第4話 同胞に似た輩の乞い方

 昼休みと六限終了後の職員室は舞台が跳ねた後の楽屋に似ている、と猪塚未果はいつも思う。一日の大半を美術準備室で過ごしているが、昼休みと帰りのSHRの前には必ず職員室に立ち寄り、この雰囲気の中に身を置くのが彼女の密かな楽しみだった。

 昼食のサンドイッチを食べながら、教職員用の校内ネットワークに新しい連絡事項が入ってないかを確認していると、隣の席の国語教員が声をかけてきた。

「猪塚先生、尊と狼貴なんですけど今日はどうでしたか?」

「相変わらず。なんていうか……生さぬ仲って感じね」

 そうですか……と国語教師はがっくりと肩を落とした。あなたのせいではないわよ、と付け加えておく。

「多分、二人にしか分からないことだと思うから。解決できるのも当人たちだけなんでしょうね」

 ですね、と国語教員は渋い顔になる。

――尊が腹痛を理由に授業を抜け出したんです。狼貴が授業を抜けられるように芝居を打ったんだと思って、狼貴に迎えに行かせたんですが、戻ってきた二人の様子がおかしいんです――

先週の月曜日のことだった。五限の授業が終わった後、この国語教員はそう報告してきた。

――二人とも顔色が悪くて緊張しているみたいで。何だかお互いを警戒しているみたいで……あんなに仲良しだったのに急に変わっちゃって――

 私の授業のやり方が悪かったんでしょうか、とおろおろする姿に彼女のほうが心配になってしまったくらいだった。担任の私もよく見ておくから、と落ち着かせて、その件を預かることにした。

そして、帰りのSHRで見た二人は報告の通りだった。平静を装いつつ装いきれず、互いが互いの一挙手一投足を見逃すまいと張り詰める二人は、まるで他流試合でもする人のように……という『こころ』の一節そのものに見えた。それからもう十日ほど経つのに改善する兆しすら無い。

「狼貴と尊ですかぁ?」

 不意に、向い側の机から太い声が降ってきた。猪塚と国語教員は同時に顔を向ける。声の主は数学教員――がっしりした体格の中年男性なので体育教員とよく間違われている――だった。

「何か心当たりあります?」

「いやぁ、何にも。ただ、一年生の頃は僕が担任でした。なんつーか、二卵性の双子みたいなアイツらも揉めるんだなって」

 入学式どころか受験相談会の時からずっと一緒でオリエンテーションも国会見学もいつもニコイチだったから、と言ってガハハと笑う姿に、わかりきったことを、と猪塚と国語教員は小さく溜息を吐いた。

「まぁ猪塚先生は芸術系クラスの担任歴も長いベテランですから大丈夫でしょうが……尊はともかく、狼貴は仲直りができないとマズいでしょうな。進路決定どころか卒業も危なっかしいな」

 二人の呆れを察した数学教員が慌てたように付け加えた言葉に、猪塚は頷いた。数学教員はさらに続ける。

「一年生の頃から『画家になりたい』しか言ってなくて不得意科目は徹底的にサボってましたからね。芸術系志望のヤツにはありがちですけど、狼貴はちょっと極端だから。正直、一年の二学期で中退するかなって僕は思ってました」

 数学教員の話は何も間違っていないどころか、狼貴に関わった教員の共通認識だった。むら気で、興味のあることや得意なことしかしない、成績も上下の差が大きすぎる……中退してしまうだろう、という大方の予想をひっくり返しているのは、やはり。

「尊くんがいるから通っているんでしょうね。中退しちゃったら昼間会えないから」

 いつの間にか弁当箱を広げていた国語教員が、タコ型ウィンナーを頬張りながら言った。猪塚もサンドイッチを齧りながら同意する。

「尊くんと美術の授業と美術部、それがあの子が通学するモチベーションでしょうね……お母様が生きていればまた違うのかもしれませんけど」

 しん……と沈黙が降ってくる。ここでふざけない同僚をこそ、猪塚は信頼できると思う。狼貴が母親を亡くしたこと、父親も既に亡くなっていること、それらが高校生には重すぎることを真摯に理解していれば、慎重にならざるを得ないだろう。

