第5話:静かな夜に、思い出した痛み

 火の粉が静かに舞い上がる。風はなく、森の夜は異様なほど静かだった。


 ――あの夜も、こんなふうに静かだった。


 寝袋の中で目を閉じていたレンは、そう思った。


 アレンが、何も言わずに立ち去った夜。

 自分はその背中に気づけず、翌朝になってからようやく、彼がいないことに気がついた。


 ――違う。それは、いつの記憶?


 胸がざわめく。冷静であろうとする自分の意識とは裏腹に、心の奥に沈んでいた黒い感情が、じわじわと浮き上がってきた。


 夢を、見ていた。

 おかしな夢だった。アレンが、自分の代わりに刃を受けて倒れる。

 その顔は、笑っていた。満足そうに、苦しそうに、けれど優しく。


「……やめてよ、そんな顔……」


 無意識に、呟きが漏れる。


「……はぁ、はぁ……」


 レンは悪夢にうなされたかのように汗をかいていた。

 目を開け、森の天蓋を見上げた。月明かりが、枝の隙間からこぼれてくる。

 もう眠れそうにない。あの夢はいったい……。


 これは、ただの夢じゃない。なぜか強くそう思った。

 記憶の断片。壊れた時の狭間に、うっすらと残された"本当の過去"。


 ――あのとき、アレンは私を庇って死んだ。


 なぜ思い出したのか分からない。ただ、確信があった。

 彼は、私たちのために、何度も命を落とした。

 何度も、何度も。


「……もう、繰り返したくない」


 口にした言葉は、熱を帯びていた。

 冷静を装う仮面の奥で、心が軋む音がする。息が苦しい。喉が痛い。

 知らないふりをしていた、自分に腹が立つ。


 なぜ、もっと早く気づけなかったのか。

 なぜ、彼の異変に――あの寂しげな背中に、気づいてやれなかったのか。


(わたしは……アレンのことを……)


 思考が乱れる。感情が、理性を上回る。冷や汗が止まらない。


 気がつけば、体が勝手に動いていた。

 寝袋を抜け出し、静かに荷物をまとめる。森に響く音は最小限に抑えた。


 ――アレンは、きっとまた無茶をする。


 そう確信していた。彼はそういう人間だ。誰にも迷惑をかけたくない。

 自分だけで全部背負おうとする。自分の命なんか簡単に捨てる。

 そうならないために、そうさせないために。

 

「……アレンを、守るのは……私の役目」


 彼の代わりに何もできなかったあの時の自分を、もう繰り返したくない。


 旅支度は手慣れたものだった。手早く装備やアイテムを鞄に詰める。

 剣は背に、短剣は太ももに。軽装で、足音を消して森の奥へと向かう。

 いつの間にか汗は止まっていた。けれど体の芯が火照ったような熱さがあった。


 ちらりと、消えかけの焚き火の方を振り返った。


 そこには、安らかに眠るいつかの日の仲間たちの姿が見えた。

 そして――火の傍らに座る、アレンの後ろ姿。


 眠っていなかった。彼は、やはり気づいていたのだ。


(気づいてるくせに……。また、一人で全部やるつもりなんだ)


 怒りにも似た感情が胸を掠める。でも、それすらも痛ましいほどに愛おしいと思えた。


 ――あの人は、そういう人だから。


 レンはいつかの日の光景を振り切り、一歩、森の奥へと踏み出した。

 振り返ることはなかった。これが正しいと信じていた。


 たとえアレンに嫌われようと、恨まれようと、かまわない。

 彼が笑って生きているのなら、それでいい。


 いや――


「違う……生きてるだけじゃ、足りない」


 レンは呟いた。


「笑って、生きて、……わたしの隣にいてほしい。アレン」


 森を抜ける途中、小さな気配が背後から迫った。


 野犬のような狼型の魔物。群れを成す前の斥候か。


 ――カイなら一撃。ノアなら燃やす。リリィなら封じる。アレンなら、守ってくれる。


 けれど、今は誰もいない。


 レンは短剣を2本抜いた。


 低く身構えた獣が跳躍する。

 牙が閃くよりも早く、レンの足が地を蹴った。


「ッ……!」


 振るう。正確に。鋭く。


 魔物の喉元を切り裂いた血飛沫が、月光を浴びて飛び散った。

 だが――まだ、足りない。


 ――こんなんじゃ、ダメだ。


 もう一体。もう一体。森の奥から現れる小型の魔物たちを、次々に切り捨てていく。

 足りない。技も、速さも、殺意も。


「こんなんじゃ……また、守れない……!」


 短剣を握る両手に、力が入る。


 荒い息。脈打つ鼓動。

 震える足。けれど、止まらない。


 魔物の最後の一体が、悲鳴を上げて倒れた時、レンの足元には数匹の骸が転がっていた。


 息を吐く。


 返り血だらけの体に、少しだけ熱が戻った。


 まだ足りない。もっと強くならなければ。

 彼を守れるほどの、自分に――。


「待ってて、アレン……。次は、私が……」


 囁きは、夜に溶けた。


 レンはふたたび森を歩き出す。

 もう二度と、彼を一人にはさせないために。


 月の光が、彼女の背を照らした。

 森を抜け、静かに、少女は旅立つ。

 アレンの背中を追いかけて。

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