第26話 雪に沈む記憶





「じゃあ、ここで」



坂道を登りきったところにある、祖母の家の玄関前で、ずっと握っていた手を彼はそっと離した。

その手のぬくもりが離れて、少し指先がひんやりとする。


あの後、『ル・リアン』で柊を背にして、私たちは歩き出した。

その間、露木くんは何も言わなかった。

私もまた、彼に声をかけることができず、どこかに消えてしまいそうな露木くんの手をぎゅっと握りしめることしかできなかった。


私を送ってすぐにでも帰ってしまいそうだったのに、彼は俯いたまま、その場から動かない。

露木くんの靴先が雪を踏みつける音が、やけに大きく響く。

私は見上げて、彼が言葉を繋げるのを待っていた。


「今日は……ごめん。怪我させた」

「ううん。それは露木くんのせいじゃないし」

「いや、俺のせいだよ」


力なく笑う彼の横顔に、胸がきゅっと締め付けられる。


「俺が怖気づいて、動けなかったから」


驚いた。

こんなふうに、自分の弱さを私にだけ見せてくれるなんて、思わなかったから。

何をどう言えばいいのか分からなくて、視線が雪の上に落ちた。

白い地面に、二人分の足跡が並んで伸びている。

そして、視線は彼の手首に留まった。


『天才ピアニストのしゅう


露木くんの縁の糸が、【影糸】になった理由にはきっと彼が関わっているのだろう。

店での会話でなんとなくそうだと予測できた。


「俺、さ」


不意に、深く息を吐いた露木くんが、空を見上げる。


「さっきの話である程度はわかったと思うんだけど。俺、露木柊の息子で。それで、物心ついた頃から、ずっと親に放っておかれてたんだ」


『ル・リアン』で聞いた、小学一年生で十五キロしかなかったと、淡々に言いながらも胸を抉るような表情の彼を思い出し、自然と眉間に皺が寄る。


「家の中に食べ物がなくなって、もう身体も動かなくなっても、いつかは、親が帰ってくれると信じてたんだよ」


子供ってさ純粋だよな。と、寂しく笑う彼の横顔に、過去の自分がふと重なった。

胸の奥に沈んでいた痛みが、静かに波紋のように広がっていく。

その感覚を抱えたまま、私は彼の言葉の続きを待った。


「それからどれほど時間が経ったかわからないけど、意識が朦朧としていたら玄関のドアが開いたんだ。……まあ、その先に立っていたのは親ではなく、俺のばあちゃんだったけど」


言葉の端に、懐かしい温もりと切なさが入り混じっていた。


「それからばあちゃんが俺をここに連れて来てくれて、じいちゃんはあまり歓迎してなかったけど、初めて愛されるっていうことがどんなことなのか知ったんだ。温かなご飯が美味いってことも。家に帰ればだれかが「お帰り」と言ってくれる嬉しさも。俺のことを一番に考えてくれる人がいるのが、どれぐらい幸せなことかも」


祖母の話をするときの露木くんの表情から、それだけで彼女がどれほど深い愛を注いでくれたのかが伝わってきた。


「変だよな。『愛斗』と名付けてくれた親は教えてくれなかったのに」


彼は少しだけ目を細め、遠くを見つめていた。


(良かった)


心の底から、あの地獄の中で彼を救ってくれた人がいて良かったなと、そう思った。

そのおかげで、彼は今ここに立っていることができるんだから。


「もうばあちゃんは病気で亡くなっていないんだけどさ」


そう言う彼は、私が気にしすぎないようにと、無理に笑みを作っているように見えた。


「家の中は、ばあちゃんがいなくなった途端に、驚くほど静かになったよ。じいちゃんは、口下手な人だけど、その背中からなんとなく悲しさが伝わってきてさ。俺はせめて、料理や家事を頑張ろうと思った。『二人で仲良くね』っていうあの言葉を、失くさないように抱きしめながら」


私の頭に積もった雪を、彼がさりげなく払ってくれる。

その優しさに場違いだとわかっていながらも、胸の奥が小さく跳ねた。


「悠真が言ってただろ、中学の時に合唱コンクールで伴奏を頼まれたって。あの人の血が流れてるせいなのか、音を聞くだけで、どう指を動かせばいいのか頭に浮かんでくるんだ。だから、たまに音楽室で弾いてたんだけど……それを誰かに見られたみたいで。結局そのことがじいちゃんの耳に入って、ひどく怒鳴られた。『あの人みたいになるな。絶対になるな』って」


