人事部の閻魔さん
西蔦屋 和浩
第一章
屋上から飛び降りたはずなのに、僕は今、人事面接を受けている。
数十分の前のことだった。生きる気力を完全に失い、僕は百貨店の屋上へと向かっていた。
閉店前の百貨店の屋上、無人だった。僕は鞄を投げ捨て、柵へ足をかけた。わずか三十センチメートルの足場にたち、深呼吸をする。目の前には憎たらしいほど煌びやかな夜景があった。
風が強く吹いている。まるで、僕の背中を押しているようだった。もう、死んだほうがいいと、神様も思っているに違いない。ゆっくりと息を吐いて、僕は飛び降りた。痛覚が走る瞬間に僕の意識は消えた。
のはずだった。気がついたら、僕はなぜか橋の前で倒れていた。
おかしい。確かに、死んだはずだ。どうやっても、あの高さが生きることは不可能だ。両手を見ると、血で手が黒ずんでいた。ワイシャツも汚れている。間違いなく死んでいる。
どうして? 僕は周りを見渡した。目の前には大きな橋がある。とても横幅の広い橋だ。橋には人が歩いていて、どこかに向かって歩いている。まるで何かに吸い寄せられるように。
橋名板をよく見ると『三途川・黄泉橋』と書かれていた。
「ここって三途の川……?」
あまりにも三途の川のイメージとかけ離れて過ぎて頭が追い付かなった。よく話に出てくる三途の川のイメージは、花畑に囲まれた風景で、鳥が飛び交い、さえずり、眼鏡橋を渡っていくものだと思っていた。
でも違っていた。長閑な雰囲気とは違い、靄がかかった雰囲気だった。橋の向こう岸には摩天楼が見える。見るかぎり現世の都会と遜色がなさそうだ。そして、人の喧騒がなかった。不気味なほどの静寂がこの空間を支配していた。
とりあえず、僕は周りの人と同じように橋を渡り始めた。周りの人も戸惑いつつも橋を歩いている。彼らも僕と同じ死んだ人間なんだろうか。もしかしたら、夢でも見ているのだろうか。夢にしては鮮明過ぎる。改めて死んだかどうかが全く分からなかった。
しばらく、橋を渡っていると、ひとつの建物が見えてきた。この先の道を塞ぐように、ずっしりと建っている。どうやら、死んだらしき者はここを通るみたいだ。おそらく「あの世」の入り口だと思う。ここに入れば、もう現世から戻ることはできないだろう。やっと解放されるのだ。
橋の終点には、高層ビルが建っていた。本当にここが現世ではないかと勘違いする程の立派なビルだった。靄で最上階が見えない程高かった。
――全部、オマエのせいなんだからな。
ビルを見たせいか、唐突に嫌な出来事がフラッシュバックした。ここまで来て、まだ僕の心を抉るのか。でも、そんなことはどうでもいい。もう死んだんだ。このクソみたいな世界から逃げ出して自由になったんだ。僕は足早にビルに入った。
「いらっしゃいませ。ようこそ、サンズリバー・カンパニーへ。この度は現世のお勤めご苦労様でした。どうぞこちらへご案内致します」
ビルの中に入ると、声高らかに淡いピンク色の制服を着た受付嬢が声をかけてきた。僕は受付嬢にされるがまま、エレベーターホールに案内された。
なんだ、三途川株式会社って? 僕は死んだはずだぞ。本当に夢ではないだろうか。僕は試しに頬を思いきりつねった。痛い。夢じゃないなら、この状況は一体何なんだ。
「あの、ちょっと聞いていいですか?」
「はい。どうぞ」
受付嬢はにこやかに応えた。
「ここって『あの世』ですよね? 僕って死んでますよね?」
受付嬢はその質問が来るのかが分かっていたように、笑顔で答えた。
「はい。もちろんでございます。ここは死者の皆様が来る黄泉でございます。そして、ここは黄泉に存在する唯一の会社、サンズリバー・カンパニーでございます。死者の皆様にはここで働いてもらいます。これから採用担当と面接を致しますのでよろしくお願い致します」
「ちょ、ちょっと待って下さい。ここで働くんですか? 死んだのに働かなくちゃいけないんですか?」
突然のことで僕は混乱した。受付嬢は何も答えない。エレベーターが到着し、中へ入らされた。受付嬢は四十三階のボタンを押した。わずか数十秒で四十三階のフロアに着き、受付嬢は部屋へ案内した。フロアはまるで高級ホテルのような重厚感がある扉が並んでいた。
「こちらになります」
受付嬢に案内された部屋は『面接室四三三〇』とう角部屋だった。
「こちらに採用担当者がいます。私はここで失礼致します。では、面接頑張ってください!」
「僕はいったいどうすればいいんですか?」
僕は受付嬢を呼び止めた、受付嬢は僕の呼び止めに嫌な顔をすることなく、また笑顔で答えた。
「面接は採用担当の質問で答えるだけでございます。貴方様がこれまで歩んできた人生を採用担当者に話すだけです。何も不安がることはございません」
「人生について話すと言っても、僕には人に話せる人生を歩んではいないですよ」
僕がそう言うと、受付嬢は笑顔でお辞儀をしていって去ってしまった。
長い廊下で僕は立ち尽くしていた。どういうことなんだ、面接って。人生を語る? 僕は人生が嫌になって、死んだはずなのに。
しばらく扉の前で僕は考えこんでいた。周りの部屋からは人が出入りする気配がなかった。
あまりにも異様な感じがしたので、諦めたように扉をノックした。
ノックをすると、どうぞ、と女性の声がした。失礼します、と僕は部屋の中へ入った。
部屋に入ると、社長室のような厳格な雰囲気の空間が広がっていた。広いワンルームで高級感漂う木製の机があり、その机の上には大きなディスクトップのパソコンが置いてあった。そして、背もたれがついた黒い革製の椅子に座った女性が涼やかな表情で僕を迎えた。
年齢は二十代後半だろうか。いかにもキャリアウーマンのような出で立ちだった。長い髪は後ろで留めていて、黒いスーツを着こなしてネクタイをしている。そしてなんといっても美人だった。無駄のない顔のライン。綺麗な鼻筋、切れ長の美しい目元。僕は一瞬で目を奪われた。
「どうぞ、こちらにお座りください」
凛とした声に促されて、僕はぽつんと置かれているパイプ椅子に座った。豪華な部屋になぜか質素なパイプ椅子が置かれている風景に違和感があった。
「ようこそ、サンズリバー・カンパニーへ。私は採用担当をしております、人事部の閻魔と申します」
「え、閻魔って……、あの閻魔大王ですか!?」
僕は前のめりになって訊いた。閻魔大王と言えば、地獄の番人であり死んだ者は彼の裁きで、どの地獄へ行くのかを決める。鬼のような形相で、道服を纏い、笏を持っているのが閻魔大王のイメージだ。そんなイメージからかけ離れて、今、僕は目の前で『閻魔』と名乗っているのはスーツを来た面接官だ。
「私は閻魔大王ではありません。閻魔という名前の採用担当です」
閻魔さんは僕の驚きに気にすることもなく、冷静に答えた。
「じゃあ、ここはやっぱり地獄なんですか?」
「それも違います。ここはサンズリバー・カンパニーの人事部なので、地獄ではありません」
閻魔さんは柔らかく否定した。
「でも、なんでスーツなんですか?」
「スーツが問題ですか? この姿は死者の皆様に受け入れ易くするようにしています」
むしろ逆効果だと思う。未だに自分が死んだかどうかさえ自覚ができないのに。そんな事も気にせずに閻魔さんはパソコンを操作した。しばらくパソコンの画面を眺めてから、僕の方を見た。
「では、これから面接を始めます」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
閻魔さんが面接を始めようとしたいので、僕は思わずパイプ椅子から立ち上がった。
「どうされました?」
閻魔さんは不思議そうに僕を見た。
「僕、なんで面接を受けなきゃいけないのか、分からないんです。死んだ後に、急にここに連れて来られて、いきなり面接だなんて……、どういうことか説明してくれませんか?」
閻魔さんは僕の顔をまじまじと見た。少し間が空いて、閻魔さんは口を開いた。
「そうですね。確かに、貴方のおっしゃる通りです。失礼いたしました。では、説明いたしましょう」
閻魔さんは椅子に座り直して説明を始めた。
「サンズリバー・カンパニーは死者の皆様は必ずここに来て、採用面接をさせていただきます。現世との採用面接の違いはただひとつ。ここは採用率百パーセントの会社です」
採用率百パーセント。就職活動をしていたら間違いなく怪しさを感じてしまう謳い文句だ。
「あの、採用率百パーセントのならどうして面接を受けなければならないのですか?」
「それは、これから貴方がどの部署に配属されるか為に、面接をする必要があるのです」
「部署って?」
「三途川株式会社には主に大きく二つの部署に分かれます。それが、天国部と地獄部です」
「天国部と地獄部……」
「天国部は、この建物の上層のフロアで働いてもらいます。ひとりひとりに住居が与えられ、有意義な生活が約束されます。地獄部はこの建物の地下深くの冥府領というと場所で働いてもらいます。文字通り、地獄の仕事をして頂きます」
どちらの部署に行っても働くという事が理解できなかった。閻魔さんはさらに話を続けた。
「ですが、ここに来た時点で、あなたは地獄部行きが決定しています」
「……、は?」
どういうことだろうか。この時点で地獄部行きが決定しているのであれば、面接なんて意味がないじゃないか。そう思っている矢先に、閻魔さんが説明を付け加えた。
