履歴管理者 –The Logmaster–
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【週末限定】──まとめ File_00〜04
これは、記録された4つのファイル。
ある男の人生が、静かに“異常”に傾いていった軌跡です。
初めて読む方へ:
ここから読み始めても問題ありません。世界観と登場人物、すべてを掴めます。
すでに読んだ方へ:
この再構成版では、伏線や感情の変化をより深く辿れるように編集しました。
File_05以降への没入が、きっと変わるはずです。
――では、すべての始まりへ。
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【*** ⭕️ File_00: Prologue ***】
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最初に音が消えたのは、誰の意思でもなかった。
闇に閉ざされた空間を、冷たい無音が支配する。
かすかに聞こえるのは、キーボードを叩くわずかな打鍵音と、機械の冷却ファンが放つ低いうなりだけだ。
闇の中、幾つものコンソール画面が淡く光り、そのかすかな輝きがフードを目深にかぶった「管理者」たちの姿を照らし出している。
彼らは整然と並んだコンソールの前に腰掛け、黙々と作業を続けていた。
指先には躊躇も感情もない。
規則正しく反復される動作は、生者の営みというより、生命なき自動機械のようだ。 かつて情報を記録した紙のざらつきやインクの匂い
──それらはすべて記憶の片隅へ追いやられ、今や世界の記録はまばゆい光とノイズの羅列へと置き換わっている。
コンソールのスクリーンには、無数の人間の名前とステータスが絶え間なく流れ、明滅していた。
まるで人々の人生が数字と文字の奔流となって暗闇を駆け抜けているかのようだ。
Subject #TK35 Status: Stable
Subject #SM52 Event Flag: Triggered
Subject #HY29 Probability Shift: Detected
「ユニット#SM52、イベント発生を確認。記録を開始します」
「了解。ユニット#HY29、確率変動を検知。現状、干渉は非推奨」
どの声にも熱はなく、冷ややかな響きだけが残る。
「今期取得進捗率、報告」
「78.3%。無干渉取得率は基準値を上回っています」
即座に返答が返る。
「対象追加、承認。ユニット#AO44を監視対象に加えます」
「ユニット#AO44……データベース照合完了。干渉許容量は下限ギリギリです」
画面を注視していた人物が事務的な口調で告げる。
「“期待外変動指数”が平均を上回っています。注視対象として処理を進行」
静かな空気の中、粛々と判断が下されていく。
「管理者○、実行してください。ユニット#AO44、初期接続をレベル1で開始します」
直後、コンソール上に新たなログが瞬いた。
CONTACT INITIATED: SUBJECT #AO44
ACCESS LEVEL: 1 GRANTED
STATUS: LIVE OBSERVATION START
ログが表示された瞬間も、フードの男たちは誰一人として手を止めなかった。
それが当然の結果であるかのように、作業は寸分違わず続いていく。
無数に積み重なるログの一つが増えただけ
──彼らにとっては、それがすべてだ。
だが、ただひとつだけ確かなことがある。
この瞬間、現実のどこかで生きている「ごく普通の男」の人生が、静かに、そして確実に常軌を逸し始めていたのだ。
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【*** ⭕️ File_01: A rough life ***】
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午前0時過ぎ。
終電間際の車両には、薄暗い蛍光灯が不規則に明滅し、座席の網棚が揺れるたびにかすかな軋み音を立てている。
車内には数人の乗客がいるだけで、妙に静かだった。
まるで音が吸い取られてしまったかのような静寂
—— 歩丸臣一(あゆまる おみいち)44歳、独身。
吊り革広告をぼんやりと見上げながら、その不自然な静けさにわずかな違和感を覚えた。
くたびれた紺色のスーツに身を包んだ臣一は、膝の上の安物の合皮バッグを指先でなぞっている。
瞼は重く、肩は鉛のように凝り固まっていた。
会社で酷使した目を労わるように一度ゆっくりと瞬きをし、窓に映る自分の姿に視線を移す。
そこにいるのは、生気のない瞳をした中年男
—— 自分でも驚くほど疲れ切った顔だ。
「これが俺の姿か」
勤務先は都心一等地の高層ビルに入居するIT企業。
その外見のきらびやかさとは裏腹に、経営は常に火の車だ。
社長の見栄だけで維持している無駄に豪華なオフィス…
「こんな高い家賃を払う金があるなら、俺たちの給料に回せよ」