「尊くんの様子はどうです?」

 数学教員の横で、様子を伺うようにしていた音楽教員――ブラスバンド部の顧問でもある男性教員――に猪塚は水を向けた。音楽教員はうんうんと頷きつつ、白い髪を掻き上げて言った。

「尊くんは……まぁうん最近は……身が入ってませんね。パート長なんでもう少し頑張ってほしいんですがね……音感はいいし演奏も上手いんだけど……何ていうか、こう覇気に乏しいというか……いつもそんな子でねえ」

 そうか、親友くんと何かあったのか……とまた一人頷く姿に三人は、先生もいつも通りですね、と目配せしあった。会話というより独り言を聞かせるような話し方は、この音楽教員の癖だった。

「そもそも芸術系クラスに入れたのも親友くんのお陰なのにねえ……喧嘩なんかできそうもない子だけど……珍しいなぁ……」

「親友のお陰って狼貴が何かしたんですか?」

「あら? ご存知ない?」

 怪訝な顔で問う数学教員に、猪塚は有名な話だと思ったけど、と首を傾げた。国語教員も興味深げな視線なので思ったより知られていないのかもしれない。

「尊くんの家は家具屋で……一人息子だし、お父さんが起こした店だから跡継ぎにしたくて……芸術系クラスの選択にお父さん大反対でねえ……私もちょっと話したけど『音楽で食べていける人は少ないでしょう』って聞かなくてね……残念だと思っていたらね……」

「狼貴くんが尊くんの家に乗り込んでお父さんを説得したんですよ。とりあえず二年生は芸術系クラスで頑張って、全国大会のメンバーに入ったり、コンクールで受賞できたりしたら三年生でも芸術系で音大へ、駄目だったら進路変更って」

 音楽教員の終わりの見えない話しぶりに、猪塚は続きを引き取った。数学教員も国語教員も、ジリジリしていたのかホッとしたような顔になった。音楽教員もこういう展開に慣れているのか、うんうんと頷くだけだった。

「へぇえ意外だな。狼貴にそんな情に厚いところがあったなんて」

「よく大人を説得できましたねぇ」

 自分のことしか頭に無さそうなのに、と数学教員が言うと国語教員は、弁が立つんですねぇ、と別々の方向からの驚きを口にした。何にせよ二人とも狼貴という生徒の特徴をよく掴んでいるな、と猪塚はちょっと笑ってしまう。

「仲直りできないと……尊くんも危ういかなぁ……人に流されやすいから……受験まで頑張りきれないかも……あの強烈な親友くんが引っ張ってくれないとなぁ……」

 私からも話してみようかな……うんうん、とまた一人頷く音楽教員に猪塚は肩を竦めながら言った。

「今日の放課後、狼貴くんと面談する予定だからそっちにも伝えておきますね。お互いのためにも仲直りしなさいって」

 二人は一緒にいないと危うい、という点で満場――と言っても四人だけだが――一致となった。それを合図にしたように教員たちは、お願いします、それがいいでしょうな、うんうん、とそれぞれ挨拶を交わして昼食を掻き込む作業に戻っていった。猪塚もパソコンの画面に狼貴の生徒データを映し出す。

(今度は前と同じようにさせるわけにはいかない。上手くやらなければ)

 生徒に関われる時間は思ったほど長くないのだから、一日一日が無駄にできない。どの生徒も同じことだが、この子は特に注意せねばならない、と猪塚は一人姿勢を正した。



 美術準備室には、いつも独特の匂いが満ちている。テレピン油や顔料、水彩絵の具や木屑の匂いが混じり合っている。中学生の時から美術部だったから慣れている。むしろ好きな匂いだ。中学生の時と違うのは、担任兼美術部顧問が電気ケトルを持ち込んでいること。そして、時々インスタントコーヒーを淹れているからその匂いがすることくらい。僕ら美術部員にも時々「休憩」と称して、お菓子と一緒にコーヒーを振る舞ってくれる。それでも、身構えてしまうのは、これからその担任と面談することになっているからだ。

 いや、本当は違う。先週の月曜から、ずっと何もかもに苛立っている。自分の内側に獰猛な狼が棲み着いて、そいつがずっと唸り声を上げている気分だ。

(こんなことになったのは)

