華麗な復讐なんて
ハル
前編
妻の
趣味もガーデニングで、我が家の庭には年中花が絶えなかった。春はチューリップやアネモネやポピー、夏はアジサイやヒマワリやユリ、秋はコスモスやダリアや秋薔薇、冬はパンジーやビオラやシクラメン――。
俺自身は特に植物が好きだったわけではないが、庭で美しい花が咲き誇っていたり、妻が浮き浮きと植物の世話をしていたりするのを見れば悪い気はしない。俺たちには子どもができなかったから、咲乃に没頭できる趣味があるのはなおさら好ましいことだと思っていた。虫がよく出るのには少々閉口したが、咲乃がいるときは外に逃がしてもらえばよく、俺しかいないときは殺せばよいだけのことではあった。――咲乃を呼ぶのが面倒で、彼女がいてもこっそり殺してしまうこともあったが。
俺たちはこのまま穏やかに年を重ねていくのだろう、俺たちの人生にはもう大きな出来事など起こらないのだろう――無意識のうちにそう思っていた。
その予想は、ある日手
大学を卒業してから約三十年勤めてきた会社が倒産し、俺は五十を過ぎて就職活動に奔走するはめになった。三ヶ月後に何とか就職先は見つかったが、誰もが知る大企業だった前の会社に対し、そこは中小企業の小のほうで、給料も前の会社の半分程度。同じ業種なので一から仕事を覚えなければならないわけではないものの、覚えることが山積みであることに変わりはない。おまけに、上司の安田は横柄な男でしょっちゅういやみを言ってくるし、同僚や部下もなかなか打ちとけてくれない。
俺のストレスはたまる一方で、やがて俺は咲乃に八つ当たりすることで、それを少しでも解消しようとするようになった。
「何だよこの味噌汁、味薄すぎるだろ」
「テレビ台の裏、たまには掃除しろよ」
「このシャツ、ちゃんとアイロンかけた?」
「友達と旅行? そんな金どこにあるんだ」
料理にも掃除にも洗濯にもいちゃもんをつけ、友達と出かけることも簡単には許さない。
「ご、ごめんなさい……」
咲乃はいつも小さくなって謝るのだが、その姿は俺のイライラを募らせるばかりだった。さすがにあとで申し訳なくなり、咲乃の部屋のドアに向かって「……ごめんよ」とつぶやいたりもするのだが、翌日仕事をしているうちにそんな殊勝な気持ちは消えてしまう。俺は三十年積み重ねてきたものを失ったのに、新しい職場でこんなに苦労しているのに、咲乃はパートの日数と時間数を増やしたくらいで、いままでどおり家事と植物の世話をしているのだ、理不尽じゃないかと思ってしまうのだ。
俺に失望したぶん植物に望みをかけるように、咲乃はますますガーデニングに打ちこむようになり、庭はますます美しくなった。だが、俺はもう花に心和まされることはなく、むしろ花に生気を吸い取られているような気がして、怒りとかすかな恐怖を感じた。
ある日、職場の給湯室に入ろうとした俺は、
「うっわ~、キモっ、マジありえない!」
部下の星野の声を聞き、思わず壁の陰に隠れた。
「や、やっぱりそう思う……? 昨日もね、『あっ、今日はスカートなんだ。萩原さんはパンツよりスカートのほうが似合うね』って……」
答えたのは星野の同僚の萩原だ。そして、その台詞を口にしたのは他でもない俺である。
「キモっ、キモっ、キモっ! 満場一致でセクハラだよそれ!? しかも『パンツ』って何『パンツ』って! あいつの口からパンツって言葉が出るって考えただけで鳥肌立つって!」
星野が二の腕をごしごしこすっている姿が目に見えるようだ。
堂々と入っていって二人を睨みつけ、悠然とコーヒーを淹れられたらどんなによかっただろう。だが実際には、俺は息と足音を殺して自席に戻ることしかできなかった。そんな自分が情けなくてたまらず、二言目にはセクハラセクハラとうるさい星野たちに腹が立ってならず、一日中仕事が手につかなかった。そのせいでまた、安田に言葉の棘でちくちく刺される。
家に帰ると、咲乃が不安そうな顔で食材を切っていた。
「おい、まだ夕飯できてないのか?」
「ご、ごめんなさい……。テッポウユリが病気になっちゃって、薬を買ってきて撒いてて……」
咎めると、咲乃はおどおどと答えた。もともと鼻くらいの高さまで上っていた血が、たちまち頭のてっぺんまで上る。
「旦那の夕飯より花のほうが大事なのかよ! 花は動きもしゃべりもしないけど、俺は汗水流して働いて金を稼いでるんだぞ!」
俺は電話台の上のハサミを引っつかみ、掃き出し窓を開けて庭に飛び出した。
「
驚愕と恐怖が混じった咲乃の声にも耳を貸さない。
俺はヒマワリやユリやトケイソウの茎を切り、ゼラニウムやノウゼンカズラやハイビスカスの花を引きちぎり、ニチニチソウやペチュニアやマリーゴールドを踏み
「やめて、やめて、やめてぇぇぇっっっ!!!」
後ろからしがみついてくる咲乃を引き剥がし、地面に叩きつけて蹴りつける。それでもなお咲乃はスラックスの裾をつかんできたが、顔の前の地面にハサミを突き立てると、「ひっ……!」と息を呑んで手を離した。
咲乃の啜り泣きが響くなか、彼女が二十年近く丹精こめて作ってきた庭を、手塩にかけて育ててきた植物を、俺は巨大台風もたじろぐくらい滅茶苦茶に荒らした。
このときの俺は、本当に、どうかしていたのだ。
魔が差したのだ。
だがその魔も、結局――俺の中にひそんでいたものだったのだろう。
***
翌朝目を覚ました俺は、さすがに咲乃に謝ろうと思いながらダイニングへ向かった。
だがダイニングにもキッチンにも咲乃の姿はなく、テーブルにも朝食はのっていない。巨大な動物の足音のような心音が響き、嵐の夜の森のように胸がざわついた。
それでも、きっとトイレだと自分に言い聞かせ、トイレに行くには開けなければならないドアを見た。そのとたん、不吉な予感が最大限に高まる。
ドアに嵌まったすりガラスから、八十センチくらいの高さの影が見えるのだ。
恐る恐るドアに近づいていって引いたが、重くてなかなか開かない。重いって、いったいどうして重いんだ。いったい何が重いんだ。
渾身の力をこめてドアを引っ張ると、ようやく三分の一くらい開いた。
覗いたのは、咲乃の変わり果てた顔。
目は血走り、全体は赤黒く、唇は青紫に変色した顔。
――咲乃は、ドアノブにかけたビニール紐で首を吊っていたのだ。
「うわあああああああああああああああっっっ!!!」
どこかで誰かが絶叫している。その声が自分の喉からほとばしっているものだということすら、そのときの俺にはわからなかった。
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