第四章: 『文枝の秘密 ―― 心に隠された過去』
同居生活が二週間を過ぎたある日、千尋は学校から帰ると、文枝が来客と話しているのを目撃した。相手は五十代ほどの女性で、上品な装いに身を包んでいた。
「あ、すみません……」
千尋が遠慮がちに玄関で言うと、文枝が振り返った。
「あ、千尋さん、お帰りなさい。こちらは私の編集者の村田さんよ」
「初めまして、村田です」
女性は丁寧に頭を下げた。その目は千尋を好奇心いっぱいに見つめていた。
「藤宮千尋です。文枝さんのお世話になっています」
千尋も礼儀正しく挨拶した。
「先生のお宅に若い方が滞在されているとは、珍しいですね」
村田の声には驚きが滲んでいた。文枝は穏やかに説明した。
「千尋さんは作家志望の高校生で、偶然知り合って。お父さんが出張中だから、しばらく一緒に過ごしているの」
「なるほど。先生が若い作家の卵を育てるなんて、素晴らしいですね」
村田は微笑んだが、その表情からは「中澤先生がそんなことをするなんて」という驚きが読み取れた。
「あの、お邪魔しているようなので、私は自分の部屋で……」
千尋が退こうとすると、文枝が止めた。
「いいのよ、村田さんはもう帰るところだから」
「はい、原稿を受け取りに来ただけですので」
村田は茶色の封筒を手に持ち、立ち上がった。
「では先生、例の件はまたご連絡します」
文枝はただ黙って頷いた。千尋には二人の間に何か緊張感のようなものを感じた。
村田が帰った後、文枝は深いため息をついた。
「疲れたの?」
千尋が心配そうに尋ねると、文枝は小さく微笑んだ。
「少しね。村田さんはいい人だけど、時々私の意向を無視しようとするの」
「どういうことですか?」
「私の90歳を記念して、回顧展をやりたいって言うのよ。原稿や手紙、写真などを展示する企画」
千尋は目を輝かせた。
「すごいじゃないですか!」
「私は断ったんだけど、しつこいのよ」
文枝の声には疲れが混じっていた。
「なぜ断るんですか? そんな素敵な機会を」
「私はね、自分の過去を飾りたくないの。特に生きている間は」
文枝の言葉に、千尋は首を傾げた。
「でも、あなたの読者は喜ぶと思います。あなたのことをもっと知りたいって思ってる人がたくさんいるはずです」
「そうかもしれないわね」
文枝は窓の外を見た。
「でも、私の言葉だけでは足りないのかしら」
千尋は黙って文枝の横顔を見つめた。その表情には、理解できない何かがあった。
翌日、千尋は学校帰りに本屋に立ち寄った。文枝の本をもっと読みたいと思ったからだ。店内の「日本文学」コーナーに行くと、文枝の著作が並んでいた。千尋は『無常を生きる』を手に取った。その帯には「中澤文枝、渾身の自伝的エッセイ」と書かれていた。
レジに持っていくと、店員が笑顔で言った。
「中澤先生のファンですか? 実は来月、先生の特集フェアをやるんですよ。サイン会も予定されていて」
「サイン会?」
千尋は驚いた。文枝がサイン会を引き受けるなんて、想像できなかった。
「はい、出版社の方が手配してくださって。もう何年もサイン会をされていなかったので、貴重な機会ですよ」
千尋は困惑しながら本を買い、アパートに戻った。
「ただいま」
千尋が声をかけると、リビングからは返事がなかった。文枝は外出中だろうか。部屋に入ると、テーブルの上にメモが置かれていた。
「千尋さん、少し出かけています。夕食は冷蔵庫のおかずを温めてください。――文枝」
千尋はメモを読みながら、さっき本屋で聞いた話を思い出した。文枝はサイン会を嫌がっていたはずなのに、なぜ引き受けたのだろう。
しばらく待っていたが、文枝は戻らなかった。千尋は時間をつぶすために、買ってきた『無常を生きる』を読み始めた。その中には、文枝の波乱万丈な人生が描かれていた。
仏教への入門、フランス留学、中東での経験、インドでの病……そして、彼女が「三日間の臨死体験」と呼ぶ出来事。ガンジス川での沐浴中に感染症にかかり、高熱と幻覚の中で三日間意識が朦朧としていた経験が、彼女の死生観を形作ったという。
千尋は本に没頭し、時間が過ぎるのも忘れていた。本の後半まで来たとき、ドアの開く音がした。
「ただいま」
文枝の声がした。千尋は本を置いて迎えに出た。
「おかえりなさい。随分遅かったですね」
文枝は少し疲れた様子で微笑んだ。手には紙袋が下がっていた。
「ええ、ちょっと用事があってね」
文枝は靴を脱ぎ、リビングに入った。千尋は彼女の後に続いた。
「あの、文枝さん」
「なぁに?」
「本屋さんで聞いたんですけど、来月サイン会をするって本当ですか?」
