キギスの明敏

藤本ゆうり

第1話 危なくて新しい仕事

     1


 らせん階段を下りていくと、鏡でできたドアがあった。目の前に構えるそのドアには、やはり僕がうつっている。ドアノブもなく、押戸なのに、指紋の一つも見うけられない。羊革の手袋をはめて、中へ入った。

 ドアベルが鳴って、カウンターに立つ一人の男性が、こちらへと微笑む。男性の後ろの棚には、花柄のカップが百花繚乱といった感じで並べ立てられていた。コーヒーの香り。どうやらここは喫茶店らしい。カウンターへとゆっくり歩き、

「ここで待ち合わせているものなのですが」とカウンターの男性に尋ねた。

 男性は優しい視線を向け、やんわりとした落ちつく声音で、

「言葉をお持ちでないですか?」と言った。

 僕は思いだすのに手間取り、数秒間経ってから、

「人も惜し 人も恨めし あぢきなく 世を思うゆゑに もの思ふ身は?」と、疑問符をつけて言った。言ったことの意味は分かるようで、分からなかった。

「ここを通り、9と書かれたドアに入ってください」

 男性は道を指で示してくれた。僕は感謝を伝え、その道を歩いていった。

 やがて、9と書かれたドアが目についた。A4の白紙にマッキーペンで太く9と書いたものが、セロハンテープで傾けて貼られていた。僕は一度だけ思いきりドアを蹴ってから、なかへ入った。

 そこは個室になっていた。一つのテーブルを挟み、対面には女が座っている。綺麗な黒い髪をポニーテールに結って、蝶ネクタイの付いた薄桃色のブラウスを着、ネイビーブルーのブレザーを羽織っている。上品さある着こなしだが、どこかで親近感を覚える。それはやはり年齢が同じ17歳ということもあるのだろうが、その女が、不満のあるような目をし、ジャンケングーの手を頬に押し当て、机に肘をついていることからくるものでもあるのだろう。怒る人には親近感を覚える性質なのだ。

「遅刻だよ。ナインティ―ナイン」とサードが呆れた声音で僕にいう。

 サードとは何度か連絡をとったことがあったが、女性だったとは初めて知った。それも飛びきりおしゃれな女性だとは。学園の生徒でもここまで自分を理解している人はいないだろう。

「ここに初めて来る人は、誰だって遅刻するだろうよ。三時間前にホームを出た僕が遅刻したのだから間違いないはずだ。あの迷路そのもののような道は何だい? ここまで厳重にする必要はあるのかね」僕は椅子に座る。「ただ遅刻したことについてはすまなかった。もう道は憶えたから、迷うことはない。これからは遅刻しないよう善処する」

「確かにね。善処してちょーだい」とサードは腕を伸ばすと同時に、背をもたせかけ、そして力を抜いた。そしてちょっぴりの笑顔を僕に見せた。「私はノアっていうの。よろしくね」

 僕は驚いた。

「それは本名じゃないのか?」

「ええ、そうよ」

「僕に本名を教える意図はなんだ」

 ノアは考える素振りを見せる。言葉を選び、頭で文章を組み立てているようだった。

「あまり勘ぐらないで、私はもっとカジュアルにやりたいの。番号で呼ぶなんて、かたっくるしいでしょう? 今日、運よく君が遅刻してきてくれたおかげで、私は君をちょっと下に見れる。そして君はもともと私を、いや、他人を下に見てる。つまり、私たちは互いに互いを下に見ているわけだ。そういう関係って、カジュアルなものにしやすいと思わない?」

 ノアは含みのある笑顔を浮かべた。

「メールの文面では、ハリケーンのような思い込み気質を持つ女性だとは思わなかったよ」

「成員のナインティーナインパーセントは無条件に他人を下に見る手合いで構成されているけれど、君はナインティ―ナインという呼び名でありながら、そこには属してないといいたいんだね?」