心の中で毒づかずにはいられない。実際、社員たちも声に出さないだけで同じ不満を抱えており、その澱んだ思いがオフィスの空気にいつも満ちていた。
臣一はその会社で働く底辺プログラマーだ。
役職もなく、任されるのは古びたシステムの保守という名の墓守仕事ばかり。
若手社員から面倒な雑用を押し付けられることもしょっちゅうだった。
表向きには「歩丸さん、お疲れさまです」とそれなりに敬意を払われている体だが、陰では名前をもじられて「お荷物さん」などと揶揄されていることも知っている。
諦念と自嘲…。
それらは分厚い鉛色のコートのように彼の心を覆い尽くしていた。
電車がガタン、ゴトンと単調なリズムを刻む。
その揺れに身を任せながら、臣一はスマートフォンの画面を惰性でスクロールした。
映し出されるのはSNS上で誰かが発信する充実した日常
—— 自分とはかけ離れた煌びやかな世界だ。
思わず深いため息が漏れる。
ため息は湿った車内の空気に溶けて、音もなく消えていった。
(…今日も疲れ果てたな。俺の人生、一体何のためにあるんだろうか…)
心の中で呟いてみる。
しかし答えなど出るはずもない。
ただ疲労だけが全身にまとわりつき、思考は鉛のように重かった。瞼の裏に、今日一日の出来事が次々と甦ってくる——。
◇◇◇
朝一番、オフィスに出社するとすぐに後輩の田中が駆け寄ってきた。
「歩丸さーん、このレガシーシステムの改修、ちょっと手伝ってもらえません?俺、今のフレームワークしか分かんなくて…」
申し訳なさそうな声色だが、その実ただの厄介事の丸投げであることは明白だった。田中が持ってきたのは何十年も前にCOBOLで書かれた古臭い業務システムのコードだ。
無秩序に絡まり合ったスパゲッティコード。
まともなドキュメントもなく、触れば触るほどバグが出てきそうな代物
—— 新人というか今時の若者の田中が扱いかねるのも無理はない。
しかし、社内でこの手の古い案件を任されるのは決まって臣一だった。
「…はいはい、分かったよ。とりあえず見ておく。」
結局、断ることもできず引き受ける。
「ありがとうございます!助かります!」
田中は頭を下げて自分の席に戻っていった。
押し付けられたのだと分かっていても、弱い立場の自分には拒否する勇気などない。
(案の定、今日も雑用スタートか…)
朝から重いため息をつきつつ、臣一は腰を落ち着けぬままその場で資料に目を通し始めた。
昼過ぎ。
今度は顔を真っ赤にした中年係長、飯山に呼びつけられた。
「おい歩丸!先週のリリースで顧客からクレームが入ってるぞ!お前のチェックが甘いからだ!」
開口一番、怒鳴り声を浴びせられる。
突然の叱責に周囲の視線が一斉にこちらに向いた。
臣一は原因を知っていた。
今回の不具合は、リリース直前に飯山自身が強行でねじ込んだ無茶な仕様変更が元凶だったのだ。
—— 反論などできるはずもない。
この会社では上司の機嫌を損ねれば更なる報復が待っているだけだ。
ぎゅっと拳を握りしめ、堪えた怒りを飲み下す。
「申し訳ありません…」
絞り出すように謝罪の言葉を口にする以外、臣一に選択肢はなかった。
一方的に怒鳴られながら頭を下げる彼を、周囲の同僚たちは見て見ぬ振りを決め込むか、あるいは一瞬だけ哀れむような視線を投げるだけだ。
助け舟を出してくれる者などいるはずもない。いつものことだ。
—— そう自分に言い聞かせながら、臣一はただ嵐が過ぎ去るのを待った。
午後はひたすら田中から押し付けられたレガシーコードの解析と修正に追われた。
意味不明な変数名の乱立、コメントもされず残されたデバッグ用のコード群…。
まるで古代遺跡の発掘作業だ、と臣一は朦朧とする頭で考える。
苛立ちと疲労で何度も投げ出したくなったが、それでも地道に一つずつバグの原因を洗っていった。
ようやく問題箇所を突き止め、修正の目処が立った頃には、時計の針はとっくに定時を過ぎていた。気づけばオフィスには自分以外ほとんど人が残っていない。
「歩丸さん、本当に助かりました!お先に失礼します!」
田中はと言えば、軽い礼だけ告げて、とっくに退社していた後だった。
人気のないフロアで、臣一は空になった田中の座席をぼんやりと見つめる。
無表情の裏で、心の中にかすかな虚しさが広がっていくのを感じた。
深夜近く。
オフィスフロアはがらんとして、耳鳴りがしそうなほど静まり返っていた。
時計を見ると22時を回っている。
押し付けられた今日の“ノルマ”をどうにか片付け終え、臣一は疲れ切った体を椅子にもたせかけた。
腹の底から鈍い空腹感が湧き上がり、ようやく自分が朝から何も食べていなかったことに気づく。空っぽの胃がグゥと悲鳴を上げた。
「…腹減ったな」
誰にともなく呟くと、重い腰を上げてコートに腕を通した。
ビルを出て、人気のないオフィス街を足早に歩く。
向かう先は近所の24時間スーパーだ。
この時間帯のお目当てはもちろん半額シールが貼られた弁当である。
店内に入ると、タイミングよく店員が総菜コーナーの値引き札を付け始めたところだった。
待ってましたとばかりに、スーツ姿の会社員風の男たちやパート帰りの主婦が、そのコーナーに群がっていく。
