第11話:騒がしさの、その裏で

「──……ねぇ、アレンさん。逃げたくなったら、どうしますか?」


風が吹いた。市場の裏通り、陽の光が届かない薄暗い路地。

リリィがポツリと呟いた言葉に、アレンは歩みを止める。


「……逃げるって、どこに?」


「ううん、たとえば……全部忘れて、どこか遠くに行ってしまいたいって思ったら……。わたしが“ついてく”って言ったら、困りますか?」


その声は、普段のリリィよりも、少しだけ大人びていた。


***


分岐市場の一角、子供たちが遊んでいた狭い路地裏。

 ひとりの少年が、知らない大人に手を引かれ、ふらりと消えた。


「……おかしいわね、あの人、お店の人じゃない」


 最初に気づいたのは、ノアだった。人混みの中、僅かに浮いた魔力の乱れ――それは“隠蔽”と“拘束”の気配だった。


「アレンさん。今、子どもが連れ去られたかもしれない」


 その一言で、場の空気が変わる。


「場所は?」


「北西の路地。急げば――!」


 リリィの加護魔法が光り、全員が一斉に駆け出す。

 石畳を蹴って走る先、裏通りの空気はどこか冷えていた。路地を抜けた先、建物の陰に、魔族の気配があった。


「いた!」


 レンの声と同時に、少女のような姿の魔族が振り返る。手には、ぐったりした少年の体。


 その目が、アレンをとらえた瞬間。


「……っ、まさか……!」


 魔族の女が、一歩、アレンににじり寄る。その気配は獣のそれに近かった。周囲の空気を張りつめさせる濃密な殺気。


「お前……その気配……まさか、まさか貴様……!」


 アレンは眉をひそめる。だが、魔族の次の言葉が、その表情をより険しくさせた。


「“終巡者”……いや、違う、そんなはずは……世界の巡環はまだ閉じていない……“外”の気配など、あり得ない……!」


 アレンは一歩も退かず、その言葉の意味を探るように魔族を見据えた。


「……何の話だ。“終巡者”ってのは何だ?」


 魔族の目が見開かれた。嘘をついている様子はない。だが、その無知こそが恐怖を誘う。


「知らぬのか……その名を……? それとも演技か? 記憶の断絶か? いや、そんな……!」


 アレンの声が低くなる。


「知ってるのは、ループ……繰り返し。何度も、何度も、同じ世界を歩いた。けど、そんな呼び名、聞いたこともない」


 魔族は苦悶するように頭を抱え、呻いた。


「ならばなおさらだ……なぜ貴様から“因果の途絶”の残滓が……ッ!」


 アレンは一歩、魔族へと踏み出す。


「お前は何を知ってる。“終巡者”ってのは何だ? ループと関係があるのか? 俺は……まだ、終わってないのか……?」


 問いかけは静かだったが、その言葉に込められた重みは尋常ではなかった。


 魔族は応えず、ただ震えていた。


「……貴様に、それを告げる権限は、ない」


 そう言い残し、魔族は霧のように姿を消した。


 残されたアレンの手には、淡く光るペンダント。


 それが“鍵”であることに、彼はまだ気づいていない。


***


その夜、五人はいつになく静かだった。

街の灯も遠のき、宿の小さな部屋にだけ、かすかな明かりが揺れていた。

誰もが、眠れずにいた。


アレンは窓の外を見つめていたが、その目は、何も映していなかった。


「……アレンさん」


リリィがそっと声をかける。

カップを手にしたまま動かない彼の隣に座り、小さく息をついた。


「もし、また“何か”が始まったら──その時も、私、いますから」

「……リリィ」

「逃げたくなったら、逃げてもいいんです。わたしも一緒に逃げます。でも……絶対に、“ひとり”では行かせません」


まっすぐな瞳。揺るがぬ意志。

その確かな熱に、アレンは言葉を失う。


「どっちでもいいんです。私は……アレンさんの味方です。ずっと、いつまでも。この身が朽ちても」


リリィの手が、アレンの手に重なる。

その温もりは、何よりも確かな現実だった。


「……はぁ、ずるい。私まで何か言いたくなっちゃうじゃない」


ソファにもたれていたノアが、苦笑しながら立ち上がる。


「アレン。私は魔術師として、あなたをサポートするのが役目だけど……それ以上に、あなたが何を選んでも、私は“巻き込まれる側”でいいと思ってる」


「巻き込まれる、ね……」

「うん。アレンはさ、何を選んでも“中心”になっちゃうタイプだから。だったら、私たちはずっとそのそばにいればいい」


冗談めいた口ぶりながら、その目は真剣だった。


「……そんなことはどうでもよくないけど、どうでもいい」


窓辺にいたレンが、小さく呟いた。視線だけでこちらを向く。


「ひとりでいなくなったら、許さない。……また、探すの面倒だから」


「それが理由か~?」とノアが笑いかけると、

レンは少しだけ言葉を詰まらせてから、ぽつりと告げた。


「……他にも、ある。けど、言わない。まだ」


その視線は、夜の街の闇を映していた。


「……俺は」


最後に、カイが言葉を探すようにして口を開いた。


「アレンを信じてる。でも、もし“信じられなくなるような顔”をしたら……そのときは、無理やりでも引きずり戻す。殴ってでもな」


「……強いな、お前は」

「強くなんかねーよ。お前の方がよっぽど……。ずっと頑張ってたんだな。すまん、気づいてやれなかった。お前が一人で苦しんでたことも、異変に巻き込まれてることも」


静かに告げるカイの言葉が、アレンの心に届く。