「私たちのこのパソコンには死者の皆様の生前のデータが入っています。皆様の生前の行いを私たちが点数化します。合格ラインは百点中五十点を越えれば天国部の配属が決まります。しかしながら基本人間は、小さな罪を積み重ねているので、減点されて死んだ時は死者の九割近くが地獄部行きとなります」
僕らに点数をつけて区分けする。死んだ後も評価されることに僕は嫌気がさしていた。
「最初から天国部に行ける人は稀有な存在です。しかし、これだとあまりにも理不尽なため、救済措置として面接を設けています」
「それで、その面接で何を判断するんですか?」
「面接を通してあなた本来の人間性を総合的にみて、加点、減点を行います。その結果の基に天国部、地獄部への配属を決定します。ここまでは分かりますか?」
分からないわけではない。さも、当たり前に話している感じが癪に障った。
「やっぱり、どうしても働かなくちゃいけないんですか?」
閻魔さんは、一瞬、僕を一瞥したあと、また淡々として答えた。
「そうですね。黄泉では死者の皆様のお力が必要です。働いて、この黄泉で役に立ってもらいたいのです」
役に立ってもらいたい――。その言葉を聞いて僕はなぜか、閻魔さんに見透かされたような気がした。まだ出会ってから数分しか経ってない。僕の全てを知っているはずがない。
「それと、注意点ですが、天国部に行きたいが為に嘘をつく死者の皆様がいますが、嘘をついても無駄となります」
「嘘が分かるのですか?」
「もちろん。私たちは本来人間ではありませんので、嘘を見分ける能力を持っています」
現世の面接官より、圧倒的に厳しい。まだ圧迫面接の方がマシだと思ってしまった。
「説明は以上です。不明な点があれば、説明を続けますがいかがでしょうか」
僕はまだ納得がいかない。でもきっと、閻魔さんは僕が納得するまで、毅然とした態度で説明を続けるだろうと思った。
「いえ、大丈夫です……」
僕は首を横に振った。閻魔さんはパソコンを再び操作した。
「それでは、面接を始めます」
「まずは、お名前と年齢、職業などあればご紹介お願い致します」
「境一生といいます。二十三歳です。職業は、広告代理店の営業をしていました……」
「ありがとうございます。では、境さん。死因はなんですか?」
突飛な質問に僕は戸惑った。
「死因ですか?」
「境さんが、どのように死んだか知りたいのです」
閻魔さんはためらいもなく平然としていた。
「そんなの知る必要がありますか?」
「ええ。基本的な情報ですので。教えていただければ助かります」
閻魔さんは僕が答えるのを待っている。
「死んだ理由は、百貨店の屋上から飛び降りました」
僕は嫌々ながら答えた。自分の死んだ理由を話すなんて、何だか気色悪い。
「なるほど自殺ですね」
現世の面接のように閻魔さんはメモを取り始めた。
「ちなみに、何階から飛び降りましたか? 覚えている範囲で結構ですので」
「階数ですか? それも必要なんですか?」
「はい。階数によって境さんがどれほど死にたがっていたのかの指標となりますので」
「よく覚えていないですけど、多分、九階だと思います」
僕はぶっきらぼうに答えた。
「なるほど。よほど死にたがっていたんですね」
閻魔さんは納得してまたメモを取った。こんな事を聞いて意味があるのだろうか。
「それでは、境さんが今まで、どんな人生を歩んできたか教えて頂けますか」
また特異な質問に僕は眉間に皺を寄せた。どんな人生を送ってきただって? そんなのあるはずがない。そんなのがあったら死んでるはずがない。
「境さん。どうされましたか?」
無言が流れ、閻魔さんが気にかけてきた。淡々とした口調が妙な圧力を感じる。
「ありません……」
「はい?」
「どんな人生を送ってきたかったって? ありませんよ、そんなの。僕は存在してはいけない人間だったから死んだんです。それだけです」
思い出したくもない。僕は初めて自分の存在意義を失った。頑張ったのに、報われない。それで、罵声を浴びせさせられる。
――仕事舐めてんの?
――あーあ、なんでこんなヤツが来ちゃったんだよ。
――お前は歴代で最もダメな営業だよ!
この社会は理不尽だ。真面目に頑張っている者が必ず痛い目に遭う。ずる賢い者だけが生き残れる世界。それを知って僕はもうどうでもよかった。だから死ぬことを選んだ。
閻魔さんは僕の様子を見て察したのか、ペンを置いて話し始めた。
「境さん。どんな人間でも必ず良いことと、悪いことがあります。だから語れない人生なんて私は有り得ないと思っています。私は境さんがどんな人生を歩んできたか、なぜ自殺を選んでしまったのか。という事を知りたいだけなんです。だから、私に――」
「どうでもいいじゃないですかっ!!」
僕はパイプ椅子から立ち上がった。死んでからお節介がすぎる。
「もう、僕は死んだんです! 自分の人生を語る? そんな美談めいた事を淡々と話せますか? 中には僕みたいな生きることに絶望した人だっているんですよ! それなのに、なんでこんな淡々と質問が出来るんですか? あんた、狂っているよ!」
今まで溜まっていた憤りを一気に閻魔さんにぶつけていた。閻魔さんは動じることもなく、静かに僕の言葉を受け止めているようだった。
「分かりました。……ならば、直接〝視る〟ほうが早いですね」
閻魔さんは椅子から立ち上がり、僕の方へ近づいた。
「視るって何を……?」
意外に背が高かった閻魔さんの姿に僕は少し驚いた。閻魔さんは僕の両肩を優しく掴んで落ち着かせるように、パイプ椅子へ座らせた。
「これから、境さんが死に至るまでの過程を視ます」
「過程?」
「私たちの人事部の採用担当にはもう一つの能力があります。それは、死者の記憶に入る事です。死者の記憶に入る事で、歩んできた人生を体感することができます。本来は境さんの口から話して頂ければ大変ありがたいのですが……、時間も無いので直接視ることにします」
閻魔さんは後ろで留めていた髪を解いた。ふわりと妖艶な香りが漂った。そして、僕の頭の上に軽く手を置いた。
「では、入ります」
ちょっと待って、と言おうとした瞬間、頭に何かが吸い込まれる感覚と同時に僕は意識を失った。
僕は何者になりたいのだろう。僕は将来、何をしたいのだろう。
そう思うようになったのは、親友がある日こんな事を言い始めたのだ。
――芸能界に入るんだ。
中学卒業の直前に突然告げられた。オーディションに受かった、来月からは東京に行く、もう会えないと。
びっくりした。つい最近まで一緒に過ごしていた親友が来月から別の世界の人になるなんて。現実感がなかった。僕は、おめでとう、頑張って、応援しているよ、しか言えることが出来なかった。
別に世の中をあっと言わせてやろうとか大層な夢があるわけでもない。ただ、焦りだけがじわじわと心の中を埋めていった。
あの時から僕はずっともがいていた。
『面接の結果、今回の採用は見送りとさせていただきました。今後の就職活動をお祈り申し上げます』
何度目のお祈りメールだろう。大学四年生の冬、僕は未だに就職活動をしていた。就職活動が始まった頃はたくさんの企業に足を運んで面接を受けたが、思うように上手くいかない。何度面接を受けても通らない。御社に入りたい、御社強く志望しています、と思ってもないことを面接官に伝えてばかり。面接官は僕を見透かすように次々と不採用の烙印を押していく。
大学の友人たちはSNSで採用通知を貰ったことを投稿する。それを見る度に僕の焦燥感は加速するだけだった。
都内の複合ビルで行われた企業の説明会が終わり、エントランスでスマートフォンを開くと着信履歴が一件残っていた。僕は電話を折り返した。
「はい。アド・シティトウキョウでございます」
「あ、私、東専大学の境と申します。お世話になっております」
電話に出たのは、二週間前に最終面接を受けた、中堅の広告代理店だった。初めて最終面接に行けた企業だったので、その結果の連絡だとすぐに察した。
「境様ですね。いつも大変お世話になっております。先日は弊社の最終面接を受けて頂きありがとうございます。今回は最終面接の結果についてお電話させていただきました」
僕は息を呑んだ。周囲の音がどんどんミュートされていく。これがダメだったら就職浪人になろうかと覚悟していた。
「面接の結果。四月から境さんと一緒に働きたいと決定致しました。四月からよろしくお願い致します」
「本当ですか……!」
一気に安堵感が広がっていくと同時に喜びも湧き上がってきた。
「ありがとうございます! 四月からよろしくお願いします!」
嬉しくて人目も憚らず、僕はガッツポーズをした。長い就職活動に終わりが告げられた解放感に僕は浸っていた。外に出ると雪が降っていた。僕の内定を祝福するように、ふわりふわりと舞っていた。
雪から桜吹雪へ変わった四月。これから社会人として新たな一歩を踏み出す。期待を寄せながら入社式へと向かった。
僕と同じく採用された新入社員は全員で三十名だった。お互い、どんな奴なのか入社式の最中はずっと様子を探り合っていた。
入社式を終えると、研修を行うため会議室に案内された。ここで少し話す時間ができたので、同期に声をかけた。声をかけたのは、隣に座っていた山村という男だった。
「境君は、今まで内定を貰っていた会社はどれくらいあったの?」