値引きされたばかりの商品に手を伸ばし、我先にと掴み合う様子はまるでハイエナの群れのようだ。小さな溜息が出た。
—— 残念ながら、臣一にはその争奪戦に加わる気力も体力も残っていない。
少し離れた場所から人だかりが引くのを待つ。
やがて棚には人気の惣菜が一通り買い漁られた後の“残り物”だけがぽつねんと残った。誰も手を伸ばさないであろう茶色一色の揚げ物弁当。
臣一はそれを一つ手に取った。
選ぶというより、生き残った残飯を漁るような感覚に近い。
それでも半額シールが貼られているのを確かめると、心の中で皮肉っぽくつぶやく。
「本日最初の食事、ゲットだ」
オフィスに舞い戻り、人影のない給湯スペースで無機質な白い電子レンジに弁当を突っ込む。
チン、と間の抜けた電子音がフロアに虚しく響き渡った。
湯気の立つ温かい弁当を手に自分のデスクへ戻る。
隣の席も向かいの席も空っぽだ。
煌々と点いたままの自分のパソコンのモニターだけが、この時間もなお彼を仕事へ誘っているようだった。
デスク脇のウォーターサーバーから紙コップにお湯を注ぎ、インスタント味噌汁の粉末を溶かす。
簡素な夜食の準備を終えると、臣一は椅子に腰を落とし、電子レンジで温め直した弁当に箸をつけた。
衣がふにゃふにゃになったトンカツを口に運ぶ。
空腹は満たされたが、油っぽすぎて味覚を刺激するものは何もなかった。
茶色く冷めかけた塊をただ咀嚼する。
弁当容器の隅を木の箸でこそげ取る音と、自分の咀嚼音だけがカチカチと虚しく響く。深夜のオフィスにぽつんと取り残された自分
——その孤独がひしひしと身に染みた。
食べ終わった容器をゴミ箱に押し込み、臣一は再びキーボードに向かった。
今日中に片付けるべき残作業があと少しだけ残っている。
無人のオフィスにカタカタというタイピング音が小さく鳴り続ける。
その合間、不意に視界の隅に高層ビルの窓から見える夜景が入った。
東京の街のネオンはこんな夜更けでも宝石のように瞬いている。
あまりにも眩いその光景は、自分とは無縁の世界の象徴のように思えた。
(俺の時間は…俺の人生は、一体何のために消費されているんだろうか?)
胸の内にぽっかりと穴が開いたような感覚。
答えの出ない問いが再び頭をもたげる。
その問いは重苦しい鉛球のように臣一の胸に沈み込み、動悸だけがドクンドクンと耳鳴りめいて響いた。
波風を立てず、目立たず、ただ息を潜めて日々をやり過ごす
—— それがこの会社で生き残るための彼なりの処世術であり、日常だった。
そう、自分に言い聞かせる。何かを変えようなどとは最初から考えていない…考えてもどうにもならないのだから。
だが、そんな灰色の毎日にも、臣一にとって唯一のオアシスのような存在があった。
戸丸静香(とまる しずか)、27歳。入社3年目の中途採用社員で、若くしてチームリーダーを任されている社内のホープだ。天真爛漫な性格で誰にでも分け隔てなく接するムードメーカー。
太陽のような明るい笑顔を振りまき、仕事にも人一倍熱心な彼女は、多くの社員から信頼されていた。加えて整った容姿
—— 社内で密かに彼女に想いを寄せる男性社員も少なくない。
しかし、そんな彼女にも意外な弱点があった。
実はパソコンの操作が驚くほど苦手なのだ。入社当初、基本的なエクセルの使い方から業務システムの操作方法まで、何かと子犬のように頼ってきたのが静香だった。
「歩丸さーん、これ教えてもらえませんか?」
正直言って面倒だな…と思うこともあったが、臣一は一つひとつ丁寧に教えてあげたものだ。
それがきっかけで生まれたのが、この奇妙な関係だった。
先輩と後輩という距離は守りつつも、静香は事あるごとに臣一を頼り、時には冗談まで飛ばす間柄になった。
「あ、歩丸さん!戸丸さんと歩丸さんで、二人合わせたら二重丸ですね!…なーんて、ふふっ」
廊下ですれ違えば、楽しげに声をかけてくる。
バカバカしいダジャレだが、静香が屈託なく笑うと不思議とこちらまで口元が緩んでしまう。
「くだらないな」
臣一はぶっきらぼうに返しつつも、その瞬間を密かに楽しみにしている自分がいた。恋愛感情と言えるほど瑞々しいものではない。
乾ききった自分の心にぽとりと落ちた一滴の水
—— 手塩にかけて教えた後輩を見守る、歪んだ親心のようなものだったのかもしれない。
◇◇◇
揺れる電車の中、臣一は静香の無邪気な笑顔を思い出していた。
疲れ果てた頭にも、不思議と彼女の声だけは鮮明に蘇る。
次第にまぶたが重くなっていく。
車内の暖房で生ぬるくなった空気が心地よく、意識が薄れていくのを感じた。
どれほどそうして目を閉じていただろうか。
―― その時、不意にスマホの画面上部にポップアップ通知が現れた。
眠りに落ちかけていた臣一はハッとして目を開く。
手元のスマートフォンがかすかに振動している。
通知音は常にオフにしてあるがまるで水の中から響いてくるようなくぐもった振動音。画面を見ると、そこには見慣れない表示が出ていた。
『LINE: ⭕️さんから新着メッセージがあります』
—— ⭕️さん?誰だ、それは?
