The thread of fate:運命の糸
志乃原七海
第1話「仮面の出会い」
運命の糸 第一話 「仮面の出会い」
場面: 王宮の厨房 - 暁光
夜の名残と朝の気配が混ざり合う、王宮の厨房。釜から立ち昇る湯気と、焼けるパン、煮込まれる香辛料の匂いが、活気と共に満ちている。料理人たちの忙しない足音と声が反響する中、東の窓から差し込む朝日が、埃を黄金の粒子のようにキラキラと舞い上がらせていた。
「…また、同じ朝か」
磨かれた窓枠に肘をつき、溜息と共に呟いたのは、この国の第一王子レオ。陽光を浴びて輝く金の髪、彫刻のように整った顔立ちには、年齢に見合わぬ憂いが影を落としている。上質なベルベットの衣装は彼の高貴さを示しているが、その瞳は窓の外、自由に飛び交う鳥へと向けられ、どこか満たされない渇望を映していた。決められた時間に、決められた食事、決められた会話…変化のない日々が、彼の心を静かに蝕んでいた。
その時、厨房の勝手口が勢いよく開き、眩しい光と共に一人の少女が飛び込んできた。土埃にまみれた簡素なワンピース姿。しかし、その存在感は、薄暗い厨房を一瞬で照らす太陽のようだった。腕には、朝露に濡れた色とりどりの果物が溢れんばかりに盛られた籠。少し弾んだ息で、彼女は快活に声を張り上げた。
「おはようございます! 今日も一番乗り!見てください、このプラム! 朝採れで、蜜みたいに甘いんですよ!」
その少女こそ、リリ。だが、それは仮の名と姿。彼女の真の名はリリアーヌ・フォン・ルナリア。隣国ルナリアの王女が、ある目的のため、身分を隠し、貧しい果物売りの娘を演じているのだった。
レオは、不意に現れたその輝きに、思わず目を奪われた。王宮で目にする、計算され尽くした笑顔ではない。汗を浮かべ、心からの喜びを隠さない、飾り気のない表情。それは、レオが忘れかけていた、あるいは知らなかった種類の眩しさだった。厳格な料理長にも物怖じせず、若い見習いには悪戯っぽくウインクする。その屈託のなさが、レオの心の奥深くに眠っていた、窮屈な王族としての自分ではない「何か」を、強く揺さぶった。
「ほら、味見してみてください!」
リリは、熟れた赤い果実を一つ、近くにいた若い料理人に差し出した。受け取った料理人は、照れながらも一口かじり、その甘さに目を丸くする。リリは満足そうに笑い、次々と果物を料理人たちに手際よく配っていく。
「(心の中で)…何だ、あの娘は? まるで、嵐のようだ…」
レオは、無意識のうちに、彼女の一挙手一投足を追っていた。その笑顔をもっと見ていたい、その声をもっと聞いていたい。そんな衝動に駆られる。
リリは籠を空にすると、額の汗を手の甲で拭い、ぺこりとお辞儀をして厨房を後にしようとした。
レオは、衝動的に一歩踏み出した。声をかけたい。名前を知りたい。しかし、その背中に、冷ややかな侍従の声が響く。
「レオ王子。朝餐の準備が整いました。陛下がお待ちです」
現実に引き戻されたレオは、唇を噛み締め、悔しさを滲ませながらも、侍従に促されるまま、重い足取りで朝食の間へと向かった。リリが残した甘い果実の香りが、まだ厨房に漂っている気がした。
場面: 王都の市場 - 午後
午後の陽光が降り注ぐ、活気あふれる王都の市場。レオは、目立たないようにフード付きの外套を羽織り、人混みの中を歩いていた。護衛の目を盗んで王宮を抜け出してきたのだ。目的はただ一つ、あの太陽のような笑顔の少女を探すこと。
だが、手がかりはあまりにも少ない。「果物を売る、笑顔の素敵な娘」。それだけでは、広大な王都で人を探すのは大海に針を落とすようなものだった。
「すみません、今朝、王宮に果物を届けに来た娘を知りませんか? 赤い果実を…」
レオは、露店の主人に尋ねてみるが、返ってくるのは要領を得ない答えばかりだ。
「王宮へ納品する果物屋かい? いくつか心当たりはあるがねぇ…赤い果実ったって、色々あるしな」
「笑顔が素敵な娘? そりゃ、この市場の娘はみんな愛想がいいさ!」
行き交う人々の喧騒、色とりどりの商品、響き渡る呼び声。王宮とは全く違う、剥き出しの生命力に満ちた空気に、レオは少し気圧されながらも、諦めずに歩き続けた。彼女の笑顔が、脳裏に焼き付いて離れない。なぜ、あれほどまでに心惹かれるのか、自分でも分からなかった。
場面: 街の裏路地 - 夕暮れ
日が傾き、建物の影が長く伸び始めた頃。レオは、人通りの少ない裏路地の石段に、疲れ果てて腰を下ろしていた。市場を探し回り、いくつかの果物屋を訪ねたが、リリの姿も、彼女を知る者も見つけられなかった。
「(諦めかけた声で)…どこにもいないのか。幻だったのか…?」
空しさが胸に広がり始めた、その時だった。
コツ、コツ、と軽い足音が近づいてくる。顔を上げると、夕陽を背にした一人の少女が立っていた。
「あの…大丈夫ですか? 顔色が優れないようですが…」
心配そうに声をかけてきたのは、紛れもなく、今朝、彼の心を奪った少女だった。
「…っ! あなたは…!」
レオは、思わず立ち上がった。息を呑むほどの驚きと、込み上げる喜び。しかし、少女の反応は予想と違った。
「まあ…私をご存知で?」
リリは、小首を傾げ、少し警戒したような、探るような視線をレオに向けた。その表情は、厨房で見た快活さとはまるで違う、どこか計算されたものに見えた。
「今朝、王宮の厨房で…果物を…」
「ああ! あなた様は、王宮にいらした方でしたのね!」
リリは、わざとらしく手を口に当て、驚いた表情を作った。そして次の瞬間、貴族の令嬢のように優雅なカーテシーと共に、完璧な笑みを浮かべた。
「これはごきげんよう。このような場末でお目にかかるとは、思いもよりませんでしたわ。何かお探しものでも?」
その言葉遣い、その立ち居振る舞い。朝の、土埃を被った果物売りの娘とは、まるで別人だった。笑顔は美しいが、どこか冷たい。そして、その瞳の奥には、容易にはうかがい知れない深い光が宿っている。まるで、分厚い仮面を被っているかのようだ。
レオは、目の前の少女の変貌ぶりに、ただただ戸惑った。彼女は一体何者なのか? なぜ、自分に対してこのような態度をとるのか? 朝のあの笑顔は、嘘だったというのか?
「(心の中で)…違う。何かがおかしい。この娘は、一体何を隠しているんだ…?」
疑念と、抗いがたい好奇心。そして、消せない魅力。レオの心の中で、相反する感情が渦を巻き始める。二人の運命の糸は、今、互いの「仮面」の下で複雑に絡み合い、予測不能な物語の幕を開けようとしていた。
第一話 完
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