第30話 呪い





「いらっしゃい、柚葉」


猫は喉を震わせ、愉快そうに尻尾を揺らした。

そして、大げさにひとつ欠伸あくびを漏らした後、私を見下ろすように言った。


「みすぼらしい姿だのう」

「……誰のせいだと思ってるの」


アンがもっと早く現れてくれていたら、転ぶことも、お母さんと口論することもなかったかもしれない。

そんな私の苛立ちなど気にも留めないかのように、アンは尻尾の先をゆらゆらと揺らした。


「それに、見事なほど【呪い】に近づいているのう」


彼女の瞳が宝石色に輝いた瞬間、その光が反射したかのように私の瞳も熱を帯びた。

すると同時に、私の【影糸】が再び現れ、月光の下で不気味に揺らめく。


「我のおかげで、まだそうなっていないだけだがのう」


嫌な感覚が足元から這い上がり、絡め取られるような重さと冷たさに、思わず身を震わせた。

だけど、今は自分のことよりも気がかりな人がいる。


「それより、露木くんのことなんだけど」


アンは「ふむ」と小さく息を漏らした。

それきり何も答えない彼女に、抑えきれない焦燥しょうそうが込み上げ、思わず言葉が口を突いて出る。


「露木くんの【影糸】が――」

「契約のことなんじゃが」


まるでこちらの言葉を避けるかのように、話題を唐突とうとつに切り替えられ、思わず眉間に皺が寄る。


「契約って、まだ一カ月以上残ってるでしょ?」


なのに、なぜ今その話を持ち出すのか。


「よい。今その契約を果たそう」


頭の中が真っ白になる。

そんな私を置き去りにして、アンは相変わらず言いたいことだけを告げてくる。


「気が変わったのじゃ。もうそろそろここを離れようと思うてのう」

「……離れる?」


一度も、彼女がこの場所からいなくなることなんて想像したことがなかった。

だって、彼女は私に何かを求めていたから。


(それなら露木くんは?)


喉の奥が焼けつくように熱くなり、胸の奥で不安と苛立ちが渦を巻き、暴れだす。

一体、彼女は何がやりたいのか。


「でも、神であっても縁の糸を勝手にいじれないから契約をしたんでしょ?」


アンは首を小さく傾げる。


「ふむ?影糸がより濃うなったのなら、お主は今にもその縁の糸を切りたくて仕方ないと思うたんじゃが」


どこが不満なのじゃろうな、とわざとらしく顎に肉球をあてて考え込む。


「お主の願いは、全ての縁の糸を切って、この世で孤独な独りぼっちになることだろう?」

「そう、だけど……」


歯切れの悪い私の返事など気にも留めず、猫はすっと立ち上がり、淡々と話を進めて行く。


「さあ、約束を果たそう」


そう言って、彼女が手を動かすと同時に、私の影糸が脈打ち始め、首を締めつける感覚が一層強まった。


「ちょっと、待って……」

「大丈夫。怖がることはないさ。家族の縁に、友情や師弟の絆。恋人や夫婦の結びつき、そして新しい縁さえも。君はそのすべてから解放されるだけだからのう」

「お願い、待って!」


碧眼へきがんを光らせるアンが、理由もなく怖くて身を竦めた――その時だった。

聞こえてはいけない声が、店内に響き渡る。


「それ、どういうこと」


はっとして勢いよく振り向く。

そこに立つ露木くんの姿に、息が止まった。

彼の手首から伸びる影糸が、異様なほど濃く膨れ上がっていた。

その黒は空気に滲み、じわじわと店を侵していく。

温もりのあった空間が、冷たい異界に変わっていく。

これは何度も経験した感覚。けれど、今までで一番、はっきりと【呪い】を思わせる気配だった。


(呪いに、近づいてる……!)