心当たりのない名前だ。
そもそもこの時間にLINEなど送ってくる知人は思い浮かばない。
臣一は軽く首を振り、寝ぼけた頭を覚まそうとした。
再びスマホの画面に目を落とす。
この奇妙な通知が、歩丸臣一という男の人生が日常という境界線を踏み越える合図になるとは——この時の彼はまだ知る由もない…。
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【*** ⭕️ File_02: You got a message ***】
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(…なんだ? この赤い丸のアイコンは…?)
静まり返った薄暗い電車の中で画面を覗き込む。
差出人の欄には、ただ赤い丸の絵文字
——「⭕️」がぽつんと表示されていた。
見覚えのない送り主だ。
知り合いにこんなアカウントはない。
フィッシング詐欺か、手の込んだスパムメールだろう。
臣一は重いまぶたをこすりながら、通知を左にスワイプして削除しようとした。
その瞬間、新たなメッセージが追い打ちをかけるように飛び込んできた。
『あなたの技術を活かしませんか?』
「…は?」
思わず低く声が漏れた。
技術? 俺の技術を活かす? 一体何のことだ。
誰が俺の技術になんて興味を持つ?
—— いや、それ以前に、俺に活かせる技術なんて残っているのか…。
戸惑いながらも、胸の奥でざらついた感情が疼く。
技術者としての誇りはとっくに折れかけている。
四十代目前にして時代遅れ扱いされ、「お荷物」と陰口を叩かれる日々。
社内でも肩身は狭く、自分の技量など誰にも評価されない。
それでも「技術」という言葉は、乾いた心にわずかな刺激を残していた。
「ふざけてるのか…」
臣一はそう呟きつつも、通知から目を離せなかった。
スマホの画面には、削除し損ねた最初のメールと新着メールの二件が並んでいる。
どちらも差出人表示は赤い丸アイコンのみ、件名はなく、本文には例の誘い文句が一行記されているだけだった。
常識的に考えれば今すぐ削除すべきだ。
それなのに指先が思うように動かない。
—— 技術者の警戒心と好奇心。
二つの相反する感情の狭間で心が揺れていた。
そんな逡巡を嘲笑うかのように、さらにもう一通、震える端末に新着通知が走る。
『http://www.human-ao44.com』
唐突に送りつけられたのは一つのURLリンク。
典型的なフィッシングサイトへの誘導に見えるが、「ao44」
—— 自分のイニシャルと年齢にも読める文字列が妙に引っかかった。
ただの偶然だろうか? それとも…。
額にじっとりと汗がにじむ。
疑念の種は一度心に芽生えれば、蜘蛛の糸のように絡みついて離れない。
(…リンクを開くだけなら大丈夫だろう…)
自分に言い聞かせるように考え、臣一は喉元まで出かかった「馬鹿馬鹿しい」という言葉を飲み込んだ。
疲労で麻痺した判断力、日々積もった鬱憤、不気味な正体不明の誘い
—— そして「あなたの技術を活かしませんか?」という一言への屈折した期待。
それらが綯い交ぜとなり、普段なら働くはずの警戒心をすっかり鈍らせていた。
気づけば臣一の指先は震えながらもそのURLへと触れていた。
リンク先のページが読み込まれる。
一瞬のロードの後、スマホ画面に現れたのは極めて簡素なログイン画面だった。
真っ白な背景にユーザー名とパスワードを入れる枠が一つずつあるだけで、その下に【送信】ボタンがぽつんと配置されている。
まるで企業の内部システムのような無機質さだ。
Name:【 Ayumaru Omiichi 】
PASS:【 】 (ヒント:生年月日)
「……!」
自分の名前が最初からローマ字で入力されている。
息が詰まり、指先が強張った。不気味さがさらに膨れ上がる。
空欄のパスワード欄の下には「ヒント:生年月日」と記されていた。
(同僚の悪戯か……? 情報漏洩……? まさかそんな…)
嫌な想像が頭をもたげ、背筋に冷たいものが走る。
どこの誰とも知れぬ何者かが、俺の個人情報を握っている…。
理不尽な恐怖に喉がカラカラに渇いた。
ごくり、と唾を飲み込む音がやけに大きく聞こえた。
臣一は震える指で自分の生年月日をゆっくりと入力する。
「1」「9」「8」「0」「0」「5」「0」「5」……
数字を打ち込み終えると、覚悟を決めて【送信】ボタンを押した。
わずかな間を置いて、画面が切り替わる。
白を基調としたシンプルなインターフェース。『ログイン成功』
—— そう一瞬表示された後、すぐに画面上に別のメッセージウィンドウがポップアップした。
『パスワードが初期設定です。セキュリティ向上のため、以下のパスワードに変更しました。今後このパスワードの変更はできません。必ず安全な場所に記録してください。新しいパスワード:Fg7h$Kp0!zX2』
「勝手に…変更だと?」
臣一は思わず眉をひそめた。
ログイン直後に一方的にパスワードを更新され、12文字の英数字記号が混在した複雑な文字列が提示されたのだ。
しかも「今後の変更はできません」とある。
あまりに強引で呆気にとられるしかない。
覚えきれるはずもないパスワードに戸惑いながらも、臣一は反射的に画面のスクリーンショットを撮影した。
メッセージが消えると、画面の上部にメニューが表示された。
Guest
Human