僕がずっと前から気づいて無視していたこと――尊は友達とは違った意味で僕が好きだ――に気づいた尊が悪い。気づいても気づかないふりをしていればいいのに、口に出そうとするから悪い。このままでいたいから言うなと言ってやったのに、何も無いことにすればいいのに、明らさまに僕を避けるようになった尊が悪い。

あの日からずっと一緒に帰ってない。昼もああだこうだと言い訳をして弁当箱だけ置いて教室からいなくなる……今週に入ってからは言い訳すらしなくなった。

(だから嫌なんだよ)

 友達とは違った意味の「好き」――恋愛感情とか呼ばれるものを向けられ、断ると必ずこうなる。それまでは鬱陶しいくらい構ってくるのに、断れば急によそよそしくなって時には悪意まで向けられる。尊だけはそんなことしないでくれると思っていたのに、尊だけは……尊だけは……

 教員用の机の近くにある椅子に座って待つように、と言われていたので、それに腰掛ける。ドアのガラス部分から見える隣の美術室は、他の部員たちで賑やかそうだった。それを見ると自分だけが牢屋に入れられているような、世界から弾かれているような気がした。

「お待たせ。来てくれてありがとうね」

 廊下側のドアから担任が入って来る。一応、礼儀だからと立とうとするのを制して担任はお湯を沸かし始めた。コーヒーを淹れるってことは長くなるんだろうか? 何を話す気なんだろう、と担任の表情や動作を観察する。

「そんな固くならないで。お砂糖やミルクはいる?」

 僕を見透かしたような言葉と共に、担任はインスタントコーヒーの入った紙コップを机に置いた。

「……一つずつ貰えますか」

 本当は砂糖もミルクも二つ入れるか、チョコレートを入れるかしたい。甘いほうが好きだなんて子どもっぽい気がして言えないけれど。担任は微笑んで、砂糖とミルクを一つずつ机の引き出しから取り出し、スプーンを添えた。

「教材の業者さんがくれたから食べながら話しましょう。好きなの取って」

「……いただきます」

 差し出されたのは化粧箱に入った、クッキーの詰め合わせだった。甘い物は好きだ。物に釣られるようで癪だけど、断るのと可愛げが無いとか言われそうだ……と三つ適当に選んで口に入れる。担任は、私もいただこうと笑って、一つの包装を破った。食べている間は互いに無言になった。  

 遠くからトランペットの音が聞こえた。ブラスバンド部だろう。つまり、この音を出しているのは……身体の中の狼が唸り声を上げる。それを抑えるように、少し苦いコーヒーを胃に流し込む。そんな僕を見た担任の笑みに翳りが差したように思えたのは、気のせいだろうか?

 担任は特に何も言わず、ノートパソコンを起動して画面に今までの面談記録を映し出した。

「進路の希望についてなんだけどね、一学期から変更は無いかしら? 三年次も芸術系クラスで、進路は美大志望だったわね?」

「それなんですけど……」

 二学期にやるはずだった二者面談がまだだったから、と言われたのは今週に入ってからだ。母さんのことがあったから先延ばしになっていた。二学期だったら……いや、先週までだったら、そうですと即答できただろう。でも、もう遅い。学校指定のリュックからクリアファイルを取り出して、担任に突き出す。一瞬だけ虚を突かれた顔になった担任の眉間に、すっと深い皺が刻まれた。

「日曜日に義兄と行って来たんです……進路はこれに変更します」

 クリアファイルから書類やパンフレットが取り出されてパラパラと捲られていく。やがて、あるページで止まった。蛍光ペンで囲まれた場所を見れば、どうしてこれを選んでいるのかが分かるのだろう。

「心配しているのは学費のことかな?」

「義兄が『美大なんてお前の道楽になんか金は出さない』って……両親の遺産も全部こっちで管理するからって……担当者も色々説明してくれて思ったより良さそうだし……それに、これなら義兄とも離れられるから悪くないなって」

 そっか……と担任はパンフレットを閉じた。帰っていいかな、と思う。どうにもできないんだから、ほっといてほしい。

「尊くんには相談したの?」

 思いがけない名前を出されて返答に詰まる。また、トランペットの音が聞こえた気がした。夕空に響く音色を奏でるのは、きっと。

「関係無いです」

 目や口を閉じるように、聴覚も遮断できればいいのに。そうすれば、この音色を聞かなくて済む。そうすれば、思い出さなくて済むんだ。茶色の癖毛、目尻の下り気味な顔、僕より少し高い背丈の……

