第2話騎士、影をまといて
馬車の揺れが、眠気のような静けさをソフィアにもたらしていた。
窓の外を流れていく風景は、ファルヴァードの美しい丘陵。
それは、彼女の愛した国であり、そして――彼と過ごした国。
(……アリオス)
名を思い浮かべただけで、胸が締めつけられる。
彼の姿が、表情が、ぬくもりが、脳裏に浮かんで離れなかった。
そして、ふと記憶の扉が開く――
それは、まだふたりが10歳にも満たなかった頃。
王城の裏庭、小さな花園にて。
「ソフィア様、はいっ、これ!」
少年アリオスは、手に摘んだばかりの小さな白い花を差し出した。
無造作に束ねられたその花は、形こそ整っていないが、どこか温かみがあった。
「まぁ……これは?」
「“幸せを運ぶ花”って、乳母が言ってたんだ。姫様には、たくさん幸せが来てほしいから!」
アリオスは誇らしげに胸を張って笑っていた。
ソフィアはその姿に微笑み、花を大切に胸元に抱えた。
「ありがとう、アリオス。でも“姫様”じゃなくて、ソフィアって呼んで?」
「えっ? でも、それは……」
「わたし、あなたの前では“ただのソフィア”でいたいの。お姫様じゃなくて、友達として」
少年は一瞬戸惑ったが、やがて赤くなった頬をかくようにして頷いた。
「……わかったよ、ソフィア」
その日から、ふたりは“友達”になった。
王女と騎士見習い。
決して交わることのないはずの身分の差を越えて――
ふたりの絆は、確かにその日から育まれていった。
「……あの時の花、今も押し花にして持っているのよ」
ソフィアはそっと胸元に手を当てた。
衣の下には、小さな袋。そこに忍ばせた押し花は、色褪せてはいたが、形はそのままだった。
(どうして……あなたの隣に、ずっといられると信じていたのに)
頬を一筋、涙が伝う。
「アリオス……あの時の約束、私、まだ覚えてる。あなたが“私のことは絶対に守る”って言ってくれたあの日……」
思い出が胸を締め付ける。
けれど同時に、どこかで微かな希望が心に灯った。
(あなたなら、きっと……)
ソフィアはそっと目を閉じ、震える指で押し花の袋を握りしめた。
馬車はバルカン国へ向けて、静かに国境を越えていった。
月は高く、雲の合間から冷たい光を城に落としていた。
ファルヴァード王国の騎士団本部、その裏手にある古びた石倉庫に、甲冑の鈍い音が小さく響いていた。
アリオス・グレイハルトは、静かに剣を鞘へ収めた。
その眼は、まっすぐに東――バルカン国のある方角を見つめていた。
「……覚悟は決まった」
すでに彼の決意は固まっていた。
国の命に背き、騎士団長としての地位も、栄誉もすべて投げ打つことになる。
それでも構わない。ソフィアが他国の王子のものになる――それだけは、どうしても耐えられなかった。
机の上には、数枚の地図と手紙。
その中に、バルカン国の貴族が密かに仕掛けた「政略の裏」の情報もあった。
「王子との結婚は、単なる“和平の象徴”ではない……。ファルヴァードを事実上、吸収するためのものだと……」
アリオスは手紙を丸め、火にくべた。
「それならなおさらだ。俺の剣は、国に仕えるものではない。――彼女に仕えるためにある」
夜の城壁を抜けるには、並の兵士では無理だ。
だが、アリオスは一騎士であると同時に、かつて王家直属の諜報任務にも従事していた経験があった。
影に紛れて走り抜ける彼の動きに、気づく者は誰もいなかった。
「馬は南門に隠してある。そこから山を越えて、国境の森を抜ける……」
アリオスは、愛馬「カルマ」のもとへと急いだ。
夜闇にたたずむ黒毛の馬は、彼の気配を感じて静かに鼻を鳴らした。
「行こう、カルマ。俺たちの旅はここから始まる」