山村が答えにくいことを訊いてきた。僕は答えに戸惑った。一社しか受からなかったとは、恥ずかしくて言えなかった。
「うん……。だいだい、五社くらいかな」僕は嘘をついた。
「へえー。五社も内定貰ったんだ。すごいね」
山村は尊敬の眼差しで僕を見ていた。
会議室の雰囲気が和やかになってきた頃、突然、会議室の扉が勢いよく開いた。がっしりとした体格の男が紙袋を持って会議室に入ってきた。空気が一気に静まり返った。
「新入社員の諸君。入社おめでとう。研修担当の君原だ。よろしく」
君原からは高圧的な雰囲気を感じた。がっしりとした体格はいかにも、体育会系出身である事を物語っている。
「早速だが、研修を始めさせてもらう。我々の業界は広告だ。クライアントから依頼を受け、クライアントに利益をもたらす広告を作る。実にシンプルな事業だ。さて、この事業において大切なものは何か分かるか? 誰か分かる者はいるか?」
しんとする空気の中、一人の社員が手を挙げた。
「高梨です。私が思うに営業力が一番大切だと考えます」
「素晴らしい。正解だ」
君原は高梨に拍手を送った。
「どこの業界も大事なのは営業力だ。クライアントの要望に応える。そして社内をまとめるのも営業力の一つ。そしてその営業力を鍛えるのが、コミュニケーション能力だ。これからそのコミュニケーション能力を鍛える研修を始める」
君原は持っていた紙袋の中からたくさんの小箱を出した。
「これは君たちの名刺だ。一箱に百枚入っている。今から君たちにはこの百枚の名刺を百人と名刺交換してくるんだ。これが最初の研修だ」
全員がどよめいた。初日でいきなり百人と名刺交換するなんてハードルが高すぎる。
「騒ぐな。これは我が社の伝統だ。誰もが通って来た道だ、君たちに断る権利もない。嫌なら今すぐ辞めて結構。百人交換し終わったらここへ戻って来い。交換出来た者から帰って
いい」
とんでもない会社に来てしまったと僕は後悔した。隣の山村もうなだれていた。
「現在の時刻は午前十一時三十分だ。ちょうど昼頃なので、多くのサラリーマンが昼食の為に会社から出てくる。その時間帯が最初のチャンスだ。早くしないとチャンスを逃すぞ! それじゃ、行け!」
君原の号令と共に、僕たちは一斉に席を立ち上がり、自分の名刺を取って外へ駆け出して行った。
「私、アド・シティトウキョウの新入社員の境と申します! よろしかったら僕と名刺交換をして下さい!」
多くのサラリーマンが昼食から戻る最中、僕は片っ端から声をかけた。声をかけられた中年のサラリーマンは面倒くさそうな顔で僕を見ていた。
「すみません。会社の研修で今日中に百人と名刺交換をしなくちゃいけないんです。よろしかったら名刺を交換して下さい!」
「いや、いらないよ。うちは広告なんて必要ないし」
そう言って断わられてしまった。それもそうだ、見ず知らずの若者にいきなり名刺交換を求められるなんて怪しさ満載だ。でも、やるしかない。めげずに僕はサラリーマンに声を掛け続けた。
時計を見ると、午後三時を過ぎていた。僕は休憩の為に近くのカフェに足を運んだ。
中に入ると山村がいた。コーヒーを片手にスマートフォンをいじっていた。
「お疲れー。調子はどう?」
「お疲れ。俺は、ようやく半分配り終えた」
山村の表情は疲れ切っていた。
「本当か、すごいな……。まだ俺三十枚しか配り終えてないよ」
「まじか。大丈夫かい? それにしても、いきなりこんな鬼みたいな事をするとは思ってもなかったよな」
山村はコーヒーを啜りながら、溜息をついた。
「だよな。大変な会社に来ちゃったよな」
僕も山村と同じように溜息をついた。そして、山村が半分配り終えていたことに焦りを感じていた。
「さっき、違う同期に聞いたんだけど、もう百枚配り終えた奴がいるらしいよ。確か、高梨ってヤツ」
高梨はさっき君原の質問に答えた人だ。
「すごいな、優秀だね」
「すごいよな。もう帰れるなんて。俺も、もうひと頑張りしなきゃないし。じゃあまた後で」
山村はカフェを後にした。なんだか取り残されたような感覚が一気に襲ってきた。頼んだコーヒーを三分で飲み干し、僕は足早にカフェを出た。
午後五時頃にようやく半分を配り終えることができた。だけど、半分残っている。これから帰路に向かうサラリーマンに名刺を交換してもらうには気が重くて仕方なかった。
「お仕事お疲れ様です。ちょっとお時間よろしいですか? 私、アド・シティトウキョウの新入社員の境と申します。お疲れのところ申し訳ありませんが、私と名刺交換させて頂けませんか?」
最大限に気を遣っているつもりだが、やはり嫌な顔をされることが多かった。渋々、名刺交換に応じてくれている人もいたけど、そのほとんどが惰性だった。まるで、ティッシュ配りのティッシュを受け取るように。中には、僕の名刺を破り捨てる人もいた。このくだらない研修に意味があるのかという思いが次第に強くなってきた。
百枚配り終えたのは午後八時過ぎだった。疲労感と達成感が体じゅうを駆け巡ってきた。
会社の会議室に戻ると君原が仕事をしながら待っていた。
「お、お疲れ様です」恐る恐る僕は君原に声をかける。
君原はノートパソコンを雑に閉じた。
「遅かったな。お前が最後だぞ」
君原は機嫌が悪かった。過酷な研修を終えて、労いの言葉もないのだろうか。
「すみません。遅くなりました」
「なんで、遅くなったと思う?」君原の質問に僕は答えられなかった。
「遅いには必ず理由がある。高梨は午後三時に配り終えた。お前と一体何が違うのか。お前分かるか?」
君原は僕を責め立てる。名刺を交換出来たのに、遅いという理由で怒っている。言われたことをしたはずなのに。
「分からないなら、教えてやる。お前には気合が足らない。百枚をいかに早く交換するか気合が足らない」
腹の中からじわじわと何かが湧き出すような感覚が走った。気合が足らない? 僕は一生懸命、百名になんとか名刺を交換してもらった。様子を知らない、君原は〝気合〟とう精神論で片付けるのか? 勝手な決めつけに怒りを通り越して言葉が出なかった。
「そこでだ。お前には明日もう一度百人と名刺交換してもらう」
「え? 明日もですか?」
僕は絶句した、明日も百人と名刺交換なんて冗談じゃない。
「当たり前だろ。時間内に配り終えることが出来なった奴にはもう一度やってもらう」
「ちょっと待って下さい。時間内に配り終えろなんて、言っていませんよね?」
僕は思わず君原に反論してしまった。まずい、と思い咄嗟に口を隠す。すると、君原は急に僕の胸ぐらをつかんだ。
「はあ? お前ごときの新入社員が何盾突いていんだよ。こっちはお前が帰ってくるまで待ってんだよ。残業代請求してえ気分なんだよ、お前払えんのか?」
「す、すみません……」
「常識的考えて定時までに配り終えるのが普通だろ。馬鹿か、そんな事も分からねえのか」
これ以上、君原を怒らせるのは避けたい。僕は黙って頷いた。
「四の五も言わず、明日やるんだよ。時間内に」
「時間内とは、定時までですよね」
少し声がうわずった。疲労と怒りで頭が回らない。何とか冷静になろうと深呼吸をした。
「当たり前だろ」君原は吐き捨てるように言った。
「分かりました。明日もやります」
僕は君原から名刺が入った箱を受け取り会社を出た。
次の日、僕は朝六時に頃に家を出て会社の最寄り駅で声を掛けて名刺を交換し続けた。もちろん、朝の忙しい時間帯に声を掛けられるなんて迷惑だ。当然嫌な顔をされる。それでもなんとか交換してもらい、お昼過ぎには百人と名刺交換を終えた。
あの研修以降、山村は会社を辞めた。山村も配り終えたのが僕より一時間前だったが、君原に責められたようだった。あまりにも理不尽な扱いに逆ギレして辞めたと他の同期から聞いた。
地獄のような研修は一か月続いた。三十人いた同期は半分まで減っていた。
「今日で研修は終わりだ。だいぶ人数が減ったがよく頑張ったと思う。これから各々の配属先を発表する。名前を呼ばれた者は前へ」
次々と名前を呼ばれ、配属先が決まっていく。
「次、境一生」
緊張しながら君原の元へ向かう。
「境一生を営業局営業二課へ配属する」
配属先が告げられた時、一瞬戸惑った。営業局は花形部署だ。
「ぼ、僕で大丈夫でしょうか?」思わず不安になって君原の顔を伺う。
「何を言ってる。会社の決定だ。断る権利はない。しっかりやれ」
君原は淡々と言い、辞令を渡した。
「はい! 頑張ります!」
花形部署に配属されるなんて、夢にも思っていなかった。もしかしたら、僕のやりたいことが早く叶うかもしれない。僕はやる気に満ち溢れていた。
営業局に配属されて半年が経ちだいぶ仕事にも慣れてきた。営業局は激務な部署で、毎日が終電だった。膨大な仕事量について行けなくて毎日が死にそうだった。休日も家で仕事をし、プライベートなんて全くなかった。だけど、早く一人前になろうという気持ちが強く僕は必死に食らいついていた。
「今回は主力得意先のタナカ飲料より新商品のプロモーションの依頼を受けた。オリエンテーションは明日行われる。タナカ飲料が社運をかけた商品なので、我々と一緒に盛り上げて行きたいと思っている。いいか、何としてもタナカ飲料の業績を上げるプロモーションを作って欲しい。」
営業局では毎週月曜日に会議が行われている。営業課長の冴島が僕らに奮い立たせた。僕は大きく頷いた。
「それで、早速プロジェクトチームを編成するが、東海林。リーダーを任せていいか」