「尊くんは関係無くないでしょうよ。支え合って理解し合う人が家族なら、今のあなたにはお義兄さんよりもお姉さんよりも、尊くんが家族だと思うわよ」

 家族、という言葉が小石のように突き刺さる。家族だったら良かったんだ、と唇を噛む。兄弟だったら尊だって妙な気持ちは起こさなかっただろうし、一日中ずっと一緒にいられるのに。

「あなたたち二人は、入学前から双子みたいだって有名だったのよ。受験相談会に来た時のこと、覚えてる? 二人で並んで駅から歩いて来たの。お母様たちは後ろから付いて来てたわね」

 親戚の子どもにアルバムを見せるような口調で、担任が話し出す。覚えてる。母さんもあの頃はまだ元気だった。同じ高校に通おう、と二人で決めた頃だから十二月くらいだったか。お互いの親を説得して、一度話だけでも聞いてみようかとなったから日程を合わせたんだった。

「この高校は生徒の昇降口って正面階段を上って二階にあるし、しかも玄関周りってガラス張りでしょう? だから、よく見えたのよ。キリッとしたジャーマンシェパードとほにゃっとしたゴールデンレトリバーの子犬たちが戯れながら歩いて来るみたいで、本当に可愛かった」

 犬は好きだけど喩えられるとちょっと複雑だ。でも、尊がゴールデンレトリバーってのは分かる。人懐こくて温和で明るくて、側にいると落ち着くのはよく似ている。並べてみたら、と思い浮かべて、ふっと口角が上がりそうになる。

「その時に二人一緒に合格して、同じクラスになるといいなって思ったの。二人一緒のクラスを私が担任したいって。美術と音楽の違いはあったけど、二人とも芸術系クラス志望だって相談の時に言っていたから、二年生の時には絶対受け持ちしたいなって」

「本当ですか?」

 お世辞を無理に言わなくていい、と皮肉を込める。僕は学校も教員も好きでない。小学校からを思い出しても教員に嫌われてるなと思うことが多かった。この人だってどうせ本音はそんなところだろ、と緩んでいた口元を引き締める。

「ええ、本当。二人一緒ならきっと希望通りの進路を決めて、笑って卒業できるだろうなって思った。受験は団体戦だから、認め合う二人がいるのはクラス全体にも良いのよ。だから二人一緒にって」

 信じていいものか、判断がつかない。話半分に聞いておこう、と何となく視線を逸らす。担任は構うことなく続けた。

「着ていた中学の制服が違ったけど、同じ制服を着たら本当の兄弟みたいに見えそうって他の先生たちも話してたくらい。そんなに仲の良い友達に、何も言わずに決めていいの? 良くないと思うわよ」

 同じ高校に入れて同じ制服を着たら兄弟に思われるかなって自分たちでも言っていた。そうか、教員からもそう思われていたのか。実際に同じ制服を着てみたら、違いのほうが際立ってしまった。思い通りにはならないねって尊が笑ったっけ。

「……言ってもどうにもならないし」

 そもそも今は、と思った瞬間に担任が言った。

「尊くんと何かあったのは分かるけど。ここでは言いたくないことだろうから聞かないわ」

 思わず腰が浮そうになる。担任は視線だけで、それを制した。まさか……

「尊くんは何も言ってないわよ。あなたたちはいつも二人一緒だったから、何かあればすぐ分かるわよ。他の先生たちも心配してる」

本当に? 担任の瞳の中に違う意味が無いを探る。

「そんなに気にするなら、尊くんに直接聞きなさい。あなたたち二人なら、きっと大丈夫だから」

 真正面から見つめ返されて、言い返せない。気まずさをコーヒーで流そうとしたけれど、紙コップはもう空だった。お代わりする? と聞かれて首を振る。

 大丈夫って……どう大丈夫なんだ? 友達とは違う意味での「好き」は受け入れられない、人に身体を触られるのが嫌で、恋人同士がすることもできそうにないから……そう言われて大丈夫な人間なんて……いるわけない。

