第35話:わたしの名前で、物語を始める
パソコンを起動し、新規ドキュメントの作成画面を開いた。
ファイル名はまだ空白。タイトル未定。登場人物も設定していない。
けれど、あかりの中にはもう、たしかな“始まり”の気配があった。
《風のあとで》の連載が完結して数週間。
少しずつ、生活のリズムが戻ってきた。
部屋の空気も落ち着きを取り戻し、夜更かしも減った。
けれど、ひとつだけ戻ってこなかったものがある。
――静けさ。
心の中にあった“語る必要のない時間”の静けさが、今はもう消えていた。
新しい物語が生まれたがっている気配が、胸の奥をずっとざわつかせていた。
そして、あかりはようやくその声に応えることにした。
構想メモのノートを開く。
そこには、ポツポツと記された言葉たちがある。
思いつきのようなフレーズ、感情の断片、風景のイメージ。
「誰にも届かない声でも、書くことには意味がある」
「失う前にしか見えないものがある」
「言葉はいつも、遅れて届く」
「それでも人は、書かずにはいられない――」
最後の一文に、あかりは視線を止めた。
それは《風のあとで》を書き終えた直後、夜の川沿いを歩いた日のこと。
自分の中にふと湧きあがった感覚を、メモとして残していた。
秋葉との記憶、AIとの対話、創作という行為の重み。
それらを経た今、ようやく“この一文”から物語を立ち上げる準備が整っていた。
秋葉が遺したものではなく、
誰かに求められた物語でもなく、
ただ、自分の中から生まれた言葉で語る物語。
それが、次に書くべき作品だった。
あかりは、一度パソコンから手を離れ、深く呼吸をした。
そして、別のウィンドウを開いた。
――小説投稿サイトのアカウント登録画面。
名前をどうするか、一瞬だけ迷った。
ペンネーム。
匿名でもいい。別名でもいい。
けれど、あかりは自然と手を動かしていた。
入力欄に浮かんだ文字は、
柚木あかり
それは、記憶の中の“登場人物”ではなく、
いまこの場所で言葉を綴ろうとしている、“作者”としての自分の名前だった。
確認ボタンを押すと、ページが切り替わり、アカウントが作成された。
画面の右上に、小さく表示される「柚木あかり」の文字。
それを見た瞬間、胸の奥で何かがカチリと音を立てて切り替わった。
もう、誰かの続きを書く人ではない。
もう、誰かの記憶に寄り添うためだけに言葉を綴る人ではない。
これから綴る物語は、私自身のものだ。
原稿フォルダを開き、新しいファイルを作成する。
ファイル名はまだ「Untitled_01」。
でも、その空白が今は嬉しい。
このページには、まだ誰の声もいない。
これからすべてを、自分の声で語ることができる。
カーソルが画面の左上で点滅していた。
あかりはその点滅をじっと見つめ、そして小さく頷いた。
風は止んだ。
物語は終わった。
――けれどいま、“私の物語”が始まる。
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