「あのーっ!」


 遠くにいる綾崎先輩に聞こえるように声を張って右手を挙げると、大会議室の耳目が一斉にこちらを向いた。怯みそうになるのをぐっとこらえて、


「犯人が三葉さんなら、お姉ちゃんがあの場所にいたのは何でなんですか?」


 綾崎先輩はおもしろそうに目を細めて答えた。


「それに関してはお姉さんの自白どおりだと思うよ。彼女は彼女で煎豆翼に熱を上げていたみたいだからね、ついついストーカーじみた行動を執ってしまったんだろう──男子にはよくあることさ、特にぼくや煎豆翼みたいな美男子にはね」


「ああ……」


 納得がいった。犯人じゃないなら、星が見たかったからなんていう明らかな嘘をつく必要なんかなかったはずなのに、そうまでして真実を隠したかったのは単純にストーカー行為が後ろめたかったからか、と──そして同時に、お姉ちゃん、ほんとにもう、頭の中がお姉ちゃんすぎるよ、とあきれ果てた。オカルトを信じないわたしが、そういう馬鹿なことをするからバチが当たったんだよ、と思ってしまうくらいには。


「以上、探偵役の推理披露パート終了!」元気に宣言した綾崎先輩は、続いて大会議室の一点──カンリカンを見据えて言う。「ご納得いただけましたでしょうか、マドマアゼル?」


 マドマアゼルという言葉は、若い女性──あるいは未熟な小娘──に対して使うものだったはず。つまり、からかっているんだ。

 大会議室の熱気が沈黙し、カンリカンに注目が集まる。

 二人が見つめ合う少しの間があって、


「ビィンジゥュリィ──お見事です、名探偵」


 カンリカンは、ふっ、と表情を和らげると何やら外国語らしき言葉を流暢に歌った。

 わっ、と大会議室が沸いた。みんな口々に綾崎先輩を褒めそやす。

 いい年した大人たちが、わたしたち学生のようにはしゃぐ姿は、たしかにマドマアゼルと呼ばれるのがふさわしいのかもしれない。

 そんなことを思うわたしの胸も、もちろんドキドキと高鳴っていたのだけど。







 任意の事情聴取という名目で警察署に連行された三葉は、現場近くでの目撃情報と当日に松原のものと似たコートを購入した旨の古着屋の店員の証言、そして綾崎先輩の推理そのままのストーリーを突きつけられると、犯行を認めて自白した。


「男に生まれて恵まれてるくせに、一人の女しか愛せない、なんて自分勝手な理屈であたしを振ったことがどうしても許せなかった」


 三葉は動機についてこんなふうに語ったのだそうだ。気持ちはわからなくもないけど、だからといって殺人はもっと許されないことだと思う。

 ──でも、と思う自分もいる。

 でも、本当に人を好きになってしまったら、こんな誰にでも言える陳腐な正論なんて何の意味も成さないのかもしれない。たとえその代償が自分の命だったとしても。

 三葉が起訴されるのと同時に姉は釈放された。

 姉は少し痩せていたけど、迎えに行ったわたしと母に屈託のない笑顔を見せてくれた。

 そして、文字どおり九死に一生の立役者である綾崎先輩とそれをアシストした法橋にお礼をしたい、と言い出した。

 これもアフターサービスのうちなのか二つ返事で了承した法橋とは対照的に、


「そんなのいらないんだけど。ぼくとしてはミステリーを楽しめて小説のネタも得られたんだから、それで十分なんだよねー。そんなに暇でもないし」


 と興味なげに言う綾崎先輩を何とか説得して女くさい我が家──精子バンクにより子を授かった一般的な母子家庭で、住宅街にあるこぢんまりとした一戸建てで暮らしている──に招待したわたしを、姉と母は称えたし、わたし自身も自画自賛した。

 リビングのソファーに座っている法橋が、同じくソファーにもたれてマイペースにスマホで電子書籍を読んでいる綾崎先輩にやおら言った。


「わたしからもお礼を言わせてください」


 ちらっと一瞥した綾崎先輩は、「ん」とだけ応じた。


 法橋は構わず語りはじめる。


「ご存じかと思いますが、わたしの母は日本でも五本の指に入るくらいの優秀な弁護士でした。物心がつくころには漠然と自分も母のようになるんだと思っていました。

 勉強は苦手ではなかったのが幸いしてつまずくことなく弁護士になることができました。

 しかし、現実は厳しかった。

 わたしには実務法律家に必要な素質がなかったんです。

 人間というものは机上の理論どおりにはいきません。当たり前のことなのに、わたしにはとても難しい。民事も刑事も、母どころか同期や後輩にも及びませんでした。

 ──今回の国選の仕事が終わったら、結果がどうあれ弁護士を辞めようと考えていました」


 紅茶で唇を湿らせてから法橋は続ける。


「けれど、もう少しだけしがみついてみることにしました。あなたのおかげですよ、綾崎君」


「ふうん」言われた当人は、読書の邪魔だから黙っててくれない? とばかりの気のない相づち。


「絶体絶命の窮地をものともしない姿は、子供のころに母に憧れた気持ちを思い出させてくれました。わたしもああやって誰かを助ける人間になるんだと盲目的に信じていられたあのころの自分と久しぶりに向き合えたんです」


 法橋は紙袋から小さな箱を取り出した。濃緑の古びた箱だ。


「母が使っていた懐中時計です」


 パカッと蓋が開けられると、いかにも高級そうな金色のそれが現れた。中の機械が見えるタイプのアンティークなデザインだ。

 法橋はそれを綾崎先輩のほうへ差し出した。


「これは、わたしなんかよりも母と同じ背中をした君にこそふさわしいのです──今回のお礼として受け取ってくれませんか?」


「えー、重すぎー」綾崎先輩はぶれない。「形見なんでしょ? 娘の司律ちゃんが持ってなよ」


「いや、母が生きていても君に渡してくれと言ったはずです」法橋も譲らず譲ろうとする。


「流石は弁護士、〈死人に口なし〉を最大限に使いこなしてるねー」


「いやいや、その恩恵を最も多く受けるのは推理作家でしょう。そのおかげで謎が成立するのですから」


「おー、流れるような論点のすり替え。そういう屁理屈もいけるなら案外弁護士としても大成するかもねー」


 などと戯れ言めいた押し問答が始まったところで、


「できたよー!」


 うきうきとした喜びに満ちた姉の声がキッチンから飛んできた──なぜか嫌な予感が背筋を走った。

 姉が、ニッコニコのハイテンションに任せてバタバタと慌ただしく駆け寄ってくる。その手には、彼女お手製のナポリタンを乗せた盆が持たれていた。

 お姉ちゃん気をつけて、と言おうとしたけど、遅かった。


「ああっ!!」


 姉は、なぜか何もない所で足首を捻ると勢い良くナポリタンを離陸させた。


「え?」「ん?」


 揃って顔を向けた法橋と綾崎先輩の間へ空飛ぶナポリタンは一直線。

 そこにあるのはもちろん──。

 皿の割れる硬質な音とナポリタンがぶつかる水っぽくて柔い音が、場の空気を一瞬で冷凍させた。

 果たしてというか案の定というか、形見の懐中時計はナポリタンまみれになってしまったのだった。

 抱えた頭でわたしは思った。

 何でそうなるのーーっ?! お姉ちゃんの馬鹿ーーっ!!

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