「大丈夫です」
紺色のスーツを来た東海林が自信たっぷりに返事をした。
「頼むぞ。それで、サブリーダーには境に任せたいと思う」
驚きと同時に東海林の顔を見た。東海林は眉間に皺を寄せていた。
「課長、いくら半年経っていても境にはサブリーダーには時期尚早です。主力であるタナカ飲料に迷惑はかけられません」
東海林が反対した。だが冴島課長は落ち着いていた。
「まあ、気持ちは分かる。だが、若いうちに大きな経験をしていれば今後の糧となる。一課の高梨もサブリーダーとして活躍しているし、いい刺激になるだろう。それと、部下を育てるのも東海林の仕事だ。エースの仕事振りを見せてみろ」
「……分かりました」
東海林は、半ば納得はしていない様子だった。東海林はこの二課ではエースだ。その先輩に教えて頂く事に僕にとっては、滅多にないチャンスだった。
「よろしくお願いします。東海林さん」
僕が東海林に挨拶をすると、東海林は気だるそうな顔をした。
「足だけは引っ張るなよ」
スーツの襟を正しながら、東海林は会議から出て行った。
翌日、僕は東海林と二人でタナカ飲料のオリエンテーションへと向かった。すぐに広い会議室へと案内された。
「アド・シティトウキョウさん、本日はお越し頂きましてありがとうございます。タナカ飲料の広報部部長の川島と申します」
恰幅のいい川島は穏やかな表情をしていた。
「では、説明は担当である梶本より説明させて頂きます」
隣にいた梶本が一礼をした。物腰柔らかい雰囲気を出したまま、オリエンテーションを始めた。
「今回の新商品のコンセプトは〝若者〟に焦点を置きました。我が社はこれまでたくさんのコーヒー飲料を世に出しておりますが、なかなか若い世代の方にコーヒーを飲んで頂けないのが実情です。そこで、スッキリした飲み口のコーヒーを六年の歳月をかけて開発しました。私たちのコーヒーを若い世代に広めて欲しいのです」
別の社員が東海林と僕にコーヒーを持ってきた。
「こちらが我が社の新商品となります」
「いただきます」
一口飲んでみると、スッキリとして飲みやすく、キレがある。ほどよい酸味があり、コーヒーが苦手な僕でも飲みやすかった。
「美味しいです。これならコーヒーが苦手な若い世代にもきっと飲んでもらえると思います!」
僕は率直な感想を梶本に伝えた。梶本は笑顔で応えた。
「ありがとうございます。そのお言葉が何よりの喜びです。我が社はブルーマウンテンという豆を使用しています。焙煎のバランスを何度も何度も試しました。その完璧なバランスを成し遂げたのがこのコーヒーとなります」
梶本はしみじみとしながら、オリエンテーションを続けた。
「以上が、我が社の要望でございます。何か質問はございますか」
東海林が真っ先に手を挙げた。
「今回のタナカ飲料さんは〝若者〟を焦点においておりますが具体的にどの年齢層だと想定しておりますか」
「年齢層は二十代から三十代前半の方々に飲んで頂きたいと思います。その年代は立派な大人ですからね」
「なるほど。ちなみに商品のこだわりについてもアピールしたほうがよろしいでしょうか」
「そうですね……」
「もちろんですとも!」
梶本が言いかけた時、川島が遮るように言った。
「我が社が六年かけて完成させたコーヒーですとも! さすがにそこは譲れませんな」
川島は自信たっぷりに言った。梶本も川島に応じるように頷いた。
「では、ポイントをまとめますと、若者に飲んでもらいたいプロモーションと商品のこだわりをアピールする点で、アプローチしていくという点でよろしいでしょうか?」
「それでお願い致します。なんとしても我が社の新商品をアピールしてください」
川島と東海林は握手を交わした。僕はなぜか、梶本の様子が気にかかっていた。
オリエンテーションが終わり、社内に戻ってから、すぐにクリエイティブ局と打ち合わせをする。ここでオリエンテーションの情報を共有し、アプローチの方法を模索していく。
「境、クリエイティブ局との情報共有は任せた」
東海林はそう言って、メモ書きしていた資料を渡した。
「どうしたんですか急に」
「俺はこれから、別のところで打ち合わせなんだよ。営業は掛け持ちが多いから。サブなんだから、それくらいは出来るだろ。よろしくな」
「む、無茶ですよ! そんな……」
「口答えするなよ。ただオリエンの内容をそのまま伝えればいいだけだから。よろしくな」
東海林は足早に次の打ち合わせに向かって行った。僕は急に一人ぼっちとなってしまった。
クリエイティブ局は個性の塊の集団だ。何より自由かつ、人間性が特殊な人が多いと聞いていた。
クリエイティブ局のフロアにいくと、違う会社のような雰囲気があった。フリースペースで、社員専用のデスクはなく、パソコンを持ち歩きながら仕事をしていた。ところどころ本棚があり、海外の広告集や、日本の名コピー集など広告関係の本が目についた。
「あれ? 君が新人君?」
フロアをうろついていると、クリエイティブ局の社員が声を掛けてきた。
「営業局の境と申します。タナカ飲料さんのオリエンが終わりましたので、情報共有に来ました」
「ああ、君がサブの子ね。新人がサブリーダーなんてびっくりだよ。相当期待されているんだね。僕は沢北。クリエイティブ局でコピーライターをしているよ」
沢北は握手を求めてきた。思っていたより物腰が柔らかくてとてもいい印象だった。
「さっそく、案内するけど、そういえば東海林さんは?」
「えっと、東海林さんは別の打ち合わせに行っています」
「相変わらず人が悪いな。あの人は。まあ、いいや。ついてきて」
苦笑いしながら、沢北さんに案内され、会議室に向かった。
「遅えぞ、沢北」
会議室に入ると、一人の男が声を荒げた。いきなり雰囲気が重くなった。
「すみません、清田さん。東海林さんが来られなくなったので、新人の境君を案内しました」
「初めまして、営業局の新人の境と申します」
僕が挨拶をすると、清田は舌打ちをした。
「なんだよ、東海林は使えない新人よこしたのかよ。やる気あんのか、アイツ」
「まあ、そう言わずに……」
沢北が清田をなだめた。この偉そうな態度を取っているのが、クリエイティブディレクターの清田だ。これまでの多く広告を製作し、広告賞も受賞していていた。
「おい、新人。早くタナカ飲料の資料を渡せ」
「は、はい」
清田に言われ、貰った資料と、東海林から預かったメモ書きを渡した。
「若者をターゲットにしたアプローチなんて、随分とざっくりだな。ったく、汚い字で東海林のメモ書きも読めやしねえ。新人、オリエンの内容を簡潔に説明しろ」
「え、えっと。タナカ飲料は二十代から三十代前半の方々に商品を取って頂きたいと、また商品のコンセプトはコーヒーを身近に感じて貰いたいという内容です」
できるだけ、オリエンの内容を簡潔に伝えようとした。清田は天井を見上げ溜息をついた。
「内容が薄すぎるんだよ! もっと具体的に説明できねえのかよ!」
「いや……、オリエンではそういう説明だったので……」
僕はもう一度資料を見返しながら言った。
「クライアントの意図を汲み取っていくのが営業の仕事だろ。アホか、お前は! もう一回、広報に訊いてこい! 話はそれからだ」
清田はそう言って会議室へ出てしまった。僕は何も言えず、硬直していた。
「あんな感じなんですか?」
周りの人は何も言わない。どうやら日常茶飯事のようみたいだ。
「まあ、いつもの事だし、仕方ないよ。とりあえず、僕らだけやろう。僕の方で清田さんに伝えておくよ」
沢北は優しく励ましてくれた。どうやら一筋縄ではいかないようだ。
打ち合わせが終わり、デスクに戻ると大量の資料が置かれていた。
「戻ったか、それお前の仕事な」
東海林がコーヒーを飲みながら声をかけてきた。
「東海林さん! これ、全部僕がやるんですか?」
「当たり前だろ。それくらい出来なくてどーすんの? それと、クリエイティブ局との打ち合わせの進捗状況は?」
「それが、清田さんが、クライアントの意図がはっきりしないとダメだ、と言ってすぐに帰ってしまって……」
「また自分の思い通りにいかないから帰ったのか? 相変わらず自己中な人だな」
東海林は舌打ちをした。
「あの、東海林さん……。僕はいったいどうしたらいいんですか? あんな方をまとめるなんて僕には無理ですよ……」
「そんなのは自分で考えろよ。清田さんを上手くコントロールするのがお前の仕事だろ。あと、その資料、今日中にまとめろよ。明日俺が使うから。俺、これから会食あるから」
特にアドバイスもなく、突き放したような言い方をして東海林は会食へ向かって行った。
デスクには大量の資料、これを全部一人でやるのかと思うと気が重くて仕方がなかった。
目覚まし時計より、早く目が覚めた。時刻は六時半。また四時間しか寝られなかった。二度寝したくても、脳が覚醒して眠れない。仕方なく着替えながらメールチェックを始めた。
出社する前に、タナカ飲料に足を運ぶことにした。梶本から詳しい意図を探るためだ。スケジュール表にも入れ、冴島課長や東海林にも連絡を入れた。
駅のホームで電車を待っている間、缶コーヒーを飲んでいるサラリーマンを見かける。今日を乗り切るためのエネルギーとして深く味わっていた。だけど、若い人ではなかった。どうしたら、若い人達にもコーヒーを飲んでもらえるだろうか?
