第20話 進路の悩み





「……え?」

「……あ?」


と、二人の声がかぶった。

目の前に立っていたのは、紺色の作務衣さむえを着た、頬にまだ痛々しい痣の残る後藤くんだった。

思いがけない登場に、私は思わず一歩後ずさる。

ぎこちなく顔を上げたその先にあったのは、古びた木の看板に書かれた『風見庵』の文字だった。


(やっぱり、間違ってない)


いつものように『le lien ル・リアン』へ向かうと、猫の姿をしたアンが、前夜のことなどまるで気にする様子もなく、しれっと日向ぼっこをしていた。

私が何か言おうと口を開くよりも早く、彼女は「風見庵でわらび餅を買ってこい」と、当然のように言い放つ。

いつもの調子の命令に、「なんで私が」と小さな抵抗のつもりで返してみたけれど、アンはぴたりと動きを止め、気だるげに片方の前足をゆっくりと持ち上げた。

ふわふわとした、どこから見ても可愛らしいピンクの肉球。

しかしその先から、シャキン、と音がしそうなほど鋭い爪がにゅっと現れる。


「つべこべ言わず行ってこい。」


神様が脅しって、聞いたことない。

そう腹を立てながら向かった先で、私はまさかの光景を目にすることになる。


暖簾のれんをくぐって中へ戻ると、ふわりと甘い香りが鼻腔を擽る。

木の温もりに包まれた静かな空間には、季節の花が控えめに飾られ、年季の入った棚には和菓子が整然と並んでいた。

ガラスケースの中には、艶やかで繊細な練り切りや、名物らしきわらび餅の姿もある。

そんな上品な空間の中央に、けだるげな目元で立つ後藤くんの姿があった。

暗いブラウン系のくせ毛がマッシュ気味に落ち、不機嫌そうなその目元と、紺色の作務衣がなぜかちぐはぐに映る。

まるで、家の雰囲気にはどう見ても馴染まない、暴れん坊の当主みたいで、気づけば、私は彼から目を離せなくなっていた。


「なに、二度見しに戻ったんだよ。バカ出しすぎだろ」

「……あ、ごめん。まさかここに後藤くんがいると思ってなくて……。バイト?」


私の質問に、何が気に障ったのか、彼はチッと舌打ちした。


「バイトじゃねー。……実家の手伝いだ」


そう言って、ガラスケースの方へ視線を投げるその横顔には、いつもと同じ不機嫌そうな影が落ちていた。


(実家?ここが?)