文枝の表情が少し曇った。
「ああ、それ……」
文枝はソファに腰掛け、深いため息をついた。
「出版社が勝手に決めてしまったのよ。断ろうとしたんだけど、既にポスターまで作られていて……」
「でも、文枝さんは名前を残したくないって言ってましたよね。詠み人知らずになりたいって」
文枝は静かに微笑んだ。
「理想と現実は違うものよ。私の本を出してくれている出版社には恩義があるの。完全に断るわけにもいかなくて」
千尋は複雑な表情で文枝を見つめた。
「矛盾してるじゃないですか」
「そうね、確かに」
文枝は素直に認めた。
「人間は矛盾の塊よ。私だって例外じゃない。理想を語りながらも、現実には妥協することもある。でも、それも含めて生きるということなのかもしれないわね」
千尋はその言葉に返す言葉が見つからなかった。彼女の中では文枝は完璧な存在、揺るぎない信念を持つ人だと思っていた。しかし、今目の前にいるのは、弱さも矛盾も抱えた一人の老女だった。
「お腹空いたでしょう? 夕食にしましょう」
文枝は話題を変え、立ち上がった。千尋も黙って立ち上がり、食事の準備を手伝った。
二人は黙々と食事をした。静かな時間が流れる中、千尋は文枝の本で読んだことを思い出した。
「文枝さん、『無常を生きる』読みました」
「そう、どうだった?」
「すごく面白かったです。特に臨死体験の部分が」
文枝の表情が少し変わった。
「あれは若い頃の経験ね。あの三日間で私の人生観は大きく変わったわ」
「何を見たんですか? その三日間で」
文枝はしばらく黙って、遠くを見るような目をした。
「言葉では表現しきれないのだけど……強いて言うなら、『境界の消失』かしら。私と世界の境界、生と死の境界、すべてが溶け合う感覚。そこには『私』という存在はなく、ただ大きな流れの一部があるだけ」
千尋は息を飲んで聞いていた。
「そんな経験から、名前にこだわらなくなったんですか?」
「ええ、そうね。『私』という幻想から離れると、名前も業績も、ただの泡沫のように思えてくるの」
千尋は黙って箸を置いた。文枝の経験は、彼女の理解を超えていた。しかし、同時に強い憧れも感じた。こんな深い精神的経験をした人間になりたい。でも、そのためには「名前を捨てる」必要があるのだろうか。
その夜、千尋は眠れなかった。布団の中で何度も寝返りを打ちながら、文枝の言葉を反芻していた。「私という幻想」「境界の消失」……それは本当に理解できるのだろうか。
千尋はスマートフォンを取り出し、インスタグラムを開いた。彼女の最新の投稿には50以上の「いいね」がついていた。普段より多い数字に、彼女は少しだけ満足感を覚えた。しかし、同時に空虚さも感じた。この「いいね」は本当に彼女自身に向けられたものなのだろうか。それとも、ただの習慣的な親指のタップに過ぎないのか。
そんなことを考えているうちに、千尋はようやく眠りについた。
翌朝、千尋が目を覚ますと、文枝は既に朝の習慣を終え、お茶を入れていた。
「おはよう、千尋さん。よく眠れた?」
「はい……いえ、あまり」
文枝は千尋の顔を見て、微笑んだ。
「何か考えごと?」
「文枝さんの言っていたことを考えてたんです。『私』という幻想について」
文枝は驚いたように千尋を見た。
「まあ、そんなことを考えていたの?」
「はい。でも、よく分からなくて……」
文枝は千尋の前にお茶を置いた。
「無理もないわ。私も長い年月をかけて少しずつ理解してきたことだもの」
千尋はお茶を一口飲み、勇気を出して言った。
「文枝さん、私に教えてください。どうすれば『私』という幻想から離れられるんですか?」
文枝は驚いた表情を浮かべ、そして優しく微笑んだ。
「まずは『今、ここ』に意識を向けることから始めるといいわ。過去の栄光や将来の名声ではなく、今この瞬間に起きていることに」
「今、この瞬間……」
千尋は繰り返した。
「そう。例えば、今このお茶の味わい、窓から差し込む光、鳥の声……それらを感じることで、少しずつ『私』という枠組みから解放されていくの」
千尋は文枝の言葉を真剣に聞いていた。そこには、単なる抽象的な哲学ではなく、文枝自身が長い人生をかけて得た実践的な知恵があった。
「でも、それって創作とは相容れないんじゃないですか? 作家は自分の名前で作品を残すわけで……」
文枝は考えるように目を細めた。
「いいえ、むしろ逆よ。『私』にとらわれなくなればなるほど、より普遍的な言葉が生まれてくる。私の名作と呼ばれる作品は、ほとんどが『私』を忘れた状態で書かれたものなの」
