軽やかな香りも憐れみを誘わず Ⅰ

 従姉の励ましも虚しく、市場での一件はしばらくダットの頭にこびりついたままだった。これを認めるのは癪なのだが、ダットは傷ついたのだ。だが、得心がいった点もある。

 ――だから、娘みたいに思ってるんですかね。

 トゥイがクオンに示す優しさは、祖母ハンが自分たちに向けるものに通ずるところがあるのだ。

 そういえばトゥイは、いつかダットが厨房に訪れた日、ダットには蒸し餅しかくれなかった。しかしクオンには豚の角煮と揚げ春巻きと……あとは何だったか覚えていないが、とにかく多くのご馳走を振る舞ったのである。この態度の裏に、特別な感情が潜んでいないというほうが信じがたかった。

 クオンの母は、十六年前に十九歳で結婚した。つまり今三十五歳なのだ。

 もしかしてあいつの母親が流れ者の子だっていうのは嘘で、トゥイさんが未婚で産んだ子なんじゃないだろうな。

 馬鹿馬鹿しい妄想であるとは承知しつつも、少年は屋敷に戻った翌日に、祖母に尋ねずにはいられなかった。クオンの母親が生まれた頃、体調を崩したとかでトゥイさんが長い休みを取ったりはしなかったか、と。

「そんなことは一度もなかったわよ? トゥイさんは昔から丈夫で働き者で……。むしろあんまり働きすぎるから心配になって、わたしが促して休みを取らせてたぐらい」

 祖母はここ最近では珍しいぐらい落ち着いた様子だった。ダットとはすれ違いに祖母の室から出てきたアインのおかげだろうか。祖母は唯一の孫娘をいたく可愛がっているから。振り返ってみれば、アインの我儘は祖母の溺愛によって培われたものなのかもしれない。

「このところトゥイさんは働き詰めだから、心配になったのね。ダットは本当に優しい子だわ」

 ついでに祖母には、大概の人間の行いを良い方向に解釈する癖がある。祖母はあくまで善良なだけなのだが、相性によってはとんでもない人間性を醸成してしまいかねないだろう。

 なんであれ祖母の純粋な眼差しに晒されると、トゥイが未婚で子を産んだのではと疑ってしまった自分が恥ずかしくなってくる。 

「ま、まあ、そういうところです」

 祖母の元から逃げた少年が無意識に足を向けたのは、トゥイの牙城たる厨房であった。

 俺はまだ、トゥイさんを疑ってるんだろうか。祖母さまにあんなにはっきり否定されたのに。

 己の猜疑心を自嘲しつつも、少年の蜜色の耳は、もう一人の渦中の人物の歓声を捉えた。

「いつ飲んでも、トゥイさんの薬膳茶は母さんが淹れたのと同じ味がするね。祖母ちゃんが淹れてくれるのも好きだけど、やっぱり母さんと同じ味の方がほっとする」

 スィウ北部においては、健康を保つための薬膳茶の配合や淹れ方が、代々受け継がれている。薬膳茶の作法は母から娘へと受け継がれるため、共通する母や祖母を持たない限りは、同じ味を出すのは不可能に近かった。

「ありがとう。これはちょっとした自慢なんだけど、チーチュエンさまは、昔から飲みやすいって褒めてくれたのよ」

 祖母ハンは南部の出身であるし、自分で茶を淹れることもないため、父ヒェウたちには母の薬膳茶の味は存在しない。父たちが懐かしむのはあくまで、トゥイが淹れた薬膳茶の味なのだ。

 はしたないし無礼だと承知しつつも、ダットは物陰に隠れ、厨房での会話に聞き耳を立てたずにはいられなかった。

「チーモンさまも、カオンダンさまも、随分褒めてくださった。……もう、あのお二人にお茶をさし上げることもできないなんて……」

「……トゥイさん」

 涙で声を詰まらせた老女の慟哭が、虚ろに響き渡る。

「ごめんね。あなたには大分無理させてるのに、何もしてない私が弱気になっちゃいけないわよね」

 トゥイはどうにか泣き止んだが、今度はクオンに涙が――不安が移ったようだった。

「……僕もう、こんなことやめたいんだ。チーモンさまが亡くなられてからずっと、何が起こっているのか分からなくて……。怖くて、辛くて……。でも、ニャンさんに相談しても怒鳴られるだけだろうし……」