思わず、心の中でつぶやく。

教室ではいつも無愛想で、人との距離を詰めようとしない、あの後藤くんが和菓子屋の息子なんて、なんだかちょっと意外だった。


「お前……今、意外だって思っただろ」


不意に向けられた声に、びくりと肩が跳ねる。

まさか、心の中を読まれたみたいで、思わず目を逸らした。


「で、何買いに来たんだよ」

「えっと……わらび餅を買いに……」

「は?もっと大きな声で言えよ」

「っ!わ、わらび餅を!ください!」


自分でも驚くほどの大声が出てしまい、思わず視線を泳がせる。

けれど後藤くんは、呆れたように小さく鼻で笑うだけで、すぐにガラスケースの前にしゃがみ込んだ。


「何個?」

「えっと、三つくらい?」


一つは、いつもお世話になっているおばあちゃんへのお土産にしよう。そんなことを思いながら答えると、

後藤くんは無言で頷き、ガラスケースの中に手を伸ばした。

その慣れた動きと、伏せた目元の横顔を、私は黙って見つめていた。


――やっぱり、私はこの人のことがちょっと苦手だ。


井上さんとはまた違って、人が傷つくって分かっていても、誰にでも容赦なく毒舌で、その言葉がどう受け取られるかなんて、気にしているようには見えない。

そういうところが怖くて、近づき難いと思ってしまう。

でも、その反面、すごいなって思う自分もいた。


そして、アン。


「あそこのわらび餅が絶品なのだ」なんて、もっともらしいことを言っていたけれど、私をここに来させた理由は、それだけじゃない気がする。

彼女は、私に彼の【縁の糸】に触れさせようとしているんじゃないか。

そんな予感が、胸の奥でじわりと広がっていく。

アンの意図について考え込んでいたところに、突然、後藤くんの声が飛んできた。


「……お前さ、進路調査のやつ、もう書いたかよ」


不意にかけられた後藤くんの声に、私は思わず目を瞬かせた。


「え……?」


頭が追いつかずに聞き返すと、彼は「は?」と眉をひそめる。


「書いたかって聞いてんだよ」

「あ、まだ……」


鞄の奥に、白紙のまましまい込んだ用紙が頭に浮かぶ。

けれど、自分から話を振ったわりには、後藤くんは「ふーん」とだけ言って、それきり。

関心がないなら、なんでそんなこと聞いたんだろう。

拍子抜けして、思わず、今度は私の方が問い返していた。


「後藤くんは? 書いたの?」

「……」


その沈黙が、彼の答えだとすぐに分かった。

けれど私は、そんな彼の方が、むしろ露木くんよりもずっと意外に思えてしまった。


「意外だね。後藤くんなら、ゲーム系の専門に行くのかなって思ってた」


彼の目が、わずかに見開かれた。

次の瞬間、手にしていた箱が、ふわりと宙を舞って床に落ちた。


「——あっ!」


私は思わず手を伸ばしたけれど、当然受け止めることができず、箱は軽い音を立てて床に着地する。

幸い、中身はまだ詰められていなかったようで、私はほっと息をついた。

落ちた箱を、彼はしばらく黙って見つめていた。

その様子からは、いつもの後藤くんらしからぬ、かすかな動揺が伝わってきた。


「……なんで、そう思ったんだよ」


低く抑えたような声が、どこか震えている気がした。

私は何かまずいことを言ってしまったのかと戸惑いながらも、教室での彼の姿を思い出す。


「お店を継ぐって決めてるなら、進路でそんなに悩まないんじゃないかなって……。それに、普段からゲームしてるし、露木くんと話してるときの後藤くん、すごく楽しそうに見えたから」


クラスの誰に言っても、「ああ、そうだよね」って納得するだろう。

だけど、彼の反応は思っていたのと違って、私は少しうろたえてしまった。

そして、彼はぽつりと、小さく呟く。


「会ったばっかりのやつもわかるのに、なんで……」


聞き間違いかと思うほどのかすれた声に、思わず「え?」と聞き返してしまった。

けれど、彼はそれ以上何も言わず、新しい箱にわらび餅を静かに詰めていく。

そして、それをそっと私に差し出してきた。

何か間違ったことを言ってしまったのか、不安になりながら代金を手渡す。

彼は何も言わずにそれを受け取り、静かにレジへと収めた。


「……ありがとう」


そう口にした私に、彼はちらりと視線を寄こす。


「もうすぐ暗くなるから、早く帰れ」


とだけ言って、すぐに視線をそらし、まるでいきなり突き放すように、背を向けた。

けれど私は、その背中をもう一度だけ見つめてから、風見庵を後にした。


店を出ると、冷たい風が頬を撫で、ぶるりと身体が震える。


『会ったばっかりのやつもわかるのに、なんで……』


さっきの後藤くんの言葉。

いや、言葉にならなかったあの小さな呟きが、頭の片隅で繰り返されていた。

あれは、どういう意味だったのだろう。

そして、それは誰に向けられた言葉だったのか。

あの言葉は、きっとアンが私をこの場所へ導いた理由と、どこかでつながっている気がした。


見上げた空は、すっかり茜色に染まっていた。

白く染まった自分の吐息が、ふわりと空へ昇っていく。

ついこのあいだまで紅く色づいていた並木道の枝には、もう一枚の葉も残っていない。

もうすぐ、この街は本格的な冬に包まれるのだろう。


私は腕の中の包みを抱え直し、足元を見つめながら、歩き出す。

彼が、近いうちに『ル・リアン』を訪れるかもしれない。

そんな思いが、歩くたびに胸の奥で小さく揺れ続けていた。




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