千尋はその言葉に深く考え込んだ。彼女の創作は常に「私の作品」「私の才能」という観点からなされていた。もし、その「私」という視点から離れたら、どんな言葉が生まれるのだろうか。
その日から、千尋は文枝から瞑想の基本を教わることになった。毎朝、文枝の宗教的実践に千尋も参加するようになった。最初は座禅の姿勢を保つだけで精一杯だったが、徐々に「今、ここ」に意識を向ける感覚をつかみ始めた。
同居生活が三週間目に入った頃、千尋と文枝の関係はより深まっていた。しかし、同時に千尋の中に新たな葛藤も生まれていた。文枝の教えと、自分の中の強い自己顕示欲。この相反する二つの価値観の間で、彼女は揺れ動いていた。
ある日の午後、千尋は学校から帰ると、文枝がソファに横になっているのを見つけた。普段は姿勢正しく座っている文枝が横になっているのは珍しかった。
「文枝さん、大丈夫ですか?」
千尋が心配そうに声をかけると、文枝はゆっくりと目を開けた。
「ああ、千尋さん。ちょっと疲れてね……」
文枝の声は弱々しく、顔色も優れなかった。
「熱があるんじゃ……」
千尋は文枝の額に手を当てた。熱くはないが、冷や汗をかいているようだった。
「病院に行きましょう」
「いいの、大丈夫。ただの疲れよ」
文枝は起き上がろうとしたが、フラつく様子だった。
「駄目です、横になっていてください。私がお医者さんを呼びます」
千尋は文枝の携帯電話から、かかりつけ医に連絡を取った。医師は「すぐに行きます」と言ってくれた。
三十分後、医師が到着した。老年の穏やかな表情の男性医師だった。
「中澤先生、どうしました?」
医師は文枝を診察し、血圧や脈拍を測った。
「やはり少し血圧が低いですね。最近、食事はきちんと取れていますか?」
「ええ、この子がいてくれるから、むしろいつもより栄養バランスが良いくらいよ」
文枝は弱々しく笑った。
「無理をされていませんか? 原稿の締め切りとか」
「少しね……」
医師は千尋に向き直った。
「あなたは?」
「藤宮千尋です。文枝さんの……えっと、同居人です」
「そうですか。中澤先生は九十歳です。体力的な限界もありますから、無理をさせないでください。特に、長時間の執筆は控えめに」
千尋は真剣に頷いた。
「はい、気をつけます」
医師は文枝に一週間の安静と、栄養剤の服用を指示して帰っていった。
千尋は文枝のために温かいスープを作った。料理は得意ではなかったが、インターネットでレシピを調べながら、一生懸命作った。
「どうぞ、文枝さん。飲めますか?」
文枝は弱々しく笑顔を見せた。
「ありがとう。こんなに大切にされるなんて、久しぶりね」
千尋はスプーンでスープを文枝の口元に運んだ。
「美味しい」
文枝の言葉に、千尋は照れくさそうに微笑んだ。
「ホントですか? 私、料理得意じゃないんです」
「ええ、本当よ。特別な味がするわ」
「特別な味?」
「ええ、心がこもっているから」
文枝の言葉に、千尋は胸が熱くなった。この三週間、彼女は文枝から多くのことを学んだ。文学だけでなく、生き方や死生観、そして「今、ここ」に存在することの意味。最初は単なる偶然の出会いだったが、今では文枝はかけがえのない存在になっていた。
「文枝さん、お願いがあります」
「なぁに?」
「もう無理しないでください。特に私のために」
文枝は驚いた顔をした。
「あなたのために?」
「はい。私のために瞑想とか教えてくれて、でも、それで疲れてしまったんじゃないですか?」
文枝は穏やかに微笑んだ。
「違うわ。私はあなたといると、むしろ元気をもらってるの。久しぶりに若い魂と触れ合えて、嬉しいのよ」
千尋は安堵の表情を見せた。
「でも、もう少し休んでください。原稿も後回しでいいから」
「そうね、そうするわ」
文枝はスープを飲み終えると、ゆっくりと目を閉じた。千尋は彼女が眠るまで傍らに座っていた。
文枝が眠りについた後、千尋はそっと部屋を出た。彼女は自分のスマートフォンを取り出し、インスタグラムを開こうとした。しかし、何かが違うことに気づいた。以前のような「いいね」を獲得する満足感が、薄れているのだ。
代わりに、千尋は小説投稿サイトを開いた。新しい小説を書き始めよう。しかし今回は、名声のためではなく、純粋に言葉そのもののために。
彼女はタイトルを入力した。『境界の消失』。そして、こう書き始めた。
「私の名前は重要ではない。この物語が誰かの心に届くことだけが、意味を持つ」
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