 啜り泣きの聴きとりづらさから察するに、クオンは卓に突っ伏しているのかもしれない。

「白蓮姫って、一体何なんですか……? どうして、」

 クオンの言い分はもっともなのだが、引っかかるものを感じた。だが、それが何なのか分からない。

「クオン。あなたが今ここで逃げちゃったら、家族はどうなると思う? だから泣くのは、今はおよしなさい」

 打ちひしがれているだろう少年に対して、トゥイが入れた喝は、優しくも厳しかった。

「白蓮姫さまについては、深入りしない方がいいわ。だけど、これだけは言える。――白蓮姫さまは、あなたたちを絶対に傷つけない。なんせお優しいあの方は、最後まで……」

 どうしてトゥイは、リエン姫がクオンには害を及ぼさないと断言できるのだろう。クオンはバック家の人間ではないからだろうか。

「きっともうちょっとの辛抱だよ。あの鏡が、あなたをきっと守ってくれる。この辺りの年寄りはみんな、三十三年前から大花百日紅を祭壇に供えて、祈ってるんだからね。だから私たちも、頑張ろう」

 大花百日紅といえば、クオンが同姓の古老たちから贈られた漆器の鏡の裏側を彩る花である。そして何より、白蓮姫ことバック・フオン・リエンが、自ら婚礼衣装に刺繍を施すほど好んだ花でもあった。その紫色の花を、三十三年も――あの妖魔が口にした年月の間、老人たちは祭壇に捧げてきたとは。

 いっそ信仰心めいた白蓮姫への敬慕の念を示されると、急に背筋が粟立った。もしかしたらトゥイは、自分たちの味方ではなかったのかもしれない。むしろ白蓮姫を殺した祖父カンを憎悪し、祖父の血を継ぐ者たちの死に様を、いい気味だと影で嗤って――

「え……? 大花百日紅を祭壇に供えてるのって、母さんと祖母ちゃんだけじゃなかったの……?」

 ダットにはクオンの戸惑いが、痛いほど理解できた。しかし、クオンに駆け寄って、同意を求められるはずがない。だって今のクオンの傍には、トゥイがいる。そして厨房には、当然ながら包丁が――刃物があるのだから。

「……じゃ、じゃあね、トゥイさん。お茶、ありがとう」

 トゥイには存在を絶対に気付かれたくない。しかしクオンにも盗み聞きを悟られたくはなかった。ゆえに少年は足音を殺し、できる限り速やかにこの場から離れたのである。

 這う這うの体で、否応なしに馴染みつつある自室・・に戻る。少年はそれからしばらくは、寝台の上で布を被って歯の音を鳴らしていた。

 今すぐに家族と共にこの屋敷から出ていきたい。しかし、出ていったところでカムハ社の民に見つかったら、袋叩きにされてしまう。いや、殺されてしまうかもしれない。だったらトゥイ一人を警戒すればよい屋敷の中で閉じこもっている方が、まだしも安全なのではないだろうか。トゥイとて、クオン含む使用人も口にする料理には、毒を盛りはしないだろう。

 ――俺は一体、どうすればいいんだ?