「だから……お前の苦悩を俺にも分けてくれ。今度こそ、力を合わせて生き残ろう。俺にも、皆を──お前も含めて守らせてくれ」


──それが、引き金だった。


アレンの肩が、小さく震える。

それに気づいた仲間たちが、ゆっくりと彼のもとに集まってくる。


「ずっと…ずっと思ってた…」


「……助けたと思ったら、誰かが死んで……また最初に戻って、俺は……それを何回も……何百回も……!!」


その声には、もう抑えきれない痛みが滲んでいた。


「俺一人じゃ、仲間一人救えない……! あの手この手で、工夫を凝らしてやってきた……なのに!」


拳を握りしめ、顔を歪める。


「なんで……なんで俺は、物語の勇者のように強くないんだッ!」


その叫びに、誰も言葉を挟まない。


「何度も、何度も何度も諦めそうになった……けどその度に、お前たちの笑顔が浮かぶんだ。普段のあたたかい笑顔も──俺なんかを庇って逝った時の笑顔も……」


「皆バカだよ…。俺なんか庇う価値もない弱い男だ…」


涙が混じる声で、アレンは続けた。


「けど、それが救いでもあった。だから、頑張れたんだ。お前たちの笑顔をきっと守り抜くって……」

「魔王を倒したとき、もう何も考えられなかった。頭が真っ白だった。残った魔物を狩りながら、辺境で死ぬつもりだった……」


言葉を失うノア。黙って背を支えるカイ。


「けど、みんなが追ってきて……繰り返しの記憶まで思い出して……!」


その叫びは、苦悩と恐怖のすべてだった。


「今回は……死んだら、本当に終わりかもしれないって……そう思うと、怖いんだ……!」


「覚えてるのは……俺だけだ。お前たちの死を。何度も“初めまして”を繰り返して……何も知らない顔で、俺を信じてくれて……それが、怖かった……壊れそうだった」


レンがそっと彼の肩に手を置いた。

それだけで、アレンには十分だった。


「でも……それでも今、お前たちがここにいるのが……本当は、嬉しくて……」


「リリィも……ノアも……レンも……カイも……」

「自分のことなんか、どうなったっていいって思ってたのに……」

「────ありがとう」


その一言が、静かに落ちる。


アレンの瞳から、涙がこぼれ落ちた。

それは、終わらない旅路の果てでようやく流せた、救われる側の涙だった。


「泣きたいなら、泣いてもいいのよ」


ノアが、優しく微笑む。


「泣いてない」

アレンがそう言うと、リリィも笑って返す。


「うん、アレンさんは……泣いてない、です」


カイがそっと背に手を添え、レンは何も言わず、ただ隣にいた。


──それが、アレンにとって一番の救いだった。


静かな夜。

確かな絆だけが、静かに編まれていく。


そのぬくもりが、終わりの見えなかったアレンの“ループ”に、確かに、一筋の光を落とした。


***


 夜が明けるころ、部屋の中は、穏やかな静けさに包まれていた。


 誰もが仮初めの眠りに落ちた後──

 一番最後まで眠れなかったのは、アレンだった。


 窓の外、夜明け前の灰色の空を見つめながら、彼はひとつ、深く息を吐く。


(……ようやく、“終わり”が、始まった気がする)


 静かに目を閉じ、指先に残るリリィの温もりを思い出す。

 気づけば、肩にはカイの手、そして背中にはレンのぬくもり。

 隣のベッドからは、寝息まじりにノアの寝言が聞こえてくる。


「んー……アレン、ダメ……それは魔力制御的にまず……」


 思わず笑みがこぼれる。


(……こんな朝が、こんな“普通”が……欲しかった)


 彼は、そっと立ち上がる。

 窓を開けると、冷たい朝の空気が一気に流れ込み、眠っていた仲間たちが小さく身じろぎをした。


 それを見て、アレンは小さく呟いた。


「──もう、守るだけじゃ足りないな」


 仲間たちの想いに、応えたい。

 死なせたくないじゃない。

 生きていてほしい。笑っていてほしい。夢を語っていてほしい。


 そのためなら、どんな未来も、選び取ってやる。


 そのとき──


「アレンさん……?」


 寝ぼけ眼のリリィが、こちらを見つめていた。

 肩までかかる金髪がふわりと揺れる。


「……ごめん、起こしたか?」


「いえ……でも……どこか、行くつもりだったんですか?」


「いや、まだ行かない。行くなら──みんな一緒だ」


 その言葉に、リリィがゆっくりと笑う。

 眠たげな目の奥に、確かな決意の光が宿っていた。


「はい、私も……ずっと、一緒にいます」


 その声に導かれるように、ひとり、またひとりと目を覚ましていく。


「ふぁあ……おはよ、アレン……まだ夜じゃないのこれ……」

ノアがあくび混じりに。


「うるさい……早すぎ……殺意……」

レンが目を細め、毛布にくるまったまま呻く。


「……朝か。よし、じゃあ朝飯作るか?」

とカイが立ち上がり、すっかり日常を取り戻したように動き出す。


 アレンは思う。


 この“当たり前”は、たしかに壊れやすいものかもしれない。

 けれど──壊れたって、また創り直せばいい。何度でも。今度は皆で。


 朝日が昇る。


 分岐市場の街に、新たな一日が訪れる。

 そして、五人の旅路もまた、新たな章へと踏み出そうとしていた。

 誰も、もう──アレンをひとりにしない。

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