第6話 その拳が、雷を纏うとき

 書店を出た瞬間、空気が変わった。



 通りには不自然な静けさとざわめきが同時に流れ、その先――広場から、遅れて人の叫び声が突き抜けてきた。



「今の……!」



 エリスが足を止め、音のする方へ目を凝らす。ルークも同じ方向を見やった。



 夕闇に沈みかけた広場の奥で、巨大な影が重々しく地面を踏みしめていた。



 魔導自律人形ゴーレム――かつて市街地防衛用として設計された、旧式の魔導兵装。

 剥き出しの素焼きの肌に走る裂け目からは、過剰な魔力の噴き上げが土煙とともに漏れ出している。



 煉瓦れんがを積み上げたような躯体くたいには、乱雑に刻まれた魔導刻印が浮かび、紫色の魔素光エーテルグローが脈打つたびに、その構造をきしませていた。

 制御核として埋め込まれた魔法石の暴走が、自己強化術式を連鎖的に巻き込み、構造そのものをむしばんでいる。



(……単なる魔法石の暴走じゃない。意図的に過剰供給された痕跡がある。制御術式が微妙に改竄かいざんされている)



 ルークは眉をひそめ、胸元で脈動みゃくどうする魔力の光を見据えた。



(このタイプのゴーレムが市街地に出てくるのは珍しくない。でも――こんな形で動いてるのは、明らかにおかしい)



 ――撹乱かくらん工作の可能性がある。



 暴走そのものが目的ではない。

 その裏で、何かを覆い隠そうとしている……?