 どんなに考えても、答えは導けなかった。ダットは所詮、まだ羽毛も生え揃っていない雛鳥。未熟な若輩者なのだ。同年代の少年と比較すれば、勉学を積んできたという自負はある。しかしどんなに詩や歴史を暗唱できたとて、怪異に打ち勝てるはずがない。

 せめて頼れる大人に縋りついて、この胸の裡を吐き出してしまいたかった。だが父やフック伯父に、要らぬ重荷を背負わせるわけにもいかない。最近ずっとフォンに掛り切りの母は、ダットが守るべき存在だ。年齢はどうあれ、母は自分より腕力で劣るはずの女なのだから。

 孤独と恐怖という二匹の怪物が、少年を食い荒らす。夥しい傷を負った心は、今にも息の根を止めかねない、瀕死の状態だった。しかし怪物の鋭い牙は、ダットも知らなかった奥底を暴きだしてもくれたのである。

 この心中を、懊悩を打ち明けられる相手が、そういえば一人だけいるではないか。

 よろめく足を叱咤して、少年は室から、屋敷から出る。すると、どこかからか泣き声が聞こえた。きっとクオンだ。

 クオンならば、自分と悩みを分かち合ってくれる。

 虎に追われる兎となって、少年は音の源に向かった。しかし辿り着いたのは、瑞兆などではないと明らかになった白蓮が咲き乱れる池で。しかも、畔ではあの紅い服の妖魔が蹲っていたのである。

 ……俺はクオンに会いに来たのに、どうしてお前がいるんだよ。どこの誰だか知らないけど、さっさといるべき場所に帰ってくれよ。

「……前は威嚇されてしまいましたけれど、猫を手懐けるなど容易いことですわ」

 妖魔はあの狂暴な猫を撫でまわしつつ、心底げんなりしているダットに向けて、紅の蓮の花弁の唇をほころばせた。だけどもう、この笑顔に心蕩かされてはならないのだ。だってこれ・・は、ミン伯父とタインを殺した化け物なのだから。

「ダットさまも、わたくしと遊んでくださらない?」

「――ふざけんじゃねえ」

 ただでさえ少年にしては非力なダットでは、これには絶対に敵わない。けれども、吐き捨てずにはいられなかった。

「あんたのせいで、みんな迷惑してんだよ。……確かに俺たちのジジイはクソジジイだよ。あんたも、あのジジイに痛い目に遭わされたのかもしれないな。でも俺たちが――チーモン伯父さんやカオンダン兄さんが、何をやったって言うんだ?」

「わたくしの願いを叶えてくださらないという罪を犯しておりますわ。……三十三年前に何が起きたか、いい加減察しがつきまして?」

 目の前にいるのは少女の姿をした化け物だというのに、脳裏では臆病な少年の顔がちらついていた。この化け物のせいで迷惑しているのは、ダットたちだけではないのだ。

「お前のせいで、バック家には関係ないやつまで怯えてんだよ。ここで働かないとやっていけそうにないやつなんだ。あんたそういうこと、考えたことあるか?」

「……あ」

 ダットがクオンについて言及すると、妖魔は茉莉花の蕾の頬を、完熟した桃の実にした。そうして、まるで恥じらっているかのごとく、花の顔を俯かせる。それが赦せなかった。どうせ良心の呵責など一欠片も覚えていない化け物の、一連の仕草を可憐だと感じてしまった、自分自身も。

「まだ生まれてもない頃に何があったかなんて、知らねえし、関係ねえよ! だからもう、いい加減に諦めてくれ!」

 抑えかねた感情を込めた拳は、ひらひらと躱されるばかり。逆に、人間の少女では決してあり得ない力で押し倒されてしまった。自分の弱さが、この時ばかりは憎らしい。

「諦めろ、ですって!? ――あなたにわたくしの何が分かるというのです!?」

 大粒の涙が、蜜色の頬に降り注ぐ。己を焼けそうに熱い磚に押し付けている体のぬくもりと感触に、少年ははっと鋭い目を瞠った。

「ひどい。酷い。散々期待させておいて、ダットさまもこの気持ちをちっとも分かって下さらない……」

 それこそ真珠か翡翠と化しそうな涙で洗われた面は、朝露に濡れた蓮の花もかくやの麗しさを保ったまま。ということは、これは決して化粧の産物ではないのだ。妖魔のたしなみに化粧が含まれるかは、寡聞にして把握していないが。