タナカ飲料に着くと、梶本が迎えてくれた。
「いらっしゃいませ、境さん。本日はどの様なご用件で?」
「突然すみません。あの、ちょっとオリエンの内容をもう少し深堀りをしたくてお伺いしました」
「わかりました。少し用件を済ませておきますので、十五分ほど、会議室でお待ち頂けますか」
梶本は急な応対に嫌な顔をせず、穏やかに対応してくれた。
「かしこまりました。恐れ入ります」
十五分ほど待っていると、梶本が資料を持ちながら会議室に入ってきた。
「お待たせしました。それで、オリエンのどこをお聞きしたいのでしょうか?」
「はい。どうも、キーワードの若者がしっくりこないと、クリエイティブ部に言われまして。それをお聞きに来ました」
「なるほど……。境さんはどう思われますか?」
「えっ?」
突然の質問返しに思わず拍子抜けしてしまった。
「境さん自身、私たちのコンセプトである、若者にどう疑問を感じているのですか?」
「そ、それは……」
少しの沈黙が流れた。言葉に詰まっている様子を見て、梶本は真剣な目で語り始めた。
「境さん。あなたは営業に出たばかりですので一つ忠告しておきます。境さんはクリエイティブ部の伝言係ですか? わざわざ、会う時間まで割いて失礼だと思いませんか?」
「た、確かに。おっしゃる通りです」
「この程度の質問ならば、電話やメールの方がいいでしょう。それだけならば、勝手ながら打ち合わせはお開きとさせて頂きます」
梶本は席を立ち上ろうとした。
「待ってください!」
「こちらも仕事がありますので。申し訳ございませんが、ここにて失礼致します」
梶本は一礼をして、会議室から出てしまった。 梶本の言う通りだ。僕はただ清田に言われたことだけやっていたのだ。これからクリエイティブ部との打ち合わせなのに。
浮かない気持ちで、クリエイティブ部への会議へと向かう。会議室へ入ると、清田がいた。
「おい、新人。話聞いてきたか?」
開口一番、清田が圧のある言い方で聞いてきた。
「い、いや。聞いてきたのですが、ちょっと気分を害されまして……」
「はあ? ふざけてんのか!?」
「す、すみません!」
謝ることしかできない。全てが不格好過ぎだ。
「あのさ、なんで言われたことを聞けねえの? やる気あんのかよ。こっちはオマエの情報をもとに、仕事が動くんだよ。今、オマエは仕事を止めてんの。そんなことも分かんねえのなら、辞めろ!」
今日一番の怒号が響いた。僕はただ頭を下げることしか出来なかった。
「明後日までに結果出せ。出せなきゃ俺はこの仕事降りる。以上」
清田はそう言い残し、会議室から出た。あまりの不甲斐なさに泣きそうだった。
「戻りました……」
デスクに戻ると、東海林が不機嫌な顔で待っていた。
「そこ座れ」
僕は席に座ると、東海林はいきなりため息をつき始めた。
「さっき、清田さんからクレームもらった。オマエ、何してんの?」
「い、いや。タナカ飲料にヒヤリングしたのですが上手く行かなくて……」
「タナカさんはうちの主力だぞ? 機嫌を損ねんなよ、常識だろ」
東海林はデスクを強く叩いた。視線が一瞬だけ集まる。
「す、すみません」
「謝って済むと思ってんのかよ。あーあ。なんでオマエみたいな奴が来ちゃうかな? 一課の高梨みたいな奴だったらいいのになあ。ハズレくじが来ちゃったよ」
唇をぎゅっと結ぶ。こっちは言いたい事があるのに、言えない。周りは何事もなく仕事を続けている。
「てか、どうすんの? 清田さんの機嫌直すの大変なんだけど。どう責任取るつもり?」
「清田さんには、明後日まで決着つけろ、と言われてます……」
「できんの?」
東海林は僕を蔑むような目で見る。僕は一瞬、怯みながらも言うしかなかった。
「で、できます!」
「言質取ったからな。責任はオマエで取れよ」
説教が終わったタイミングで東海林のスマートフォンが鳴った。すると別人のように機嫌よく電話に出始めた。
明後日までに決着をつけなければ、きっとプロジェクトを外されるだろう。でも、どうしたら梶本から真意を聞けるのだろうか? 考えれば考えるほど、気が滅入りそうだ。
少しだけ外の空気を吸おうと、フロアを出ようとした。
「あれ? 境じゃん」
後ろから呼び止められ、振り向くとグレージャケット、ネイビーのスラックスを綺麗に着こなした高梨が声をかけてきた。
「高梨くん。お疲れ様。これから外回り?」
「まあな。それよりどうした? 今にも死にそうな顔をしてるぞ」
高梨は僕の顔色を気にしていた。
「いや、ちょっと東海林さんに怒られちゃって……」
「それはダルいな。そういえばサブになったんだっけ?」
「うん。まあ、高梨くんみたいには上手くいかないけどさ……」
東海林に言われたことを思い出しながら、自虐めいたとを言った。高梨は少し目を細めた。
「境、今時間ある? 外で話そう」
「今から? まだ仕事残っているんだけど」
「いいから、行こうぜ」
高梨に無理やり外に連れ出されてしまった。
連れて来られたのは、会社の近くのカフェだった。
「アイスティー二つでいい?」
「うん、お願いするよ」
高梨は店員を呼んでアイスティーと、ケーキを頼んだ。
「なんでそんなにヘコんでんの?」
アイスティーを飲みながら高梨が訊いてきた。
「いや、ちょっとなかなか仕事がうまくいかなくて……」
「今、何の案件やってんの?」
「タナカ飲料の新商品のプロモーション。先方の広報と上手くコミュニケーションが上手く行かなくてさ。東海林さんや、清田さんに怒られちゃってさ」
「なるほどなあ」
ケーキを食べながら聞いていた高梨は、フォークを置いた。
「飲みに行けばいいんじゃね?」
その回答に戸惑う僕の様子を見て、高梨は呆れていた。
「あのさ、営業はコミュニケーションが必須なのは周知の事実じゃん。じゃあ、どうすれば手っ取り早く、距離を詰めていくかというと、やっぱり、飲みなのよ。相手を気持ちよくさせるのが定石なんだよ」
高梨はケーキをアイスティーで流しこみながら力説した。
「いきなり、飲み会開くの?」
「そうだよ。先輩がオリエン終わった後、すぐに飲みに行くのが鉄則だ、って。それで案件がスムーズに周るから」
あまりにも、体育会すぎて言葉が出なかった。
「だから、ほぼ毎日、飲みだから疲れんだよね。まあ、全然楽しいけど」
「それで仕事が回るのかな。確かに、飲みによって距離は縮まるけど、お客さんに寄り添っているのかなって」
高梨から舌打ちが聞こえた。
「これだから、真面目は嫌いなんだよ」
高梨は残りのアイスティーを一気に飲み干した。
「どうアプローチしようが、結果が全てじゃん。それを最短でこなしていくのが仕事じゃねえの? 綺麗ごとを並べてばっかで何も出来ない奴には言われたくないね」
「それはそうだけど……」
「だいだい、二課は効率悪いんだよ。インテリ気取りで覇気がないし、やたら俺らを敵対視するし、そもそも俺ら一課は二課なんかに眼中にねえんだよ」
高梨がだんだんヒートアップしてきた。
「だから、境もタナカ飲料の広報と飲みに行きゃいいんだよ。それで全て解決。ちまちましたコミュニケーションだけで仕事なんて出来ねえんだよ」
すると、スマートフォンが鳴りだした。東海林からだった。
「お前、今どこいんの?」
圧のある第一声。また、何かやらかしてしまったか。
「どこって、今同期と外回りしてます」
「はあ? いいから、戻ってこい。十分以内に戻ってこないと殺すよ」
本気の脅しに思わず身震いした。急いで僕は戻る準備をし始めた。
「ごめん。呼び出し食らったから戻るよ。今日はありがとう」
高梨にお金を渡し、急いで会社に戻った。
会社に戻ると、東海林が仏頂面で待っていた。
「遅えよ」
「これ、明日のプレゼンで使うから今日中にまとめろ」
「え? またですか?」
東海林が睨む。僕は首を横に振った。
「いえ……、やらさせて頂きます。今日中に……」
「そうだよなあ。先輩からの仕事は有難く受け取らなくっちゃ」
東海林が笑顔で資料を渡した。思えば、東海林が真面目に仕事をしているところなんて見たこともなかった。
「言い忘れていたけど、二課に鉄の掟があるのって知ってたか?」
僕は顔を横に振る。多分、ろくでもない掟なんだろう。