Help
Logout
まず「Help」をタップすると、簡潔な説明が表示された。
各名前の横にある[履歴]ボタンをタップすると、その人物の人生の履歴を閲覧できます。
このサイトの内容を第三者に漏洩した場合、あなたはこのサイトに関わる一切の記憶を失います。
(履歴…? 記憶を失う…? なんだこれは、まるで漫画みたいな設定じゃないか)
荒唐無稽すぎる警告に、臣一は鼻先で苦笑した。機密保持は分かるが、記憶を失うなど聞いたことがない。
悪質なジョークにしては凝っているが、どこか子供じみた脅しに思える。
次に「Guest」を開く。
瞬間、表示された内容に臣一の顔から血の気が引いた。
画面いっぱいに並んでいたのは、ほかでもない自分自身の詳細なプロフィールだったのだ。
氏名、生年月日、住所、勤務先、学歴、職歴
—— それだけではない。
直近の行動記録に至るまですべて克明に記されている。
まるで常に誰かに監視されていたような情報の数々に、背筋が凍りついた。
恐る恐るホーム画面に戻り、「Human」をタップする。
すると、画面には見覚えのある名前がずらりと一覧表示された。
田中健太 … [履歴]
鈴木誠 … [履歴]
高橋由美 … [履歴]
山田太郎 … [履歴]
飯山浩二 … [履歴]
戸丸静香 … [履歴]
スクロール可能な長いリストには、臣一が四十四年間の人生で関わってきた、
あるいは現在も関わりを持つ人々の名前が延々と並んでいた。
同僚、上司、学生時代の友人、疎遠になった親戚……そしてその中には戸丸静香の名前もある。
どうやら最近会話した人物から順に並んでいるようだ。
各名前の横には「履歴」と書かれたボタンがひとつずつ設置されている。
半信半疑のまま、臣一は最近自分に仕事を押し付けた後輩、田中健太の行を見つけ、その[履歴]ボタンを押した。
画面が切り替わり、田中健太の顔写真と共に、年表のような形式で彼の人生の出来事が時系列に沿って表示されていく。
生まれた病院、
初めて歩いた日、
小学校の入学式、
中学での初恋、
高校での部活動、
大学受験、
入社……
そして昨日——。
昨日の項目には、田中が臣一に押し付けた業務を終えた後、同僚と居酒屋で飲んでいた際の会話が克明に記録されていた。
「歩丸さん、マジでお荷物だよな。あの人いるだけでチームの士気下がるわー。早く辞めてくんねーかな」
—— 想像以上に露骨で辛辣な陰口だった。
その生々しい悪意に、臣一は思わず歯を食いしばる。
眉間に深い皺が刻まれ、胃の奥がきりきりと痛んだ。
(…な、なんだこれは……)
血の気がサッと引いていくのを感じると同時に、腹の底から煮えたぎる怒りが湧き起こった。
これはただのデータベースなんかじゃない。
他人の人生…その表も裏も余すところなく記録した、恐るべき「履歴」の帳簿だ。
(静香さんの履歴も…見られるのか?)
ふと脳裏を過ぎった考えに、臣一の視線は一覧にある「戸丸静香」という名前へ引き寄せられた。
無意識のうちに指が彼女の[履歴]ボタンに触れかけ慌てて止める。
もし彼女の履歴に、目を背けたくなるような現実が記されていたらどうする?
あの人懐っこい笑顔の裏で、やはり自分を「お荷物」だと軽蔑していたら……。
想像しただけで胸が締め付けられる思いだった。
今の表面的な関係が崩れてしまえば、もう元には戻れないかもしれない。
臣一はそっとスマホを置き、戸丸静香の履歴だけは見ないと心に固く誓った。
—— 四十四年間、社会の片隅で「お荷物」と嘲られ、息を潜めるように生きてきた男。
そんな男が今、他人の人生の奥底まで覗き見ることのできる〈力〉を手に入れてしまった。
背筋を駆け上がる恐怖と、胸の奥で疼く微かな興奮が同居する。
彼の世界は、この瞬間、確実に変質し始めていた。
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【*** ⭕️ File_03: The Voyeur's Sweet Days ***】
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あの日、終電間際の車内で手に入れてしまった禁断の〈力〉。
それ以来、歩丸臣一は新しい玩具を与えられた子供のように、謎のサイトへと入り浸る日々を送っていた。
「human-ao44.com」
通勤電車の中で。
昼休みの社員食堂で。
業務中に席を立って逃げ込んだトイレの個室で。
そして一日の終わり、安物の缶ビールを片手に暗い部屋で独り過ごす深夜に。
スマートフォンの画面に映し出されるのは、同僚や上司たちの赤裸々な[履歴]だ。
それは週刊誌のゴシップ記事よりも生々しく、暴露系動画よりも刺激的な秘密の宝庫だった。
(田中のやつ…また部長に怒鳴られてやがる。学習しない奴め。ざまあみろ)
(鈴木さん、最近やけに羽振りがいいと思ったら…副業でかなり稼いでいるのか。FXで成功してるとはな)
(山田部長、奥さんに隠れて買った高級時計が昨夜ばれて大喧嘩…明細で露見したらしい。あの見栄っ張りが、家庭では尻に敷かれてるとはな。滑稽だ)
(へえ…地味で真面目ぶってる高橋さんが、週末は過激なコスプレイベントに参加か。しかも衣装は自作…人は見かけによらないものだな)
知れば知るほど、人間というものの裏表
——建前と本音、隠された欲望や弱みが手に取るように見えてくる。