(何にも知らないくせに)

 そう苛立った僕に気づいたのか、気づかないのか、担任は続けた。

「そこまで気にするのに隠し通せる? 進路をどうするにしろ卒業は必ずしなきゃだけど、尊くん無しで三年生を頑張れる?」

「やりますよ」

 わざと憮然とした態度を取る。身体の中の狼が苛立ちに反応するように一際大きな唸り声を上げる。

卒業後の進路は変えても、三年次も芸術系クラスなのは同じだ。いつまでも隠せないだろうけど、その時期になったら言えばいい。それまで隠していたっていいじゃないか……そう言おうした時だった。

(痛っ)

 額の真ん中――いや、その奥にある脳の中から衝撃が走る。咄嗟に熱を測る時のように、額に手を当てる。何でこんな時に……ときつく目を瞑る。その暗闇の中から声が聞こえるような……【隠しても無駄だ】……そうだ、隠し通せるわけがない。進路を変更すれば、尊と同じようにはもうできない。きっとすぐに見破られて、またみっともない喧嘩をする羽目になるだろう……また?

「どうしたの? 頭が痛いの?」

 その声でハッとなった。担任が心配そうに顔を覗き込んでいる。いえ……と言った後が続かない。この奇妙な症状は多分、説明しても信じてもらえないだろう。

 最初は一年生の夏休みの終わり頃だ。母さんに言われて仕方なく取った夏期講習の最終日、尊と帰っている途中で、学校が再開するの嫌だからやめてもいいなぁと軽い気持ちで言った時だった。二回目は、二学期の期末考査の一週間前に勉強どころじゃない、赤点取っても隠しておけばいいから母さんの看病だけしようと思った時だった。どっちも今と同じだった。脳の奥から衝撃が走って痛みに目を瞑ると暗闇の中から声が聞こえるのだ。今度はやめるな、とか、もう瀕死の母さんに隠し事をするな、とか。

 自分の罪悪感とかストレスとか、そういうものなんだろうか。だとしても、気になることがある。声は間違いなく男のものだ。何処かで聞いたことがあるような気がするけれど、思い出せない。僕自身の声に似ている気もするけど、何か違う。それに、今度、もう、また、という言葉が浮かぶのも……まるで、以前にも同じようなことをしていたみたいな……それらを突き詰めて考えようとすると必ず頭痛がする。頭痛というより、真っ暗な穴の中へ落ちていくような、頭の中に黒い塊ができるような……そんな感じがして、考え続けることができなくて……

「悩ませてしまったみたいね……まぁ進路については適性や将来を冷静に考えてからでも遅くないし、学費についても色々方法はあるし……何より、あなたの希望が一番大切なのよ。」

 黙っている僕を見て体調不良だと思ったのか、担任は話を切り上げるように言った。分かりました、とだけ言って立とうとすると、すかざす話を付け加える。

「尊くんには必ず相談しなさいね。先延ばしにすると余計に言いづらくなるわよ」

 そんなこと、と言いかけると、さっきほどではないけれどまた【その通りだ】頭が痛む。もう溜息しか出ない。

「何もね、真正面から談判しなくていいの。三年ゼロ学期の思い出作りだと思って、二人でどこか出かけるとか、何か楽しいことするとか、そういうので良いから。場所を変えれば気持ちも変わって話しやすいかもよ」

 反論するとまた頭痛がしそうだ。だから、素直に頷いておく。できるかは分からないけれど。それにね……と担任は続ける。

「あなたのためだけじゃなくて、尊くんのためでもあるのよ。あの子、気が弱いでしょ? 進路をどうするにしろ、強引なあなたが側にいるのは尊くんにもいい刺激になるのよ」

 そういうものか、という疑問と、確かに、という納得が半々で混じるから、軽く頷いてしまう。それを見た担任は、ようやく柔らかい笑顔に戻った。

「前も言ったけど、大人はあなたが思うほど冷たくないし、同級生はあなたが思うほど愚かではないわよ。今日はどうする? 帰って休む? それとも、気分転換に何か描いていく?」