「教えてやるよ。先輩の呼び出しには必ず応えること。これ鉄則」
なんだよ、それ。
「だから、俺はオマエに二課にやってきた通過儀礼をしているわけだ。有り難いだろう?」
駄目だ。吐き気がしすぎて返事もろくに出来ない。終わってる。
「お礼は?」
「ありがとう……、ございます」
「よくできました。じゃあ、後は宜しく」
東海林がスッキリとした表情で帰っていった。手渡された資料を見る。所々、アイツの殴り書きのメモが見られる。
「汚ねえんだよ。……ちくしょう!」
目が覚めると、朝日がオフィスに差し込んでいた。東海林に押し付けられた仕事が思った以上に多く、結局会社で朝を迎えた。座ったまま寝ていたせいか、腰と首が痛い。
なんとか資料を完成し、印刷をして東海林に渡した。東海林は、ご苦労、というひと言だけで資料をすぐに鞄の中へ入れた。
「すみません。外回り行ってきます……」
眠気が取れないので、外回りに行くことにした。そう言えば朝ごはんも食べていなかった。
外へ出ると、たくさんの人が僕の目の前を通り過ぎていく。これから出社する人、客先へ向かう人、目的は様々だ。この人の流れが社会を作っているんだ、と妙に実感してしまう。
働くってなんだろう? 昨日、高梨の言葉を思い出す。先輩に言われたことを実行するだけで、仕事が回ると彼は言っていた。それが、正しいのだろうか。まだ、一年目の僕には分からないものなんだろうか。でも、確かなのは僕が東海林の言いなりになっていることだ。
駅から少し歩いて、喫茶店が目に入った。この地には珍しくレンガ作りの喫茶店だった。思わず、中に入ってみた。
「いらしゃいませ」
中に入ると、女性店員が快く迎えて、席へと案内された。すると、テーブル席に見覚えのある顔がコーヒーを飲んでいた。
「梶本さん!」
梶本は僕の顔を見て、驚いていた。
「境さん。偶然ですね」
「ええ。たまたま入った店だったので……。梶本さんこそどうして」
「私はここのお店の常連なんですよ。ここのコーヒーがお気に入りなんです」
梶本は朗らに応えた。これは、もしかしたらチャンスかもしれない。
「あの、よろしかったら相席いいですか?」
一瞬、梶本は戸惑った様子をしたが、どうぞ、と迎えてくれた。
「すみません。ありがとうございます」
「いいえ。それより、境さん。目の下にクマが出来ていますけど、大丈夫ですか?」
「あ、はい。お恥ずかしながら、仕事に追われておりまして、会社で朝を迎えてしまいました」
「それは大変ですね。ぜひ、コーヒーを飲んで下さい。目が覚めますよ」
梶本のお言葉に甘えてコーヒーのモーニングセットを頼んだ。
ゆっくりとコーヒーを味わう。優しく、香ばしい風味と苦味が僕を包んでいるような気がした。
「美味しいです」
「そうでしょう。ここのコーヒーは絶品なんですよ」
梶本も嬉しそうにコーヒーを嗜んでいた。
「ここのお店はいつから通っているんですか?」
「六年前からですかね。広報になってから偶然見つけたんです。レンガ作りとヨーロッパ風の内装。全てが最高なんです」
梶本はゆっくりと店内を見渡した。僕も周りを見渡す。上質なソファーやステンドグラス、あらゆる細部にこだわりを感じる。
「確かに。憩いの場所という感じがします」
「ですよね。もっと早くここに来たかった。実は境さん、私も実は営業だったんですよ」
「そうなんですか?」
梶本はゆっくりとコーヒーを飲んだあと、頷いた。
「ええ。六年前、私は営業として働いておりました。当時、我が社は業績が崩れ始め、数字に必死でした。ノルマを達成しなければ、ボーナスはなしだと脅されることもあったんです」
「大変ですね……」
「私もなんとか食らいつきましたが、思うように行かなかったんです。その後、広報に異動となりました。」
梶本は少し哀しげな表情をした。
「異動になって、私はやる気を失いました。営業として落第の印を押されたのです。そんな中、仕事の打ち合わせの時、偶然ここを見つけました」
「そうだったんですか」
「ここのコーヒーを飲んだ時、衝撃が走りました。これまで味わったことのない感覚でした。そして、コーヒーの魅力に取りつかれたのです。そして、コーヒーの魅力をもっと多くの人に知ってもらいたいと、やる気を出させてくれたのです」
「たった一杯のコーヒーが梶本さんを救ってくれたのですね」
僕もコーヒーを見つめる。ゆっくりとカップを持ち上げて、コーヒーに映った顔と目が遭った。もう一度、コーヒーを啜る。熱が冷めて苦味を強く感じた。
「コーヒーの飲み終わりって苦味の最高潮だと僕は思うんですけど、飲み終わったあと、コーヒーの風味がまだ口の中に残るから、敬遠してしまう若い人がいるんじゃないかなって、僕は思うんです」
「確かにおっしゃる通りですね。私が言うのもなんですが、コーヒーを飲んでいる若者は少ないのは事実なんです。だけど、この苦味を深く味わうのもコーヒーの醍醐味だと思っています」
「もしかして、梶本さんがオリエンで言いかけたことって、苦味について伝えたいという事ですか?」
梶本はわずかに目を丸くしてから、少し微笑んだ。
「よく気づけましたね。私はコーヒーを通して苦味の強さ、それを乗り越えてから人生にも深みが増すのではないかと思うんですよね。だから境さん、その想いを伝えるお手伝いをして頂けませんか?」
「わかりました。ありがとうございます」
ついに、梶本からの真意を聞き出す事ができた。これならクリエイティブ部も納得できるかもしれない。僕は梶本に礼を言い、すぐに会社へ舞い戻った。
「お疲れ様です! 清田さんいますか!?」
息を切らしながら、クリエイティブ部へ入った。清田はスペースで作業をしていた。
「なんだよ、うるせえな。何の用だよ」
集中を切らされて、清田は不機嫌だった。
「タナカ飲料の広報より、意図が聞けました! 苦味です!!」
「なんだよ藪から棒に。意味わかんねえよ」
「コーヒーと人生の苦味を上手くアプローチして、商品の存在意義を伝えて欲しいと言うことです!」
清田は眉間に大きく皺を寄せながら、黙っていた。
「おい、その話もっと詳しく話せ」
僕は梶本の経緯やコーヒーに対する想いを存分に清田にぶつけた。清田は時折メモを取りながら、黙って聞いていた。
「というのが、タナカ飲料の広報よりのお願いだと思います」
僕が説明を終えると清田は目をつむっていた。
「あの、清田さん……?」
「まあ、言いたいことは分かった。これで素案は出来そうだな。おい、沢北はいるか?」
清田の声が響き、沢北が慌ててやって来た。
「はい、何でしょうか……?」
突然呼び出された沢北は少し怯えている様子だった。
「これからタナカ飲料の会議を始める。メンバー呼んで来い」
「今からですか?」
「当たり前だろ。せっかく、新人が情報取って来たんだ。直ぐに素案立てるのが礼儀じゃねえのか?」
「わ、わかりました! 直ぐに呼んで来ます!」
尻を叩かれた沢北は急いでメンバーを呼びに行った。
「とりあえず、真意はわかった。やりゃあ出来るじゃねえか、境」
初めて名前を呼ばれたことに驚きと嬉しさが同時にやってきた。
「はい! ありがとうございます!」
「まだスタートラインだからな。これからどんどん詰めて行って、足りないところはお前に指示する。お前がこの案件の肝であることを忘れんなよ」
清田はふっと笑って会議室へ入って行った。その後ろ姿は誰よりも頼もしく見えた。
プレゼンテーション当日。朝早くから準備をし始める。
「おう、境。今日プレゼンだってな」
朝から東海林が声をかけてきた、東海林は担当を外され結果的に僕がリーダーとなっている。
「おはようございます。これからクリエイティブ部と最終打ち合わせです」
「ふーん。そうか。ちょっとレジュメ見せてくれない? 念のため確認してやるよ」
東海林は悪びれもなく、レジュメを求めてきた。断ると面倒くさそうなので、渋々ながらもレジュメを渡した。
「じゃあ、私はクリエイティブ部に行きますので。あとでレジュメ返してくださいね」
「分かってるって」
コーヒーを飲みながら、東海林はレジュメを読み始めた。