そしてそれらの秘密を、自分だけが一方的に握っているという事実が、社会の底辺で鬱屈していた臣一に歪んだ優越感を与え、さらには神にも等しい全能感さえ芽生えさせた。
他人の人生を覗き見る行為は、いつしか彼にとって欠かせない心の安定剤であり、最高の娯楽となっていた。
おかげで、夜に飲む発泡酒の味さえ以前より甘く感じられるほどだった。
そして、この誰にも知られない「知識」は、現実世界での彼の立場を少しずつ、しかし着実に変え始めたのだ。
臣一はそこで得た情報を、日常生活の中で巧みに利用し始めた。
「田中君、この件だけど、こっちの資料も参照した方がいいんじゃないかな。部長、前の会議で『もっとマクロな視点からデータを分析しろ』ってぼやいてたし」
朝のミーティング。
臣一は、さも自分の経験からくる提案であるかのように装い、[履歴]で仕入れた部長の口癖をそれとなく口にする。
「あ…本当ですね。そういえば部長、そんなこと言ってました! さすが歩丸さん…よく覚えてますね。ありがとうございます!」
田中は目を輝かせ、素直に感心した様子でこちらを見る。
その視線には少なからず尊敬の色が混じっていた。
(ふん…俺はお前たちの全てを知っているんだ。もっと俺に頼るがいい)
別の日——。
「鈴木さん、この前の新システムの件ですが…一部、こういう設計もできると思うんです。確か以前…個人的にFXの自動売買ツールか何かを研究されているとか、小耳にはさんだんですが。その技術、応用できませんかね?」
午後のデスクワーク中、隣席の鈴木にさりげなく話しかける。
彼女の秘密——副業でFX取引をしている事実——を匂わせる意地悪な言い方をしてみた。
「…! え、ええ…まあ、その…趣味で少し…」
一瞬ギクリと目を泳がせ、動揺が表情に滲んだ鈴木。
しかしすぐに営業スマイルで取り繕い、話題を元に戻した。
「そ、それより歩丸さんの発想、すごく参考になります! 確かにその方法なら効率いいかも…ありがとうございます!」
(ふふ、やはり動揺したな。こちらは確信犯で探りを入れただけだが…まあいい。これで彼女には一つ貸しができた。いざという時に頼みやすくなるだろう)
また別の日。
「高橋さん、もしよかったらこれ…どうです? あなたが好きそうな画材を見つけたので。週末のイベントで使えそうかなと思って」
休憩時間、臣一は勤務先近くの画材店で事前に買っておいた品をさりげなく差し出した。
高橋が最近探していたもの
——[履歴]で知った高評価のニッチな画材セットだ。
「えっ!? これ…なんで…? ずっと欲しかったんです! ありがとうございます、歩丸さん!」
高橋は驚き、頬を紅潮させて無邪気な笑みを浮かべた。
「どうして私が探してたの分かったんですか?」
目を輝かせて尋ねてくる。
(彼女、コスプレ衣装づくりだけでなくイラストも本格的に描いていたとはな。履歴のおかげで喜ばれるなら悪くない)
相手の関心事を的確に突き、その悩みに寄り添う
——あるいは秘密に触れそうで触れない絶妙な距離感で助言や支援をする。
地雷は巧みに避け、好印象を得るためのツボを次々と押していく。
まるで人生という名のRPGで、全NPCの攻略本を手に入れたかのようだった。
地味で冴えず、コミュニケーション下手だと蔑まれていた臣一に対する周囲の視線が、明らかに変わり始めていた。
「歩丸さん、最近なんだか雰囲気変わりましたよね」
「うんうん、前より断然話しやすくなったというか…自信がついた感じだよね」
給湯室で、水を飲みながら雑談する若い社員たちの声が耳に入る。以前は臣一を嘲笑するような陰口ばかりだった彼らが、今や羨望混じりに噂している。
「実はこの前、仕様のことで相談したらすごく的確なアドバイスくれて助かっちゃってさ。前はもっと頼りない感じだったのに」
「分かる! 正直、昔はお荷物…って言ったら失礼だけど、ちょっと頼れない先輩だったよね。でも最近すごく頼りになるし、歩丸さんがいると安心するかも」
「うん、仕事も前よりスムーズになった気がする。見えないところで色々フォローしてくれてるんだろうね」
もはや耳に飛び込んでくるのは陰口ではなく、明確な称賛と感謝の言葉だった。
四十四年もの間、誰からも評価されることのなかった男に向けられる初めての尊敬の視線。
それは干からびていた彼の心に染み渡り、麻薬のように甘美な快感をもたらした。
自分が卑劣極まりない覗き見という手段で手に入れた情報だということは、頭の片隅で分かっている。
それでも、その心地よさから逃れることはもはや不可能だった。
——いや、それどころか、もっと評価されたい、もっと認められたい、もっと彼らの上に立って見下ろしたい
黒く粘つく欲望が、日に日に臣一の胸の内で膨れ上がっていく。
だが、そんな変貌の中であっても、臣一が頑なに守り続けるルールが一つだけあった。
——戸丸静香、社内で数少ない、自分に明るく接してくれる後輩社員である彼女の[履歴]だけは、決して見ないということ。
ある日、静香が屈託なく微笑んで言った。
「歩丸さん、本当に頼りにしてますからね!」
臣一はそのまっすぐな言葉を信じていたかった。
彼女との関係だけは、この得体の知れないサイトの力に頼らない、唯一無垢で本物の繋がりであってほしい
——そんな歪んだ願望すら抱いていたのだ。
もし彼女の[履歴]を見てしまったら? もしそこに、知らない彼女の顔や、自分への軽蔑が記されていたら?
