鹿が云うには

大和弥尋

第一話 若草山

 暖かくなると山を登りたくなるのはなぜだろう。


 寒い冬はどこへ行くのも億劫で、その反動でどこかに出かけたくなるのかもしれない。といっても近場で行ける楽しいところなど、この奈良にはほとんどない。あるのはだだっ広いだけの何のアトラクションもない、観光客と鹿がひしめく奈良公園くらいだ。


 しかし僕は数年前、小学生でも楽しめそうな、良さげな場所を見つけた。それが奈良公園の奥にひっそりと佇む小さな山である。


 こんもりした小さな山。ピクニック気分で登れるような小さな、それでも盆地に広がる僕たちの町は一望できるくらいには高い、そんな山。僕らはそれを若草山と呼んでいる。ここも知る人ぞ知る観光場所にもなっているみたいで、休日だとぽつぽつ人はいるみたいだった。


 小学生にとっても険しくなくてすぐに頂上に行けるその山は、僕のお気に入りの場所になっていた。自分だけの秘密基地を持ったような感覚である。難なく頂上まで辿り着いたらそこでしばらく町を眺めながらのんびりするのだ。この時間が好きなのだ。


 その日の僕も受付の人に80円を払って、踏まれ慣れた石の階段を登っていた。春の空は雲で覆われ、昼過ぎにしては少しだけ暗い。冬ほど寒くなく、夏ほど暑くないちょうど良い気温で、絶好の山登り日和と言えよう。


 頂上には数十分とかからずについた。平日で人もいなかったからか、道が混雑することもなかったためすいすいいけた。見渡す限りの緑。どうやら僕しかいないらしい。


 と思ったら先客がいた。鹿だ。生まれたてなのか随分と小さい。春は鹿が生まれやすいと聞いたことがある。これもそのうちの一匹なのだろう。それでも親鹿が近くにいないまま孤立して行動しているのは珍しい。


 鹿は僕の存在に気づいても表情ひとつ変えず、のそのそ近づいてきた。生まれたてでも人間は危険じゃないと遺伝子レベルで認識されているのだろうか。なんとも不思議だ。


「こんにちは」


 鹿が話しかけてきた。これはもっと不思議だ。どうやって話しているのだろう。


「こんにちは・・・・・・」


「お先にくつろがせていただいてます」


 とても礼儀正しい鹿だ。よくよく考えてみれば鹿はとても賢い生き物だということを忘れていた。横断歩道はちゃんと信号が青の時に渡るし、人に会った時は深々お辞儀するし、せんべいを買ったお客さんには精一杯楽しんでもらおうとちっとも美味しくないそれを美味しそうに食べてあげるのだから。あの無表情ともいえる顔つきからはとても気品で高尚なものを感じていた。


「君は生まれたばかり?」


「ちょうどひと月前、鹿として生を受けました」


「そうなんだ。たくさん食べて元気に育ってね」


「はい。ほどほどに食べ、ほどほどに寝ようと思います」


 僕らは町を眺めていた。僕はこのお気に入りの場所を見つけるのに何年もかかったのに、この鹿は生まれて一月で見つけてしまうのだからすごいと思った。鹿は潤った目をプルプルさせながらその景色を眺めていた。その表情からはやっぱり何も読み取れなかった。


 しばらくその景色を眺めた後、そろそろ下山しようと立ち上がった。予定より早かったけど、その日は曇っており夕立が気になったのだ。


 入口と頂上とを結ぶ道は整備された石段と自然にできた階段とも呼べない段差と二つの道がある。僕はいつも行きとは違う道を帰る時に選んでいた。登り降りで別の景色を見れるのは楽しいからだ。


 そういえばあの鹿はどうするんだろう。階段を使うのか、それとも傾斜を利用して滑って降りるのか。気になったけれど人間が聞くのは烏滸がましいことなのかもしれないと思い、そこで考えるのをやめた。


 帰り際、鹿に軽くお辞儀した。向こうは草を齧るのに夢中でこちらを向いていなかった。

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