彼は馬に飛び乗り、ひと息に手綱を引いた。
蹄の音が、暗い森の奥へと消えていく――
ファルヴァードとバルカンの間には、《黒嶺山脈》と呼ばれる険しい山々が連なっていた。
かつて竜が棲んでいたというその山脈には、魔物も出没し、ほとんど人の往来はない。
だが、アリオスはあえてそこを通る道を選んだ。
兵に追われる可能性、バルカン国側に通報される危険を避けるためには、隠密な山越えしかなかった。
雪解けの水が流れる渓谷を越え、鋭い岩肌を登る。
夜には冷え込み、時折魔物の咆哮が遠くから聞こえた。
それでも、彼は一歩も引かなかった。
(待っていてくれ、ソフィア。俺は必ず、君を迎えに行く)
疲れた体を鼓舞しながら、アリオスはただ一人、東へ――バルカン国へと向かって進み続けた。
その旅の先に、血と陰謀と、そして運命を変える戦いが待ち受けていることを、彼はまだ知らない。
《黒嶺山脈》――風が唸りを上げるその山道は、昼間ですら陽が届かぬほどに鬱蒼としていた。
雪解け水が染み出し、岩肌は滑りやすく、足を取られる危険もある。
アリオスは慎重に足を進めていた。愛馬カルマは一時ふもとの森に残し、今は単身、急峻な山道を踏破している。剣を背に、手には松明。時折、冷たい風がその炎を揺らす。
ふと――鼻をつく、血と硫黄のような臭気。
「……これは、魔物か」
直後、茂みの奥で枝が折れる音がした。
アリオスは即座に松明を投げ捨て、背中の剣――《ライナストル》を抜いた。刃に刻まれた銀のルーン文字が月明かりを反射する。
ゴォォォォオオ――!
低く、地鳴りのような咆哮。
次の瞬間、茂みから飛び出してきたのは、黒い毛皮に覆われた巨大な獣――《バルグ・レンド》。山中に巣食う魔物の中でも、上位に分類される強獣だった。
二本足で立ち上がると、身の丈はアリオスの倍以上。赤い目がギラリと光り、口元からは粘ついた唾液と鋭い牙が覗く。
「来い――!」
アリオスは間合いを計るように後退しつつ、重心を低く構えた。
魔物が吠えると同時に、岩を砕く勢いで突進してくる。
ドン――!
衝撃波のような衝突。だが、アリオスは寸前で横へ跳び、地を転がって体勢を立て直す。
「動きは速いが、単調だ。狙える……!」
魔物が振り返るよりも早く、アリオスは地を蹴り、一気に距離を詰めた。
剣が弧を描き、獣の脇腹を斬り裂く。
ザシュッ――!
しかし、刃は深く入らない。毛皮の下には硬質化した魔力の皮膜――《黒鋼皮》があった。
「クソッ、浅い……!」
振り向きざまに放たれた爪がアリオスの肩を掠める。血が飛び、岩に赤が散る。
だが、アリオスの動きは止まらない。剣を逆手に構え、左手で懐から小さな符を取り出す。
「〈閃光符〉――!」
パンッ――!
眩い閃光が闇を切り裂き、魔物の目を焼いた。
一瞬の隙――それがあれば十分。
「終わりだッ!!」
アリオスは跳躍と同時に魔物の背中に乗り上げ、剣を逆手から持ち替えて、首の付け根めがけて真下に突き立てる――!
ズガァッ!!
刃が魔物の肉を裂き、ルーン文字が光る。
《ライナストル》は魔封剣――魔力を吸収し、敵の力を断つ性質を持つ。
魔物の咆哮が、やがて呻きに変わり、そして静寂が訪れた。
アリオスは血に染まった剣を岩に突き立て、息を荒げながら膝をついた。
「……ふぅ。まだ、こんなところで終わるわけには……いかない」
傷は浅くない。だが、進むしかない。
その先に、ソフィアがいる。
風が吹く。
冷たい山の空気の中、アリオスの心はただ一人のために燃えていた。
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