最後の聖域まで汚され、全てを失ってしまう
——そんな恐怖が、彼を引き止めていた。
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【*** ⭕️ File_04: The Grudge and the Chain ***】
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社内での臣一の存在感が増し始めた矢先、その変化を苦々しく見つめる男がいた。
飯山浩二(いいやま こうじ)、46歳。肩書は係長。
能力ではなく社内政治とパワハラで地位を築き上げ、自分より立場の弱い者を支配し踏みにじることで自尊心を満たすタイプの人間だ。
そんな飯山にとって、歩丸臣一は長年都合のいいサンドバッグであり、格好の「お荷物」だった。
ところが近頃、その臣一が妙に仕事をスムーズにこなし、さらには女子社員の中でも飯山が密かに好意を寄せている戸丸静香から頼りにされ始めている。
この変化は、飯山の歪んだ自尊心と嫉妬心に火をつけた。
以来、飯山の臣一に対する態度は露骨に変わった。
これまでのような陰湿な嫌がらせに留まらず、明確な敵意と悪意に基づいた執拗な攻撃へとエスカレートしていったのだ。
「おい歩丸、またお前か!この前のバグ、不具合の原因はお前の設計ミスだってな。クライアントに多大な迷惑をかけてくれたじゃないか。反省文を書いて今すぐ提出しろ」
朝のオフィスに飯山の怒号が響く。
(違う…! 俺の設計ミスなんかじゃない! 今回もあれは飯山係長が口頭で無茶な仕様変更を押し付けてきたせいだろう!)
臣一は喉まで出かかった反論を必死に飲み込んだ。
拳を強く握りしめ、悔しさに唇を噛みながら深く頭を下げる。
「…申し訳ありませんでした」
結局、今回もそれ以上何も言えず、何度も頭を下げるしかない。
屈辱に顔が引きつるのが自分でも分かった。
「歩丸、お前、今日は一日これをやっとけ」
そう言うなり、飯山は分厚い紙束を乱暴に臣一のデスクへ叩きつけた。
「過去5年分のプロジェクト書類の電子化だ。スキャンしてファイル名つけて所定フォルダに保存しろ。単純作業だが…お前みたいな地味な作業しか能がない奴にはお似合いだろ? 期待してるぞ」
(……! 5年分…!? どう考えても一人で今日中に終わる量じゃない! そもそもこんなの俺の業務範囲外だ。他の担当者は何をしているんだ!?)
「係長、申し訳ありませんが…これだけの量は、とても定時までには…他の業務もありますし…」
「何だ?」
飯山がギロリと睨む。
「やる気がないのか? 最近ちょっと仕事ができるようになったからって調子に乗るなよ。女子社員とヘラヘラ喋ってる暇があるなら、さっさと手ぇ動かせ、この役立たずのお荷物が…あ、臣一君だったな」
わざと名前を呼び間違え、嘲笑うように訂正してみせる飯山。
その唇にはサディスティックな薄笑いが浮かび、蔑みきった目で臣一を見下ろしていた。
煮えたぎる怒りで、臣一の全身に血が逆流するような感覚が走る。
視界が真っ赤に染まりそうになるのを必死でこらえ、震える拳を何とか堪える。
飯山による容赦ない攻撃の数々
——それは既に常軌を逸し、臣一の尊厳を徹底的に踏みにじる悪意の儀式と化していた。
重要な会議から故意に臣一を外す。
臣一が苦心して成し遂げた成果を、自分の手柄として横取りし上司に報告する。
他の社員の前で、些細なミスを必要以上に大げさに喧伝し、大声で罵倒する。
飲み会に無理やり連れ出し、延々と説教を垂れた挙句、人格否定に等しい言葉を浴びせて悦に入る。
飯山のパワハラは日を追うごとにエスカレートしていった。
臣一の心は、もはや限界寸前まで追い詰められていく。
食欲は消え失せ、夜もほとんど眠れない。
憔悴した顔にはクマが濃く刻まれ、肩は落ち、声も小さくなっていった。
せっかく上向きかけていた周囲からの評価は、一転して同情と憐れみ交じりの囁きに変わっていく。
「歩丸さん…大丈夫ですか? 顔色、すごく悪いですよ。無理しないでくださいね。何か私にできることがあったら言ってください」
心配そうに声をかけてくれたのは戸丸静香だった。
誰よりも純粋な善意を向けてくれる彼女の笑顔。
しかし、その優しささえ今の臣一には痛かった。
飯山のせいで、彼女との何気ない会話を交わす時間すら気まずく罪悪感で汚されてしまったように感じるのだ。
(…なぜだ。なぜ俺がこんな目に遭わなきゃならない…!)