タナカ飲料の会議室は緊張感が張り詰めていた。会議には、梶本、川島、そして全ての決定権をもつ田中社長も同席していた。現在の田中社長は二代目でまだ四十代前後と若かった。
この緊迫した状況の中、タナカ飲料の社運をかけたプレゼンテーションが始まろうとしていた。
「今回の新商品のコンセプトは〝若者〟となっておりますが、実際に私たちが調べた結果、コーヒーを飲んでいる若者は少ないという結果がでました」
僕は調査データのスライドを見せる。田中社長は苦笑いをしていた。
「しかし、御社の新商品はたゆまぬ企業努力により、新しいコーヒーを開発しました。現に、私も試飲させて頂き、スッキリとした味わいは印象深かったです」
川島部長は大きく頷いていた。
「しかしながら、コーヒーの最大限の魅力は苦味だと僕は思っています。苦味があるからこそ、コーヒーを愉しむことが出来る。そこで、今回は、苦味テーマにして、ターゲットを新社会人にアプローチをしたいと考えています」
「新社会人にアプローチ?」
田中社長が興味を持ち始めた。梶本も身を乗り出した。
「そうです。新社会人は人生の大きなイベントの一つです。そして、社会と大きく触れ合います。アルバイトでも、社会との触れ合いはありますが、新社会人は毎日に社会に触れ、そしてたくさん壁にぶつかります。僕も毎日、壁にぶつかって苦い思いをしています。〝苦味〟を知った事で、僕は一皮むけた気がします」
「なるほど。新社会人だからこそできるに苦い経験と、コーヒーにおける苦味をかけたのか」
田中社長は関心していた。少なからず、僕はその様子見て手応えを感じていた。
「それを踏まえて、今回は新社会人をメインとしたショートストーリーを展開として考えています。社会に出始めた新社会人が仕事を通じて様々な苦味が襲ってくる。そんな中、御社の新商品を飲み、スッキリとした味わいを与えますが、最後は苦味が残る。苦味を知ることで、社会の壁と向き合っていく、という構成にしたいと思います」
僕は最後のスライドを映した。沢北が書いたコピーが映し出されていた。
〝人生には苦味が少しなきゃ、つまらない。〟
「以上で、今回の企画発表を終わりにします」
プレゼン終了後、田中社長たちは僕の企画書をもう一度読み直していた。しばらく、三人は話し合い、そして、お互い顔を合わせて頷き、僕の方を見た。田中社長が席から立ち上がった。
「素晴らしいアプローチだと思います。まさか、新社会人に焦点を向けるなんて盲点でした。この新商品を新社会人、社会人のお供になれば、我々も嬉しい限りです。境さん、ありがとうございます」
「ということは……」
「もちろん、このプロモーションでお願いします」
今までの苦労が報われた瞬間だった。僕は、緊張感から解き放たれた。
「ありがとうございます!!」
僕は深く頭を下げ、そして、田中社長たちと熱い握手を交わした。
「お疲れ様です!」
帰社後、ぼくは冴島課長のデスクへと向かった。
「境か。今日のタナカ飲料のプレゼンはどうだった?」
「はい! 田中社長の太鼓判を頂くことができました!」
「そうか! よくやったぞ!」
冴島課長は大きく手を叩き喜んでいた。
「ありがとうございます」
「初めてなのに、よく頑張ったな。この調子で最後まで頼むぞ」
「はい!」
「それと、この案件がひと段落したら、次のプロジェクトを君に任せようと思うが大丈夫か?」
冴島課長は僕に信頼の目を寄せていた。
「是非、お願いします!」
「じゃあ、よろしく頼むぞ」
ここまで辛かったけど、いろいろ頑張ってきて良かった。次も大きな仕事を任されて嬉しい、実績をたくさん積んだら、僕の夢が早く叶うかもしれない。
でも、この喜びがここまでだったとは僕は知る由もなかった。
その日は朝から曇天だった。夜には雨が降ると天気予報が言っていた。
「おはようございます」
出社すると、みんなが神妙な面持ちで僕を待ち構えていた。
「境、ちょっといいか」
冴島課長が僕を呼んだ。他のみんなより険しい表情をしている。なんで、みんな同じ表情をしているのだろう、何もトラブルは起こしていないのに。
冴島課長についていき、小さな会議室へ入った。そこには営業部局長の竜崎が座っていた。
「竜崎局長まで……。一体何があったんですか?」
「それを聞きたいのはこちらの台詞だ。座りなさい」
竜崎局長はなぜか怒っていた。僕は訳も分からず席に座る。
「これを見たまえ」
冴島課長はスマホを僕に見せた。会社のSNSのアカウントだった。その投稿にタナカ飲料のプロモーションの資料がアップされていた。
「これは君が投稿したのかね?」
「違います! 何かの間違いです!」
僕は直ぐに否定した。何でこんな事をするのかがわからない。
「頼むから正直に答えてくれ。これは情報漏洩なんだ。事の重大さを分かっているのかね?」
「だから、僕は投稿なんかしていません! 本当です!」
「君が投稿していない証拠はあるのかね! このアカウントは営業局しかアクセスできないんだよ。よく、写真を見たまえ!」
投稿した画像をみると、デスクが写っていた。そのデスクは僕のものだった。
「境、君のデスクの上で撮影されているんだよ。これ以上証拠がどこにある?」
冴島課長が静かに言った。悲しさが混じっているようだった。
「いや、ですから、僕は何もしていないんです……!」
竜崎局長は大きな溜息をついた。
「いいかね。境君。これはタナカ飲料との信頼の崩壊と損害を我々が与えている、常軌を逸した行動だ。今、東海林が謝罪に向かっている。我々も合流するが、その前になぜ君がこんな事をしたのかが知りたいんだよ」
「だから、僕は何もしていないんです!」
「いい加減にしたまえ! これ以上我々を困らせないでくれ!」
竜崎局長が吠えた。思わず、僕の胸ぐらをつかもうとしたが冴島課長が必死に止めた。
「やっていい事と悪い事の分別もつかないのか、最近の若者は! その軽い気持ちが大きな損害を被ることも想像力もないのか、貴様は!」
叫び続ける竜崎局長に僕は何も応えることは出来なかった。必死に竜崎局長を抑えていた冴島課長が口も開いた。
「境……。正直、俺も驚いている。でもお前がこんな事をするはずのないと信じたい。だが、証拠もないんだ。リーダーであるお前を疑わざるを得ないんだよ」
冴島課長の悲痛な表情を見て、僕は何も出来なかった。
「とにかく、今から俺は竜崎局長と一緒にタナカ飲料に謝罪にしに行く。お前はここにいて、しっかり考えてくれ」
考えるってなんだよ。僕は何もやっていないのに、何で誰も信じてくれないんだよ。一人、会議室に残されたまま、僕は悶えていた。
数時間後、タナカ飲料への謝罪を終えた冴島課長と東海林が戻ってきた。
「今回はこちらの対処が早かったおかげで、甚大な損害にはならなかった。しかし、タナカ飲料さんには多大な迷惑をかけたのは代わりない。よって今回のプロモーションは辞退させて頂く事にした」
冴島課長の報告に僕は絶望しかなかった。あれだけ頑張ったのに、水の泡となってしまった。
「何とか言えよ! 全部おめえのせいだろ!」
気を落としている僕に東海林がつかかった。
「裁判になってもおかしくない状況だったんだぞ! 局長や課長巻き込んで何してんだよ、謝れよ!」
「……投稿なんてしていないんです」
か細い声で否定をした瞬間、急に頬に重い衝撃が走った。
東海林っ、と冴島課長の叫ぶ声と共に意識が戻った。鉄の味が口の中でじわじわと広がる。
「お前は歴代最悪の営業だよ! 調子に乗り上がって、ふざけんな! 会社に迷惑をかけたのがわかんねえのかっ! もういい、お前邪魔なんだよ!」
「いい加減にするんだ、東海林!」
冴島課長の悲痛な叫びが会議室全体に響き渡っていた。
「もういい……。明日、経営陣も交えてこの件について話してもらう。今日はもう帰りなさい」
「……わかりました」
冴島課長に促されて僕は退社することにした。
雨粒が強く音を立てて落ちてゆく。傘もささずに僕は帰路に向かっていた。
どうして誰も信じてくれない、あんなに頑張ったのに僕がそんな事をするはずがないのに。
でも、SNSに投稿されていたのは間違いなく僕が作った資料だ。だけど資料をそのままにしておくことはないように注意していた。じゃあ、どうして?