「お願いです、ダットさま。もうあなたしか、お縋りできそうな方はいないのです。だから、どうか……」

 ダットの混乱と沈黙をいいことに、怪異はダットに馬乗りになったまま号泣しだした。

 いったいどれ程、妖魔の嘆きを受け止めていたのだろう。赤らんだがゆえに一層艶めかしい眦から零れた最後の雫に。その雫が濡らした唇に、少年は手を伸ばす。

 ふっくらとした果実を一層瑞々しくした露は、恩寵の証として天から降る甘露など及びもつかぬほどに甘いのだろう。ふとした思い付きを、確かめたくなったのだ。しかし。

「こっちよ! 早くダットを助けて!」

 アインが若い男の使用人とともに駆けつけてきたため、少年の細やかな願望は叶わなかった。二人の接近に気付いた怪異は、ダットに寂しげな微笑を残して、またしても池の中央で消えてしまったのである。

「早く! 中に戻るのよ!」

 いつか自分がクオンにそうしたように、アインに手を引かれて屋敷に駆け込む。

「昨日ダットに言いそびれた事を、急に思い出したのよ。でも、あんなことになってるなんて……」

 従姉の秀でた額には、汗で髪が幾筋かへばりついていた。

「実は半信半疑だったんだけど、さっき確信が持てたわ……。絶対にそうよ……」

 はあはあと息を荒げたアインが、自分を探してまで伝えたかった話とは、何なのだろう。

「あの化け物の紅い服……。あれ、私のお気に入りだった一着に似てるのよ」

 急かしたつもりは全くないのだが、肩で息をするダットの眼差しから、察したのだろう。アインはろくに息も整えぬまま、驚愕の事実を詳らかにした。

「正月に着ていった、流行りの型の絹の長上衣。綺麗な薄紅色だったんだけど、料理の汁でうっかり汚しちゃったから、使用人に処分を任せたの」

 あれが白蓮姫、もしくは彼女が死ぬ以前から存在する怪異だとしても、なぜ昨今の流行の様式の装束を纏っているのだろう。今となっては時代遅れにもほどがあるだろうが、白蓮姫が少女だった頃の流行の服装ならばともかく。

 更にあれ・・は、ミン伯父の恋の相手として現れた際は、村娘の恰好をしていたという。先日の一件といい、一体なぜ村娘の振りをしたのだろう。

 それにそもそもあの妖魔は、今年の正月頃に封印から解き放たれたのではなかったのか。十七年前はあの堂に封じられていたはずなのに、いかな手を講じて抜け出したのだろう。そもそも抜け出せたのなら、なぜそのまま逃げてしまわなかったのだろう。本来逃れられたものを、再び封じられる危険を冒してまで叶えたい望みとは、何なのだろう。というかもしかして、あれは……。

「じゃ、そういうことだから」

 繭玉となった頭の中では、何かが蠢いている。正直その何か以外を頭に入れる余裕はないのだが、それでもアインの証言が重要なものだとは理解できた。

「アイン。できれば今日の夜にでも、時間を作れないか? 二人でこっそり話したいことがあるんだ」

 縺れた糸玉となった思考を整理するためにも、従姉ともっと話したい。ただし、ある程度この事件について独りで整理した上で。

「ごめんね。実は今日の夜は、先約があるの。これ以上先延ばしにしたら、流石に不味いわ」

 少年は懸命に頼み込んだのだが、従姉にはすげなく断られてしまった。

「じゃあ、明日の朝はどうだ? 明日の朝、俺がアインの室に行くから」

 だったらいいわ――と、アインは朗らかに返事をしてくれた。けれども翌朝早速ダットがアインを訪ねても、華やかな姿は室のどこにも見当たらなくて。

「すみません。アイン、いますか?」

 父母か弟と過ごしているのだろうかと確認してみても、やはり従姉は見つからなかった。

 従兄タインの死が明らかになった際の状況が蘇る。恐怖を堪えつつあの堂の中まで確認したが、やはりアインはいなかった。屋敷の中の、どこにも。

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