「他人には興味がないからな」

「そっ、君のことがとても気に入りそう」

「僕は君がとても気に入らない」

 壁にかかっていた電話機をとり、コーヒーを注文すると、すぐに届いた。黒いユリを柄にした、格好のいいカップを持って、ひとしきり香りを楽しんだのち、口をつけた。

「だが、名乗られた以上、僕も名乗る必要があるな」

「偽名でもいいよ。でも長いのはやめてね? せめてナインティ―ナインよりは短く」

「もしかして君は僕のその呼び名をとても気に入っていたりするのかな?」

「君が気に入っているの」

 ノアのしのばせている香水の匂いが急に感ぜられるようになった。

「そうだな。偽名にしよう。僕は名前に縛られる人生を送ってきた。ここらで新しい名前にするのも悪くない。今に作ろう。何か案はあるかな?」

「人任せ?」

「名前は人に付けてもらうものだろう。なすらない責任のように。それとも、ノアは君が名付けたのかな?」

 ノアは肩をすくめ、やや微笑んだ。そして一つため息をつくと、

「じゃあ。光、光にしよう」と言った。

「迷いがなかった。どういった意図が?」

「私の昔のボーイフレンドの名前」

「おっと、感傷的な話になりそうだ」と僕は言った。「実際的な話に軌道を修正しよう、ノア」

「そうね、光」とノアはそのときようやく、明るい笑顔を見せた。

 ノアは壁に取りつけられた電話機を手にとり、チーズケーキとコーヒーを注文した。そして鋭角三角形のチーズケーキとコーヒーが、やはりすぐに届けられた。ノアはフォークを使って、チーズケーキの先端から順にすくい、口へ運んでいった。

「まずは、光がどれだけこの組織のことを知っているか、確かめたいわね。これは君が本当に成員なのかどうかを確かめる意図も含む」とノアはいった。「組織の名前から訊いておこうかな。もっとも、私には光が成員であることはすでに分かっているけれど。これで成員じゃなかったら、私は文字通り失意のどん底に沈んでしまうかも」

「僕がこれから足を突っ込む予定なのは、『キギスの明敏めいびん』という危ない組織だ」

「正解で満点」とノアは小さく拍手した。「『キギスの明敏』は、『赤くなったカブトムシ事件』がきっかけで弱体化した警察の捜査権を補助するために結成された組織。という建前で、実際は補助なんて程度じゃなくて、なんでも屋なんだけど、存在自体がシークレットだから、名前が挙がらない。挙げたら殺されるから、みんなその名を挙げることはない。危ない組織、そう、違法が横行する危ない組織だよ。そして奇妙なルールが三つある」

「一つ、未成年が捜査を行わなければならない。二つ、他の成員が務めている事件を知ってはならない。三つ、組織の情報を成員以外にもらしてはならない」

「いいね」とノアは言う。「ところで、光の初任給はいくらだった?」

「どうしてそんなことが気になる?」

「君は理由や意図を訊くのが好きみたい」

「分からないときは、慎重にならないといけない。特に危険なものの近くにいる場合には」

「そうね、確かに、人として正しいと思うわ」とノアは言う。「初任給を訊くのはね、成員のある種の自己紹介でもあるの。だってほら、私たちの組織の初任給って、労働して始めて手に入るものではなくって、将来にどれだけの有能な働きをしてくれるのか、という期待の額じゃない? 高ければ高いほど、その人が組織から優秀だと判断されたことになる」

「なるほどな」と僕はぽつりと呟いた。「300万だ。ノアは?」

「驚いた。私と同額の人なんて初めてみたから」

「高い方なんだな」

「少なくとも、私がこれまで会った成員の中では二番目に高いわ。光は相当、ボスに買われているのね」

 ノアはチーズケーキを平らげて、ようやくカップに手をつけた。コーヒーは、すでに冷めているように見えた。飲んでいる最中、むずかしい顔をしていたノアは、音をたててソーサーにカップを戻すと、脇に置いていた鞄からガラケーを取りだした。鞄から、ちらりと黒いパソコンが見えた。ガラケーは机に置かれ、そうっと僕の方へ寄る。

「これからは、これにボスから連絡が来る。私に連絡したいときも、この端末を使って」

「ありがとう」

「私はハッカーだから、お金を払ってくれれば協力してあげるよ。『キギスの明敏』へようこそ。歓迎するわ、ナインティ―ナイン」

差しだされた手を、僕は握った。手袋をはめたまま。

「ボスが相手なら死んでたよ? おまぬけさん」とノアはにやりと笑い、言った。

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