 帰りなさいとも残りなさいとも言わないで、選ばせてくれるのは嬉しかった。



 母さんがいない家に帰るのが苦痛だ、なんて誰にも言えない。母さん以外の人がいる家はもっと嫌だなんて尚更言えない。それでも、今の自分はそこしか帰る場所が無いんだ。結局、美術室でしばらく絵を描いて、担任兼顧問に修正とアドバイスもらって最終下校時刻まで残った。でも、帰らないわけにはいかないのだ、それも一人で。ホームに降りて改札に向かう時まで周囲をさりげなく伺って探している自分がいる。

(尊がいてくれたら……)

 浮かんだ言葉に自分で苛立つ。いたらいたで大変なのに、と舌打ちした僕を、会社員風の男が眉を顰めて追い越していった。その姿にまた苛立つ。

(尊が余計なことを言うから……余計なことを考えるから……)

 そうだ、尊が友達のままだったなら。

(ずっと一緒にいられる)

 家族みたいに、と浮かんだ言葉にハッとなる。担任の声が聞こえそうになって、また苛立つ。

(何なんだよ、もう)

 いつの間にか家に帰り着いていた。鍵を開けて、ドアを開く。少しも安心できない自宅なんて苦痛でしかない。

「……ただいま」

「あら、おかえり」

 伺うように居間に入ると、ソファに座っていた姉さんが興味無さげな声で言った。テーブルにノートを広げていた妹は無言で、目も合わせなかった。

「義兄さんは?」

「今日は出張。カレーあるけど食べる? 私たちはもう食べちゃったけど」

「もらう」

 会話は最小限にしたい。義兄よりはマシだけど、姉さんも僕を持て余していることに変わりはない。ご飯とカレーを皿に盛って、テーブルに着く。妹が慌てたようにノートを片付ける姿に嫌な予感がして、取り上げる。あー返してよー、と伸ばされる手が届かない位置でめくったノートは落書きだらけだった。身体の内側に棲む狼が、また唸り声を上げた。

「算数のノートなのにこれじゃ落書き帳じゃないか! 母さんと約束しただろ! 真面目に勉強するいい子になりますって! なんでちゃんとやれないんだよ?!」

 母さんが死ぬ少し前も同じようなことがあった。その時に母さんの前でそう約束させたのに、何にも変わってない。どうしてこう余計なことばかり起こすのか。顔を真っ赤にした妹は謝りもしないでノートを引ったくった。

「お母さんお母さんってうるさい! お兄ちゃんのマザコン!」

「何だと?!」

 母さんを大事にするのなんか当たり前じゃないか。いつもあんなに優しかったのに。その母さんとの約束を破るお前が悪い。

「もう二人ともやめてよ……お風呂に入んなさい。あんたはさっさと食べて片付けて」

 声が大きくなるのを止められないで捲し立てると、姉さんがうんざりした声で言った。風呂に入れと言われた妹は、僕を睨みつけると吐き捨てるように言った。

「お兄ちゃんなんか大っ嫌い! 炭治郎みたいなお兄ちゃんがよかった!」

 何?! と続きを言う前に、ぷいと背を向けて逃げるように居間から出ていく妹を可愛いなんて思えない。どう考えても、死んだ母さんとの約束を守らないほうが悪い。それなのに。

「少しはあの子の気持ちも考えてやってよ。あんたより小さいのに、もう両親がいないんだから……炭治郎みたいに、なんて無理だろうけど、もう少し優しくしてあげてよ」

 大人気ないんだから、と姉さんは僕と向き合う席に座った。そこは母さんの席だと思ったけど、言っても仕方ないことは分かっているから言わなかった。

「炭治郎って流行ってる漫画の?」

「決まってるでしょ。 あの子しょっちゅう言ってるわよ。『炭治郎みたいに優しいお兄ちゃんがよかった』って。何も命懸けで守れって言わないけど、もう少し可愛がってやってよ」

 妹のために、と両親を亡くした少年が戦う話だったか……部活にも大ファンだという奴がいてイラストを大量に描いていたのを思い出す。

(漫画のキャラクターみたいにしろってのか)

 自分の考えも夢も持たないで誰かの偽物になれ、ということか。もっと正直に言えよ、とまた狼が唸ってる。

(僕なんかいらない、消えてほしいって)