 理性は即座に状況を分析し始める。

 逃走ルート、隠蔽いんぺいの可能性、市民の反応、エリスの保護……すべてを一瞬で判断しようとしていた――が。





 唐突に、風が揺れた。

 白いケープがふわりと舞い上がる。

 その中心にいたエリスが、軽やかに前へ踏み出していた。



「待っ――」



 声をかけるよりも早く、彼女はさやから短杖ショート・ワンドを引き抜いていた。

 風をはらんだその動きは、まるで大気の流れそのものを身にまとうようだった。



 エリスは両手をわずかに広げ、指先で空をなぞるようにして魔力の流れをすくい上げる。

 風が、彼女の呼吸に合わせて静かに渦を巻いた。

 淡い青白い光がその身を包み、呪文がその唇から解き放たれる。




「――Sizora Bindrora Diss Golem」

《風よ、この自律人形ゴーレムを拘束せよ》




 地面を舐めるようにして魔力の奔流ほんりゅうが疾走し、エリスの足元から複雑な軌道を描く風の紐が一斉に走り出す。

 蛇のようにうねりながら、風はゴーレムの四肢ししへと絡みついた。

 粗く組まれた土の装甲そうこうに、風の帯が幾重にも巻き付く。

 空気そのものが鎖となって、巨体を拘束しようとする。



 だが――




「ッ……!」



 魔力が、ぜた。



 拘束の魔法陣が軋む音と共に弾け飛び、風の帯が一瞬で解け、空中に霧散むさんする。

 それはまるで、力任せに縄を引きちぎられたかのような衝撃だった。

 巻き上がった魔力の余波が周囲の空気を逆撫でし、ルークの外套がいとうがはためいた。



 ゴーレムの胸部。

 亀裂の入った装甲の隙間から、むき出しの魔法石が赤黒く脈動する。

 収まりのつかない魔力が、空間そのものを振動させていた。



「……効かない!?」



 エリスの声が空気に溶けた次の瞬間、ゴーレムは鈍く唸りを上げて、一歩を踏み出した。石畳が砕け、埃が舞う。



 その動きは緩慢かんまんなのに、異様な迫力があった。

 まるで本能に直接訴えかけるような圧だ。



 大きな足音が広場に響き、暴走した魔力が空気を震わせる。

 胸部の魔法石が脈動を速め、エリスの髪がその波動に揺れる。



「く……」



 思わず後ずさる彼女を、赤い光が捉えていた。

 感情などないはずの空洞の目が、じっと狙いを定めるように。





 そして、次の瞬間――ゴーレムが腕を振り上げた。




 その一瞬前。

 ルークの右手が、外套の内側に滑り込み、黒いグローブを引き抜く。

 無駄のない動きでそれをめると、彼の眼差しがわずかに鋭さを増した。




「――Ragniz Enshealiz Myan Handra」

《雷よ、我が手に宿れ》




 低く呟いたルークの声に応じ、空気がざわめいた。

 次の瞬間、黒いグローブをはめた右手に、蒼白い雷光が奔る。

 音を置き去りにして走る雷の筋が、彼の腕から肩へ、まるで命脈めいみゃくのように脈動を刻む。

 雷は収束し、拳に宿った。



 雷をまとったその身は、まるで音を裂くように駆けた。

 風が爆ぜ、足元の石畳が跳ねる。



「ッ――!」



 エリスが反応するよりも早く、ルークはゴーレムの懐に飛び込んでいた。

 咆哮ほうこうとともに振り下ろされる巨大な腕を紙一重でかわし、その胸部装甲きょうぶそうこうの隙間を狙う。



 雷をまとった拳が、正確に魔力震動の源――胸部へと叩き込まれる。

 破砕音とともに、岩の装甲が砕け、魔法石が剥き出しになった。



 ルークはためらいなく、雷を帯びたてのひらを深く突き入れた。

 剥き出しの核に直接触れるその行為は、明らかに危険であると知りながらも――



「っ……く」



 逆流する魔力の奔流が、腕から全身を駆け抜けた。

 けるような感覚。

 だが、想定内だ。

 拳に込めた雷が、その暴走した魔力を相殺しきるまで、わずか数秒。



 歯を食いしばり、意識を保ちながら、ルークは魔法石を掴み取る。



「はぁっ……!」



 掌の中で、脈動していた魔法石がようやく沈黙する。

 その瞬間、ゴーレムの全身を包んでいた暴走した魔力がぷつりと途絶え、鈍重どんじゅうな音を立ててその巨体が膝をついた。


 

 ……静寂が、広場を包んだ。



 風が、ルークの黒髪をそっと揺らす。

 拳の中のそれは、もう何の脈動も見せない――ただの、光を失った欠片になった。



「……嘘、でしょ……」



 ようやく立ち尽くしていたエリスが、小さく息を呑んだ。

 彼女の瞳は、未だ微かに蒼く輝いていた魔力の残滓ざんしを見つめていた。



 さっきまで凶暴な猛獣のように暴走していたゴーレムが、今やただのと化している。



「たった一撃で……あんな巨体を……止めるなんて……」



 呆然と呟く声に、ルークは何も答えず、肩越しにエリスへ一瞥いちべつだけを送った。



 その表情は、いつもの優等生の仮面ではなかった。



 鋭い光を湛えた眼差しが、どこか冷たく、そして――遠い。



 やがて彼は無言のまま拳を開き、空の残骸ざんがいを指の隙間から落とした。

 転がったそれが、石畳の上で小さな音を立てた瞬間、遠くで誰かの叫び声が上がる。



「警備隊が来たぞ――!」

「今の、見たか!?」

「あれ、学生か……?」



 市民たちが恐る恐る隠れ場から顔を出し、広場にざわめきが戻ってくる。



 エリスは、改めてルークを見つめ直した。まるで、初めて出会った人物を見ているかのように。




「あなた……いったい、何者なの……?」



 その問いかけは、どこか怯えにも似た色を帯びていた。

 だが、ルークは、肩を軽くすくめるだけだった。



 そして、ほんのわずかに口元を緩めて――まるで何でもないことのように、言った。





「……僕は、ルーク・ヴェルトナー。ただの、だよ」




 夕暮れの中、風がふっと吹き抜けた。

 彼の黒いマントがひるがえり、光を失った魔法石が、地面の上で静かに転がっていた。



 エリスは、しばし言葉を失ったまま、その後ろ姿を見つめ続けるしかなかった。



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