【第五部 残香】 第三十章 においだけが残った

 誰も、何も言わなかった。


 朝のホームルームは静まり返っていた。

 窓の外には風が吹いていたが、その音さえも、教室の中には届かなかった。


 ユイは、来なかった。


 誰も彼女の名を口にしなかった。

 席はあった。

 机も椅子も、そのままにあった。

 ただ、彼女という存在だけが、まるごと抜け落ちていた。


 僕の腹は、静かだった。

 震えも、詰まりも、何もない。

 けれど、その空白に宿る感覚だけは、確かに残っていた。


 僕はノートを開いた。

 鉛筆を手に取り、そこに何かを書こうとした。

 けれど、手は動かなかった。


 言葉が、出なかった。


 すでに、においになっていたのだ。


 ユイが残したもの。

 僕が出しかけて出せなかったもの。

 あの日、あの儀式、あの夢。


 すべてが、言葉にはなりきらないかたちで、この教室に漂っていた。


 休み時間、僕は廊下に出た。

 誰も話さず、誰も目を合わせなかった。

 壁に貼られた掲示物の端が、風もないのにかすかに揺れていた。

 その揺れが、まるで“においの残響”のように感じられた。


 校舎のすべてが、少しずつ、においの膜に包まれていた。

 それは腐臭ではなかった。

 もっと透明で、もっと深く、呼吸するたびに肺に染みこむような、名もなき気配だった。


 放課後、僕はノートを閉じた。

 何も書かれていないそのページに、うっすらとにおいの跡が残っていた。


 誰かが、そこに触れれば、きっと気づくだろう。


 言葉は残らなかった。

 姿も記録も、もうどこにもない。


 けれど、においだけが、


 ここに残っていた。


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