 例えばの話、SFみたいに僕の中身がそのキャラクターに変わったとして、姉さんも義兄も妹も、最初は戸惑うだろうけど特に追究はしないんだろう。むしろ、せいせいしたとでも思うんだろう。

(気にしてくれるのなんか……狼貴じゃないって気づいてくれるのなんか……)

 茶色い癖毛と人の良さそうな顔が一瞬だけ浮かんで、またハッとなる。考えたってどうしようもないだろ……と、機械的に口へ食べ物を詰め込む。でも……

(やっぱり、このままじゃ……)

 身体の中の狼が遠吠えをしている。遠吠えは、仲間を呼ぶ声だ。ここにいる、お前はどこだ、今すぐに……と血液がさざめく。向こうもそう思っていてくれたら……僕は……どうすればいいんだろう? どうしたいんだろう? ……できないことが多すぎる僕が……

「担任の先生にちゃんと進路のこと話したの? 聞いてる?」

 姉さんの声で我に返る。進路……? ああ、そうか……

「今日の放課後、面談したよ……もう少し冷静に考えろってさ。適性とか……将来とか……色々考えてって」

 ふうん、と姉さんは不満げだ。担任の返事が曖昧なことが面白くないのだろう。それとも、僕が嘘を吐いているとでも思っているのだろうか? 僕が根掘り葉掘り聞かれたら面倒だと思い、姉さんが口を開こうとしたと瞬間だった。動物の鳴き声、いや泣き声が響いた。

「ああ、起きちゃった」

 姉さんが大きいお腹を揺らしながら、母さんの病室だった部屋に向かう。そうか、ベビーベッドに寝てる赤ん坊が起きたのか。何にせよ、これであれこれ尋問されなくて済むな、と少しだけ肩の力が抜ける。

 おおよしよし、といやに甘ったるい声で、姉さんが赤ん坊をあやしながら戻って来る。赤ん坊は少しずつ機嫌が直っているのか、泣き笑いみたいな変な声を上げていた。ソファに座り直して赤ん坊をあやしている姉さんを見ていると、妙に落ち着かない気持ちになってくる。

(あれと、お腹の中にいるのが……つまり……)

 闇の中で重なっていた母さんと父さん……姉さんと義兄さんも、同じことをしているってことで……分かっているけど……

「姉さん」

 落ち着かない気持ちを誤魔化すように呼びかけても、話すことは何も無い。怪しむように見てくる姉さんが嫌で、とりあえず思いついたことを聞いてみる。

「どうして……子ども作ったの?」

 本当はそんなこと、どうでもいい。別のことが聞きたいはずなのに。かなり失礼なことを聞いているのは分かっている。

「どうしてって……可愛いじゃない」

 何を馬鹿なことを、と言わんばかりの目で言われても反応に困る。ますます居心地が悪くなって、また胡乱な質問を重ねてしまう。

「義兄さんのこと好きなの?」

「藪から棒に何言ってんのよ? そりゃ好きよ。それだけで結婚したわけじゃないけど」

 はぁあ? と馬鹿にしたような溜息と一緒に返ってきた返答も別に聞きたいものではない。本当に聞きたいのは。

(性交ってどんな感じ? 触られるのは嫌じゃない?)

 でも、聞けるわけがないんだ。口にした瞬間、今以上に馬鹿にされ怒られるだけだろう。はしたなくて失礼だと自分でも思う。それが分かれば……また違うかもしれないのに。尊の「好き」を受け入れて、手を重ねることの先へ進めるかもしれないのに。

それとも、母さんと父さんがしていたのを見たって言えばいいんだろうか? それも、まともに取り合ってもらえる気がしない。

「何でそんなこと聞くのよ?」

 聞けないからだよ、なんて言えない。黙っていると姉さんはまた大きな溜息を吐いた。

「あんたってお父さんそっくりで偏屈だもんね。母さんもずいぶん手を焼いていたし……尊くん……? だっけ? あの子くらいなもんよね、あんたと友達になってくれるのなんて」

 思いがけない名前が姉さんの口から出てきて、咄嗟に身構える。母さんを悪く言われるのが一番我慢ならない。でも。

「尊はいい奴だよ」

 噛み付くように言って、そこから先は言わせない。尊を悪く言われるのも、その次くらいに我慢がならないんだ。ごちそうさま、と言い捨てて空になった皿を流しで洗う。姉さんも面倒になったのか、それ以上は何も言わなかった。