露木くんが一歩踏み出すたびに、店内の緊張が増し、唾を飲み込むだけでも喉がひりつく。


「縁の糸って、この【黒い糸】のこと?」


自分の手首から伸びる影糸を見下ろす彼の瞳が、心なしか闇に呑まれているようだった。


契約のことを、聞かれてしまった。


どうしたらいいのか分からなくて、思わず横を見る。

さっきまでカウンターに腰かけていたはずの猫の姿は、もうどこにもなかった。

代わりにそこにいたのは、月光を浴びて白く輝く髪の中年の女性。

人間の姿をしたアンが、夜だというのにサングラスをかけて立っていた。


「だとしたらどうしたというんだい?」

「ちょっ、アン!」


なんで露木くんにそんなことを言うのか。

二人の間に割って入るように立ち、私は彼女を睨みつけた。

サングラスの奥で何を思っているのか、一切読み取れない。

彼女はただ、肩をすくめてみせるだけだった。

それでも露木くんは、私を押しのけてさらに前へと踏み出す。


「この縁の糸を切ったら、独りぼっちになるってどういうことですか?アンさん」


アンはゆっくりと顔を傾け、唇の端をわずかに吊り上げた。


「それは、全ての縁のことを言っているのかい?それとも、君のその【】のことかい?」


わかっているくせに。

露木くんを試すようなその言い草に、腹が立って仕方がなかった。


「じゃあ、言い方を変えますこの黒い糸を切ったら、どうなるんですか?」


それは、絶望に満ちた表情の中で、わずかな希望を見つけて縋りつこうとする眼差しだった。

かつてアンが契約を持ち出した時の、あの時の私と同じ表情。


「それは元々、美しい金色を纏う家族の縁。お主を縛る者との繋がりを断ち切る代わりに……祖父のことも、君の大事な人との記憶すらも、なかったことになるぞ?」


そう言って、彼女は私の影糸をつまみあげるように見せつける。

一瞬、露木くんの闇より深い黒い瞳が揺れた気がした。


「この子は見ての通り、すでに全ての影糸が絡みついている。もう失う縁すらないけれど……」


アンは指先で自分の唇を軽く叩き、愉快そうに目を細める。


「君には、失いたくない縁があるだろう?例えば……」


アンは指先で自分の唇を軽く叩き、彼の反応を楽しめているようにも見えた。


「そう、君に温もりをくれた祖母との縁も、なかったことになるかもしれないね」

「……っ!」


露木くんの顔から血の気が引いた。

彼を地獄の底から救い上げてくれた祖母。

その大切な日々すら、この黒い糸に絡め取られ、失われてしまうだなんて。

露木くんの肩がわずかに震え、握りしめた拳から爪が食い込むほど力が入っているのが見えた。


「そんな……」


そのつぶやきと同時に、どくん、と『ル・リアン』全体が脈打った。

地震のように床が微かに震え、光が点滅を繰り返す。

彼の影糸がじわじわと広がり、店の全てを闇へと染めていく。

その凄まじい光景に、思わず後ずさってしまう。


「どうして……」


震える声が、店内に低く響いた。


「どうしてだよ……!俺は、どうしてもあの人から逃げられないのかよ……!」


その絶望の叫びと共に、影糸が一層濃くなり、蛇のように彼の全身へと絡みつき、絞め上げていく。

黒い糸は呼吸すら奪うようにうごめき、彼を呪いへと招いていた。


「【呪い】になる一歩手前ってところかしら」


アンはまるで他人事のように、碧眼を細めるだけで彼を助けようとしない。


「ちょっと、アン!見てないで何とかしてよ!」


彼女はカウンターに腰を下ろし、まるで一本の映画でも眺めるような体勢でこう言った。


「柚葉、自分が言ったことを思い返しなさい。『神であっても縁の糸を勝手にいじれない』と」


「だからって、露木くんがあのまま【呪い】に呑まれてもいいの!?」


声が裏返るほどの叫びが、自分でも抑えられなかった。


(可笑しい)


理由はわからない。けれど、彼女にとって露木くんは特別な意味を持っていると、ずっとそう思っていた。

だから、彼女は私に何かをさせようとしているのだと、そう予測していたのに。

だけど、その推測は音を立てて崩れていく。


「私が柚葉、あなたに言えるのはただ一つだけよ」


彼女がまるで救いだというように、私へと手を伸ばす。


「契約を果たすのか、果たさないのか」


この町に来てまもない私なら今すぐその手を掴んだかもしれない。

だけど、今の私の胸の奥を締めつけるのは、底知れない恐怖だった。


「なんで……。いまそんなこと言える場合じゃないでしょ!」


それでも、露木くんを助けなきゃという衝動が、どうしようもなく私を突き動かしていた。


「どうして!!!」


その叫びと同時に、露木くんが拳で床を強く叩きつけた。

パシャン!と何かが割れるような音が響き渡り、思わず「ひっ!」と情けない悲鳴が口から漏れる。


「俺は……俺はただ……」


感情すらも支配されたように、彼は独り言のように呟き始めていた。

その声は、どこか遠くから響いてくるようでも、すぐ耳元で囁かれているようでもあり、全身に鳥肌が立つ。


「愛されたいだけなのに……」


顔を上げた彼の瞳から、大粒の涙が一滴流れ落ちた。

その煌めきが床に消えるより早く、黒い糸が鳥かごのように彼を覆い、闇の檻へと引きずり込んでいく。


「露木くん……!」


伸ばした私の声も手も届かず、彼は完全に【呪い】に囚われていった。

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