その夜も、臣一は鬱屈した思いを抱え眠れぬままスマホに手を伸ばした。
いつものようにサイトにアクセスし、煮えたぎる憎悪と共に飯山の[履歴]を貪るように読み漁る。
不倫の記録、裏金工作の痕跡、部下への罵詈雑言……飯山の醜い秘密や弱点は山のように転がっていた。
だが、それらを握ったところでどうすればいい?
どう使えばあの男を失脚させられる?
匿名で社内のコンプライアンス窓口に内部告発するか?
…無駄だ。証拠もなしに訴えたところで相手にされないだろう。
下手をすれば、情報源を嗅ぎつけられ、飯山の報復がさらに激しくなるだけだ。 [履歴]で覗き見できても、現実を直接変えることはできない…。
その無力感が、かえって臣一の憎悪に油を注いでいくのだった。
怒りは限界を超え、絶望と渇望がない交ぜになったある深夜。
疲労困憊の体をベッドに投げ出し、虚ろな目でスマホ画面に飯山の履歴を睨みつけていたその時だった。
端末が不意にブルッと震える。 LINEの新着通知
——送り主は、「⭕️」。
『拡張機能を追加しました。使用には限定解除が必要です。』
(…拡張機能を追加…? 限定解除…?)
臣一は反射的にサイトのトップページに戻った。
画面上部のメニューを見ると、「Guest」の項目の横で小さな「New」のラベルが点滅しているのに気づく。
恐る恐る「Guest」を開いてみる。
自分の情報が表示される画面だ。
以前は自分のプロフィールと履歴が載っているだけだったはずが、今はその下に見慣れない4つのボタンが灰色の背景で横一列に並んでいる。
[追加] [編集] [削除] [操作] (※いずれも灰色で表示)
(…! なんだこれは…? 「追加」…「編集」…「削除」…「操作」…?)
臣一は震える指で、一番左の灰色の[追加]ボタンに触れてみた。
すると画面中央に警告のようなポップアップが表示される。
『追加機能の限定解除には1鎖が必要です。使用しますか?【Y/N】』
(「1鎖」…? 単位が鎖…どういう意味だ? 何かの代償か…リスクか…それとも単なるポイント制か?)
馴染みのない単位表記に戸惑いつつ、「追加」という言葉の意味を考える。
(…履歴を閲覧するだけじゃない。もっと直接的に能動的に他人の人生に…いや、自分の人生に介入できる機能が追加されたというのか?)
まるで臣一の憎悪が極点に達したことで、サイトに眠る新たな〈力〉が目を覚ましたかのようだった。
(もし…もしこの力で、飯山の人生を——破滅させられるとしたら…?)
未知の機能、聞き慣れない単位。それは何らかの危険を警告しているのか? それともゲームのスキル解放のようなものなのか?
臣一の指先は激しく逡巡した。未知の力には未知のリスクが伴う
——理性はそう警鐘を鳴らす。
だが、脳裏にちらつく飯山の嘲笑う顔、浴びせられた侮辱の数々、そして鏡に映った自分のやつれ果てた惨めな姿…。
もはや、失うものなど何もない。
「……頼む……!」
半ば自暴自棄の祈るような思いで、臣一は意を決し【Y】とタップした。
次の瞬間、自身の情報画面に表示されていた[追加]ボタンの背景色が灰色から鮮やかな緑色へと変わった。
他の[編集][削除][操作]ボタンには変化がない。
(…解除されたのか…? これで…)
そう思った直後、再びLINEの通知音が鳴った。送り主は「⭕️」。
『Helpが更新されました。』
慌てて「Help」メニューを開く。先ほどまでの説明文の下に、新たな項目が追記されていた。
📝各名前横の[追加]ボタンをタップすると、対象者の履歴の末尾に未来の出来事を一件だけ追加できます。
・☑︎ 追加の投稿は1日につき3回まで行えます。
・☑︎ 直接的に「死」を連想させる表現を含む内容は追加できません。
・☑︎ 現実に物理的不可能な事象の追加はできません。
・☑︎ 投稿した内容の取り消しや上書きはできません。
・☑︎ 追加した履歴の効果が現実に反映されるのは投稿から21時間以内です。
表示された利用ルールを読み終えたとき、臣一の口元には歓喜と狂気が綯い交ぜになったような笑みが浮かんでいた。
──最後までお読みいただきありがとうございます。
File_00〜04の再録版、いかがでしたか?
▶ 続きはこちら → File_05: The Joy of Revenge
飯山に復讐する回となっております。
この世界に、もう一歩、踏み込んでみませんか。
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