「もうそろそろ、あの子も出るからさっさとお風呂入ってよ」

 居間から引き上げる時、姉さんが言った。分かってるよ、出たら呼んで、とだけ言って自分の部屋に籠る。今の自分にとって唯一安心できる場所がここだった。

(疲れた……)

 不眠気味だし今日はあの頭痛もあったし、身体もだけど精神的にも……明かりも点けず、身体を投げ出すようにベッドに横たわる。明日の登校がすでに憂鬱だった。もう少し頑張れば週末、と思ってもその「もう少し」が頑張れそうにない。だいたい学校なんか行ったって……そこまで考えた時、電子音が聞こえた。まさか、と目を見開いてしまう。

(スマホ……リュックに入れっぱなし……)

 頭を動かすのも辛いけれど、それでも……自分に電話してくるなんて、一人しか考えられないから何とか身体を起こす。床を這うようにしてスマホを取り上げる。思った通り、聞こえる声は。

「あ……狼貴……? 寝てた?」

 眠いなら切るけど……と躊躇いがちな声が聞こえる。用があって電話してきたはずなのに気遣うなんて、やっぱり尊はいい奴だなと思う。疲れた時に舐める飴玉のように、尊の声が沁みてくる。でも、あれを言われたら……言わないでくれよ、頼むから。

「いいよ、まだ起きてるし……何か用か?」

 実際は床に寝転がってる。床が冷たくて身体は冷えるけど、起き上がるのも億劫だった。いや、それ以上に怖かった。尊が言うかもしれない言葉を警戒してしまう。天敵から隠れるかのように息を潜ませ、身を固くする。

「あのさ……ごめんね……先週の月曜日、変なこと言って……僕の問題なのに狼貴を巻き込もうとして……狼貴の気持ち全然考えてなかったから……怒ってるよね?」

「別に。怒ってない」

 言おうとしているわけじゃないのか、良かった……と力が抜ける。怒ってるわけじゃない。言われたくないだけなんだ。友達とは別の意味での「好き」を……応えられないことを求めないで、答えられないことを問わないでくれれば、それでいい。友達でいてくれたら、それだけでいい。

「そっか……そうだよね」

 電話の向こうから落胆している気配が伝わってくる。きっと僕が怒ってると思っているんだろう。そうじゃないと説明しても分かってもらえる気がしない。そもそも説明できない。言えるわけがない。母さんと父さんが性交しているのを見たなんて、あの時の母さんの瞳が怖かったなんて、それのせいか分からないけど人に触られるのが嫌だなんて……でも……進路のことなら……

「尊、あのさ……」

「え?」

 実はさ……と言いかけた声に被るように部屋のドアが開いた。あ、と思った時にはもう妹の声が響いた。

「お兄ちゃん、お姉ちゃんがお風呂に入れって! 電気点けないの? 誰と電話してんの?」

「うるさい!」

 怒りの瞬発力が疲労を上回る。床から起き上がると同時に、妹を怒鳴りつけていた。大事なことだったのに邪魔するな。やだーまた怒ったーと喚きながら廊下を走っていく妹が本当に憎たらしかった。

「狼貴? あんまり怒らないであげなよ……子どもなんだからさ……」

 スマホから聞こえてくる声で、いつもの人の良さそうな曖昧な笑みが浮かんだ。そうだ、怒ったって仕方ないんだ、腹は立つけれど。

「君がチビの兄だったら良かったのにな……炭治郎ほどじゃなくてもチビは喜んだだろうな」

 え? と戸惑うような声に、いやこっちの話、と言っておく。本当に言いたかったことは……言えそうにない。風呂に行かないと、また姉さんにあれこれ言われて面倒そうだ。

「狼貴? 明日、学校来るよね? 別のことなんだけどさ……ゆっくり話そう」

「え……?」

 何の話だ、と言う前に、じゃあお風呂行きなよ、おやすみ、と尊は電話を切ってしまった。何だろう、話って……気になる。それでも、それよりも、一瞬でも繋がった声は温かった。

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