遠くの方で雷が落ちる音がした。すぐに僕は急いで電話をかけた。
「なんだよ。医療費の請求か? 仕方ねえから払ってやるよ」
「あなたがやったんですか、東海林さん? 会社のアカウントでタナカ飲料の資料をSNSに投稿したのは!」
局長たちに詰められた時にすぐに気付くべきだった。なんでバカなんだろう。電話の向こうで東海林は笑っていた。
「あー。もう気付いたのかよ。キモいなお前」
「どうしてこんな事をしたんです? 会社に損害を与えたのは変わらないんですよ」
「そんな事はどうでもいい。俺はただ単にお前がウザイからやっただけさ」
純粋な悪意が心をぐさりと刺した。電話越しの相手は人間なのだろうか?
「一年目のくせに、サブになったり、先輩に盾ついたり、ダルいんだよ。だからタナカの案件に手をつかせないように、あんだけ仕事振っても結局、案件決めるしよ。キモすぎだろ、お前」
「じゃあ、仕事振ったのも全部嫌がらせですか?」
「当たり前じゃん。気付くでしょ普通。バカなの?」
東海林は笑いながら答えた。
「俺のポジション奪う気配がありそうな奴は、潰していくのが俺のスタイルでね。早く昇進すれば、もっと俺の価値が上がって、女も寄ってくるだろ? だーかーらー、お前が邪魔だったわけ。本当にあの時気付かなくて最高だったわ」
「アンタがやったのが分かった以上、明日、課長や局長にこの事を話します。終わりなのは東海林さんですよ。この通話は録音してますから!」
口から出まかせだった。だがこれで東海林も少しは怯むかもしれない。しかし、東海林は今日一番の笑い声が響いた。
「俺がそんな事で怯むかよ。まだ、終わりじゃねえよ」
「どういうことですか?」
「お前が外回りに行っている間、別の案件の資料の写真も撮っておいた。今から投稿するからよ、明日が楽しみだな」
一気に血の気が引き、雨のせいで身体がさらに冷えていくのを感じた。
「実名で投稿してやるからよ。そうだな、『上司に殴られたから、社外秘情報、連投します』ってやれば、お前はもう終わりだな。社会的に抹殺されて消えちまえ」
高らかに笑う東海林の声さえも聞かず、通話を切った。雨音が強く聞こえる。
終わった。もう抗う術がなにも思いつかない。どうしてこんな事になったのだろう。明日になれば間違なくクビにされる。そして間違いなく逮捕される。僕は東海林に抹殺されたのだ。
もう生きていても意味がない。この社会は一度間違いを犯せば、二度と這い上がれないような社会だ。例え社会に復帰しても、冷たい目で見られるが決まっている。
ふと、目の前に百貨店が見える。そう言えば屋上があったっけ。吸い寄せられるように僕は百貨店に入る。閉店前なので人が少ないのは好都合かもしれない。
屋上に着くと、鞄を投げ捨てた。少し高かった鞄はもう不要だ。僕は柵をよじ登り、自由への淵へと立つ。雨は少しだけ弱まっていた。
風が強く吹く。そうだ、そのまま僕の身体を押してくれ。そう思っていると、スーツのポケットから振動を感じた。おもむろにスマートフォンを取り出すと、懐かしい電話番号が表示されていた。
「なんだよ……、今さら遅いよ」
スマートフォンを投げ捨て、それに追うように都会の地の底へ僕は飛び込んだ。
目を開けると、面接室の風景が戻って来た。
「気が付いたようですね」
閻魔さんは、デスクに座り僕の様子を伺っていた。まだ、頭の中から何かが抜けたような感覚が残っていた。
「なるほど、相当なパワハラと濡れ衣を着させれたのですね」
ペンを走らせながら閻魔さんはひと言呟いた。
「確かに、境さんが受けた度を越した、パワハラは看過できません。周囲の方々も助けてくれなかった事も悲しい限りです。まあ、現世の社会にはよくある状況ですね」
閻魔さんは冷静に分析をしていた。
「もう、いいんですよ。自由にしてください。僕が上司の目の敵になれなければ済んだ話だったんです」
僕は諦めるように閻魔さんに向かって言った。過去を覗かれた以上、どうこうしてもらうなんて微塵もなかった。
「悔しくないのですか?」
「えっ?」
閻魔さんの言葉に僕は面食らった。
「境さんは一生懸命頑張ったのに、上司の謀略によって全てを台無しにされてしまった。もし、冷静に境さんが考えていれば、解決の糸口は見つかったはずです。ですが、人は追い詰められれば、冷静な判断を失います。だから、あなたは死を選んだ。これで良いのでしょうか?」
「あの状況ではどうにも出来なかったんです! 誰も信じてくれなかった!」
「その言い方ですと、誰かが信じてくれれば、生きていたかもしれない。境さんは生きることに未練を残しています。面接の言動に矛盾が生じていますね」
「違います、僕は死にたかったんです! もうこのクソみたいな現世はうんざりなんです!」
核心をつく一言に僕は動揺していた。本当は僕だって、僕だって――。閻魔さんの静かな視線がとても痛かった。
「いま一度、質問します。境さん、本当は悔しくないんですか?」
赤みのある瞳が真っ直ぐに僕に問いかける。彼女には嘘は一切通じないことを思い出した。
「悔しいですよ!」
僕はその一言を精一杯引き出した。同時に今までの怒りがマグマのように噴き出した。
「なんで、アイツに嵌められなきゃいけないんだよ! おかしいだろ! なんで、みんな……、誰も信じてくれないんだよ……、クソったれがっ! 」
息を切らしながら、声が枯れそうなくらいまで、叫んだ。同時に涙も自然に流れていた。
「わかりました。ではこれで面接を終了します」
閻魔さんはペンを置いて、メモを見ながらしばらく考えていた。
「それでは、人事を言い渡します」
沈黙が流れた。正直言って、天国部と地獄部さえもどうでも良かった。
「辞令。境一生さん、あなたを人事部へ配属します」
辞令を理解するまで時間がかかった。人事部だって……?
「すみません、もう一度聞いてもいいですか?」
「境さんを人事部へ配属すると決定しました。私の事務官として働いてください」
「いや、だって天国部と地獄部しかないって言ったじゃないですか?」
僕は椅子から立ち上がって閻魔さんに詰めよった。
「おっしゃる通り、大半は天国部と地獄部に配属されます。点数も合格点ですが、境さんにはどちらの適性さえも見られなかったので、人事部への配属へ決定しました」
理由が曖昧すぎて納得出来なかった。この会社もブラックなのだろうか。
「安心してください。私はパワハラ等など一切しません」
まるで心を読んだように閻魔さんは一言付け加えた。でも心配しているのはそこじゃない。
「人事部って僕と同じような死者と面接するんですか?」
「もちろんです。境さんは事務官なので、死者の皆様と面接は行いません。私のサポートをして頂ければいいのです」
「サポートって?」
「私のお願い事を聞いてくれればいいだけです。物は慣れです。そんなに気負わないで下さい」
閻魔さんは指を鳴らした。すると、血みどろだったスーツが綺麗なスーツに変わっていた。頭の傷も消えて、顔の汚れもさっぱりなくなっていた。
「まずは身だしなみを整えました」
「どうやったんですか?」
「まあ、一種の霊術みたいなものです」
閻魔さんは続けて指を鳴らすと、閻魔さんのデスクの隣に一回り小さいデスクが現れた。ネームプレートに『事務官 境一生』と書かれている。
「そこに座って下さい。まもなく新しい死者の方が参ります」
閻魔さんが僕を席へと促した。言われるがまま席へと座る。モニターには次の死者のデータが映し出されていた。これから僕はどうなるのだろうか?
すると、ノック音が聞こえた。閻魔さんは、どうぞ、と言って、次の死者を迎えて入れた。
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