苦く笑って、視線を落とす。


「その時、もう二度とピアノは弾かないって誓った」


はぁ、と重い息を吐き出し、少し間を置いてから続ける。


「でも、血は隠せないのかな……弾かないと決めても、できなかった。そう思えば思うほど」


悔しさを噛み殺すように、両手をぐっと握りしめた。


「そんな時に出逢ったのが、気づけば町の片隅にできていた『ル・リアン』のアンさんだった」

「アン?『ル・リアン』は前からあそこにあったんじゃないの?」


思わず問い返してしまった。

あの店ができて、まだ日が浅いなんて考えたこともなかった。

古びた外観に騙されて、ずっと前からそこにあるものだと思い込んでいた。


「違うよ。少なくても俺がこの町に来た時にはなかった」


彼はそう言って、一度まぶたを伏せた。


「店の奥のサンルームにピアノがあって、初めて見た時は、なんでこんな所にって思ったんだ。そしたら急に現れたアンさんが、『ちょっと弾いてみるかい?』って」


彼は遠い記憶を探るような眼差しで、ぽつりと続けた。


「最初は戸惑ったんだ。こんな田舎には似合わない……ちょっと変わった人だったから。それなのに、気づけば指が勝手に動いてた。弾かないって決めてたはずなのに」


吐息とともにこぼれた声は、どこか苦く、やるせない響きを帯びていた。


「なんでアンさんが、そんな事を言ったのか分からなかったけど、でも、あの時の俺は救われたと思ってた。あの店は、俺がピアノを弾ける、たった一つの場所だったから」


彼の言葉が、冬の冷たい空気に静かに滲んでいく。

短い沈黙のあと、白い息がふわりと揺れ、ゆっくりと空へ消えていった。

その横顔を見ているうちに、私の胸の奥にも静かな波紋が広がっていった。

私にとっての『ル・リアン』もまた、絡まりきった縁の糸を切り離せる、たった一つの救いの場所だったから。


「それからは、小谷野さんが知っているように、あの店に通うようになった」


言葉を終えた露木くんの目が、どこかを捉える。

その先にあるのは、雪の向こうにぼんやりと浮かぶ『ル・リアン』の方角だった。


「……なんで、今さら現れたんだろうな」


彼の疑問は、雪の中に吸い込まれるように消えていった。

私は答えを返せずに、横顔をただ追い続ける。

なぜか、私の心までざわついてしまう。


(アンは、その瞬間、まるで導かれるように、露木くんの前に現れることができたんだろうか)


静けさの中で、その答えはまだ声にならず、喉の奥で揺れたまま消えていった。


「なんか、ごめんな。変なことばっかり話して」


不意に口を開いた露木くんは、俯きがちに笑った。


「どうしてだろうな。小谷野さんには、気づけば口から出てるんだ。……全部、俺の秘密を知られちゃったからかな」


照れ隠しのようなその笑みに、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。


「それじゃあ、本当に帰るから」


そう言って踵を返した彼の背中が離れて行く。

雪の上に足跡を残しながら一人歩く姿に、なぜか焦る気持ちで彼を呼び止めてしまった。


「あの……!露木くん……!」


振り向いた彼は、驚いたように瞬きをした。

吐く息が白く揺れて、その向こうの瞳がこちらを射抜く。

彼の傷は、私には想像もつかないものなのだろう。


(なんて伝えたら、露木くんの心に届くのかな)


それでも、何も言わずに見送ることだけはしたくなかった。


「私、誰にも言わないから」


露木くんが両目を開き、その瞳が揺れる。

続いて、ふ、と小さく笑った。


「知ってるよ。小谷野さんがそんな人じゃないことぐらい」


視線を逸らさずに、静かに言葉を重ねた。


「ちゃんと分かってる」


その声は、雪に吸い込まれるみたいに静かで、胸の奥まで温かく沁みていった。

それじゃあ、と彼は背を向けた。銀色の世界に消えていくまで、私はその場から動けなかった。




けれど、私が黙っていたところで、この町に露木終が来たという噂は、すぐに広がっていった。




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