【第一部 記録】 第四章 存在しない便意
ユイが戻ってきてから、教室の空気はまた沈黙を取り戻した。
その沈黙は、静かというより“凍っている”と表現した方が近い。
息を飲むような。音を立てたら何かが壊れてしまいそうな緊張。
教室の中の誰もが、それを肌で感じ取っていた。
僕もまた、その空気に飲まれかけていた。
鉛筆の芯が折れる音が、耳の奥に残る。
プリントを配る音が、紙ではなく金属を擦るような不快さを持つ。
でも、そんな中で僕の腹だけが、時折小さく鳴いた。
ぐぅ……。
音は小さく、誰にも聞かれなかったかもしれない。
だけど僕の中では、その一音が世界の重心をわずかにずらしたように思えた。
トイレは、依然として封鎖されたままだった。
学校の生徒たちは、それを当たり前のこととして受け入れていた。
「人間なら出さないのが普通だ」
「訓練すれば、便意なんて制御できる」
そんな言葉が、口々にささやかれていた。
でも僕は、訓練なんてした覚えもないし、したくもなかった。
ただ、腹が鳴ることに――意味を感じていた。
その日、僕は放課後の図書室に一人でいた。
窓際の席。夕陽が本の背を照らしていた。
誰もいない、音のない空間。
ノートを開き、ペンを走らせる。
「今日、昼前に腹が鳴った。
小さな音だったけど、確かに鳴った。
誰にも聞かれなかったけれど、それはたしかに、僕の“存在”だった。」
「出したかった。けれど、出せなかった。
トイレは閉じられ、身体はこわばり、肛門は拒んだ。」
「じゃあ、僕は本当に“存在している”と言えるんだろうか?」
ノートに書くことで、少しだけ楽になる。
まるでそれが、排泄の代替行為のように思える瞬間さえある。
けれど、その日は違った。
ページをめくったとき、僕は異変に気づいた。
文字の隅に、見覚えのない筆跡があった。
最初は自分の書き間違いかと思った。
けれど、明らかに字のかたちが違う。
「君の腹の音、きれいだったよ」
それだけが、細いペンで書き加えられていた。
背筋が凍るような感覚が走った。
誰が? いつ? どこから見ていた?
僕はノートを閉じ、深く呼吸をした。
けれど、どこかで――ほんの少しだけ、嬉しくもあった。
誰かが“聴いていた”ということ。
誰かが、自分の“出せなかった感覚”に触れてくれたということ。
次の日。ユイはやはり、教室にいた。
彼女のまわりだけ、音が止まっていた。
椅子の軋みも、咳払いも、全てが無音に飲まれていく。
でも、僕は昨日の腹の音を、まだ忘れられなかった。
あの一音が、僕をここに留めてくれている気がした。
放課後、靴を履こうとしたとき、誰かが横に立っていた。
ユイだった。
僕は思わず言葉を詰まらせたが、彼女はただじっと見ていた。
その目に、感情はなかった。ただ、何かを“確かめるような”光があった。
「昨日、ノートに書いてたね」
「……え?」
声が出た。
「“鳴った”って。……聞こえてたよ。わたしには」
彼女は微笑んだ。
でもその笑顔は、どこか乾いていた。
「わたしにはもう、鳴らないから。
うらやましいなって、思ったの」
僕は何も言えなかった。
彼女はそれ以上何も言わず、ゆっくりと歩き去っていった。
その背中を見ながら、僕はふと、思った。
――彼女は、“うらやましい”なんて本当に思っていたのだろうか?
それとも、それすらも“鳴らない”彼女の、ただの模倣だったのだろうか。
その夜。ノートを開く。
新しいページに、また文字が浮かんでいた。
「出したいなら、出していいんだよ。
でも、君が“出せる側”にいたことを忘れないで。」
「わたしたちには、匂いが必要だから。」
僕はペンを取った。
「匂いを……残すために、生きていたい。」
その言葉を記した瞬間、腹の奥で、また小さな音が鳴った。
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